物書き少女は星を追う

白ノ光

物書き少女は星を追う

 「んで、協議の結果ね、君の作品は残念ながら落選という形になったんだよね」


 灰色のテーブルを挟んで、私服の少女とスーツを着た中年が向かい合っている。

 部屋に無駄な装飾は無く、生活感のない無機質な空間だった。


 「読んだ感想ね、ちょっと古いかなーって感じだね。題材も内容も流行りじゃないっていうか、ふた回りぐらい遅いかな。ぶっちゃけ、これじゃ読む人も少ないだろうね」


 語尾に「ね」を付けがちな男の言葉を、少女は無感情に見える顔で聞いている。

 掛けている丸眼鏡が光り、どこに視線を置いているのかすら分からない。

 しばらく男の淡々とした批評は続き、少女の提出した作品は特に褒められることもないままに、一方的な会話は一区切りつく。


 「……ま、こんな感じかね。また持ち込んできてよ。次は受賞できるかもしれないからね。じゃあ気を付けて帰って」


 「あの」


 これまで無言だった少女が口を開く。


 「私の書いた原稿、返してくれますか」


 「え? あー、まあ、いいけど。ちょっと待っててね。持ってくるから」

 男は面倒くさそうに席を立った。




 灰色のビルに囲まれた青い空の下を、少女は歩く。足元には少女の髪と同じような色をした黒猫が侍っていた。

 少女の早歩きに猫の歩幅でついていくのは少し大変そうだ。かといって猫は、少女に運んで欲しいとは言わない。

 街も人生も相変わらずのまま。新しい映画、音楽、本、ゲームの広告がでかでかとビルの壁面を飾る。少女はそれを見ることなく通り過ぎる。


 「どうやら、駄目だったみたいだな。そんなこともあるさ。ほら、駅前でパフェでも食べていかないか? 気分転換も大事だぞ」


 黒猫は少女に声をかけた。優しく、気まずさを有耶無耶にするように。

 しかし少女はそんな思いを知ってか知らずか、むげなく断る。


 「食べない。無駄なお金はないし、私は帰ってまた書かないといけない」


 「あ、そう……」


 それ以上黒猫が喋ることはなかった。何を言っても無駄だろうと判断したのだ。

 少女の性格を知っている。彼女はさながら、スポーツ選手のようにストイックだ。そして、暇さえあればペンを握る。

 創作に溢れて満ちた世界で、少女は作家を目指していた。日々、夢を叶えるために原稿用紙に物語を綴っている。

 これまで様々な出版社に持ち込みをしたり、賞に応募などをしているが、成果は芳しくない。持ち込んだ作品を酷評された今日という日の帰り道もまた、変わらぬ日常だった。


 ──危機を告げる警報が街に鳴り響くまでは。


 「おい、そっち行ったぞ!」


 「追え! 光線に気を付けろ!」


 「きゃああああっ!」


 誰かの怒号と悲鳴が入り混じった群衆の声が、街の奥から湧き出す。

 少女も黒猫も、かん高い警報の音と、逃げ出す人々の方を見て敵が出たのだと理解する。

 人間たちの上を飛んできたのは、四、五メートルはあるような巨大なキャンパスと、それを中心として飛び回る小さなキャンパスだった。

 何かが描かれているが、どうにも形を成していない。キャンパスは少女と黒猫に向かって直線的に移動してくる。


 「気を付けろ! 創作の淀みだ!」


 空飛ぶキャンパスを追いかけていた、カメラを抱えた男が注意を促す。しかし少女は逃げようとせず、懐から鉛筆を取り出した。

 創作の淀みとは、創作活動こそ至上のものとなったこの世界に生まれた歪みだ。人々が創作に対し抱えている悪が形となった。

 この飛び回るキャンパスは、呼称名「絵画の水子」。途中まで描かれるも、完成させられることなく放置されていた絵画の成れの果てだ。

 絵の具が中途半端に塗られたキャンパスの表面から、カラフルな光が発射される。それに触れてしまった電柱やビルは、途端に部品が外れバラバラに分解された。


 「なんだこれ、まるで作られる前みたいに……! こりゃ逃げた方がいいぞ!」


 絵画の水子は、創作として産まれることができなかった世界を呪っている。放つ光は、物体を己と同じく未完成にする力を持つ。

 敵の強さを認識した黒猫は、少女に危機を告げるも、彼女を動かすことは敵わない。

 創作の淀みを倒すのは、クリエイターの持つ創作の力だ。創作の淀みの元は創作の力であれば、同質の力こそ戦う力となる。

 創作の力を持ち、形にして世界に産み落とす者。それこそ、クリエイターと呼ばれる創作者たちだ。


 「──夜明けの海へ!」


 少女は鉛筆をキャンパスに向かって構え、かつて自分が生み出した本の名を唱える。

 空中に、水の泡と共に大きな魚が姿を現す。魚はキャンパスに向かってぶつかるように突進した。

 暴れる創作の淀みを止めんとして放たれた一撃だが、悲しくもキャンパスの勢いを削ることすらない。


 「くっ!」


 少女は魚ごとキャンパスに弾き飛ばされ、尻もちをつく。

 小さなキャンパスが少女を取り囲み、光を放とうとする。触れれば未完成となってしまうそれを人間が浴びればどうなるか、分かったものではない。

 防御しようと鉛筆を再び構えるが、その必要はなかった。


 「雷雨の神々!」


 「鋼鉄の百人!」


 青かったはずの空は途端に黒くなり、雷が幾度となくキャンパスへ向かって降り注いだ。

 小さなキャンパスごと宙から地面へと落とされた絵画の水子は、続いて空から降ってきた槍の雨に串刺しになる。

 強力な創作の力による攻撃を受けた淀みは、キャンパスの端から段々と霧散して消えていった。

 代わりに少女の前に現れたのは、二人の男だった。少女が映画に詳しい人物であればすぐに分かったであろう。この二人は、著名な映画監督だった。


 「やった、創作の淀みを倒した!」


 「取材いいですか!? インタビューお願いします!」


 危険な敵がいなくなったと見るや、周りで機を窺っていたマスコミたちは、一斉に今回の立役者のもとへ駈け寄った。

 少女は完全に蚊帳の外となり、倒れているところを誰が起こしてくれるわけでもないので、一人で起き上がって服の埃を払う。

 もう潮の香りはしない。手のひらを擦りむいただけの少女は、歩いてその人だかりから離れた。


 「ま、お前が無事でよかったよ」


 黒猫はそれだけ言って、少女の後をついていくように歩き始める。

 自分が囲まれて取材を受けるヒーローでありたかった、とは少女は思っていない。あまり目立ちたくないという性分であった。

 しかし、彼らのような力に憧れないわけではない。あれほどの創作の力の行使は、それだけ彼らの作品が愛されて人気であるという証明に他ならない。

 彼らのように街を守るどころか、自分の身を守る力すらなかった。少女にはそれが一番悔しい。


 「あのっ!」


 不意に、背後から声をかけられる。少女が振り向くと、そこにはランドセルを背負った、小学生と思しき小さな女の子が立っていた。


 「こ、これ! この本の作者さん、ですか?」


 女の子がランドセルを開け取り出したのは、少女が以前に同人誌として作った小説だった。

 タイトルは「夜明けの海へ」。暗い海の底に棲む魚が、海の上には温かく輝く太陽があるという噂を聞き、海上を目指して泳ぐという話だ。

 少女が絵画の水子と戦うところを、この女の子は見ていたのだろう。少女の言葉と共に具現化する魚を見て、彼女が作者であると気づいた。


 「……うん。その本は確かに、私が書いたよ」


 普段はあまり感情を表に出さない少女も、その本を持ってこられたことには驚きを禁じ得ない。

 静かな口調ながらも、声に驚愕の色を含んでいた。


 「わあ、本当に!? 私ね、この本が好きなの! 書いた人に会えるなんて!」


 「ねえ、この本、どこで手に入れたの?」


 喜びの笑顔を湛える女の子に、少女は尋ねる。小学生がそれを持っていることが、どうしても気になった。


 「え? えっとね、私ね、向こうの学校に通ってるんだけどね。この前、お祭りをやったの。お母さんとかお父さんとか、大人の人もたくさん来るの。そこでね、皆の要らないものを売ったりする場所があるんだけど、そこで買ったんだぁ」


 「……そう」


 少女はそれだけ言って、何かを得心したように頷いた。


 「それよりもさっきさ、おっきな絵と戦ってたでしょ? すごい!」


 「別に、すごくはない。結局何もできなかったし……」


 「でもでも、かっこよかった! お魚が、びゅおーって泳ぐの!」


 細い両腕を広げ、身振り手振りで女の子は感想を伝えようとする。可愛らしい仕草だ。


 「じゃあ、ちょっと本借りるね」


 少女はしばらくその様子を見つめた後、女の子の持っている本をそっと手に取った。

 本を取られた女の子は何を言うでもなく、ただ少女が何をするのかをじっと見ている。


 「はい、返す。これでサイン付き」


 少女は本の裏表紙に、ボールペンで自分と女の子の名前を書いた。女の子の名前は黄色い帽子のタグを見て判別していた。


 「わぁ~! ありがとう!」


 「じゃあね。気を付けて帰って」


 本を掲げて回転し始めた女の子を後にして、少女と黒猫はその場を去る。


 「これからも頑張ってください!」


 最後に背中から聞こえた声に、少女は片手だけ振って応えた。




 暗く狭い部屋の中で、机の上の電灯だけが光っている。文字を書き連ねる音と、時計が時を刻む音だけが響く。

 カーテンは閉め切られ、外が朝か夜かも分からない。部屋の主にとってはどうでもいいことだった。

 机の上に乗せた原稿用紙に、少女はひたすら物語を創っている。おおよその物語は既に頭の中にあり、ペンはそれを出力するだけの装置だ。


 「今日は驚いたな。まさかお前の本を持ってるやつに出会うなんて。なあ、あの本って何部売れたんだっけか?」


 「……三部」


 「それが小学校のフリーマーケットに流れ着くなんて、面白いこともあるもんだ。しかもサイン付きになって世界にただ一つの本になったわけだ!」


 黒猫はおどけながら少女の隣の席、彼のために用意されているイスの上に飛び乗る。

 そして手を動かし続ける少女に、無言で食事の催促をした。


 「ん」


 少女は机の隅に丸めてしまっておいた原稿用紙を、黒猫に突き出す。今日終わった夢の残骸だ。

 黒猫の口が開いたかと思えば、するすると原稿用紙を飲み込んでいく。約二百枚あった原稿用紙の丸まった筒は、完全に消えた。


 「あの子がいたから、だね」


 「は?」


 少女はぼそりと呟く。


 「私が創作の力を扱えるようになったの。あの子が読んでくれていたから、僅かだけどこうして魚が出てくるようになったんだ」


 少女の指先から、淡い水の雫とともに小さな魚が宙を泳ぐ。

 創作の力の源は、創作物の受け取り手からのエールに他ならない。少女にも、エールをくれる読者が一人だけいたようだ。


 「ああ、そうだな。大切にするといいさ」




 少女は書き続ける。幾度世界が朝と夜を繰り返し、花が芽を吹き枯れても。

 一つだけ点いた灯りの下で、何を気にすることもなく、ただ物語を語り終えるまで。

 休憩の合間に、少女は音楽プレイヤーにイヤホンを繋げ、溢れる重低音を嗜んだ。

 クリエイターは創作を己が血肉として生きる。少女は特に、物語と音楽の摂取を好む。書きながらでも手軽に取れる食事だからだ。


 「お前は、いつまで創作を続けるんだ?」


 黒猫が静かに問う。


 「夢が叶うまで」


 少女は即答する。


 「夢か」


 「本屋の棚の隅に、物語をひとつ。ひっそりと置いてくれればいい」


 富も名声も少女の欲するところではなく。


 「たまたまその物語を読んでくれた人の、星になりたい。小さくても構わない。ただ、その人の道を照らす助けになれれば」


 少女もまた、頭上に星を見ている。あの星にならんとするのは、かねてより自分が星に夢を抱いているからだ。


 「売れる気配もないのに、そんな日が来ると思っているのか?」


 黒猫は、少女を馬鹿にしているわけではない。彼女の答えを聞きたかった。


 「歩き続けている限り、いつかは。何十年と先の未来かもしれないけど、それでも」


 「相変わらずだな、お前は。ああ、安心したよ」


 その答えは、確信ではなく願望に近い。そうなってほしいという思いに、ただ縋っているようにも見える。

 黒猫はもう喋らない。少女も、執筆に集中してペンの音だけを響かせた。




 公園のベンチの上で開いた雑誌。目的の小説大賞発表のページに、少女の名前はなかった。

 少女はそっと雑誌を閉じると、イヤホンを耳に付け空を眺める。白い雲は風に流され、千切れ千切れに離散していく。

 噛み飽きたガムの様な音楽と、公園のゴミ箱一杯に突っ込まれた漫画雑誌、小石代わりに転がるサイコロ。それがこの街だった。

 使われて一生を終える創作もあれば、誰に見られることもなく死んでいく創作もある。飽食の時代だろう。


 「チッ。まったく見る目のない連中だよな、選考した奴ら。お前が丹精込めて書き上げたものを、容赦なく叩き落しやがる」


 隣の黒猫の言葉に、少女は何も応えない。音楽を味わいながら空の彼方を覗いている。


 「お前がどれだけ苦しい思いをしているのか分かってない。本が出なきゃ暮らしていけないんだぞ。家賃だってもうそろそろ払えなくなるし、最後に味のする食事をしたのだっていつか分からん。なのに……」


 黒猫は少女の代わりにと世界に対する不平不満を吐き出すが、途中で止めた。


 「んだよ。聞いちゃいねぇな」


 動かない少女を見て、黒猫も欠伸をして香箱に座り込む。すると、少女の腕が持ってきていたカバンに伸びた。


 「ただ、私の物語が必要とされてないだけ」


 丸まった原稿用紙が黒猫に差し出され、黒猫はそれを飲み込む。応募した作品の、いくつかの没案や書き直しの残りだった。


 「あの人の指摘はもっともだよ。私の書く物語は古くて、時代遅れ」


 「古いからって面白くないわけじゃないだろ」


 「じゃあ、私の書く物語が古くて、面白くなかったってだけ」


 少女はイヤホンを外してカバンにしまう。何でもないように、自分の作品を貶して。


 「面白く書けなくてごめんね。まだまだ、努力が足りないみたい」


 「……誰に謝ってんだよ」


 「ええと、物語の登場人物……?」


 二人が公園を離れ家に帰ろうとすると、先日聞いたのと同じ警報が鳴り出した。

 ビルの壁面の液晶パネルには、注意喚起を促すテロップが流れ始める。大型の創作の淀みが現れたらしい。呼称名「駄作認定」。

 そして、その液晶パネルをビルごと内側から破壊して飛び出してきたのは、四つん這いの巨人のような化物だった。

 人間で頭部にあたる部分は、上顎から上がコップのような器になっており、底から歯が覗くような姿は恐ろしい。

 また、腕も複数生やしており、身体の大きさ自体も相まって神話の怪物のようにも思えた。


 「これは随分と大物だな……! とっとと逃げるぞ、対処は他にやりゃせりゃいい!」


 街の住人が騒めき逃げていく中を、創作の淀みは悠々と這い回る。どこか目的地があるのか、通行人に構うことなく、道中の邪魔な建造物だけを破壊していく。

 公園のゴミ箱を踏み潰す大きな足を見送った後、少女は大切なことに気付いた。


 「夜明けの海へ!」


 クリエイターの叫びに応じ、コンクリートの海から魚が顔を出す。少女は一も二もなくその背に飛び移ると、バイクのように飛ばした。

 向かう先は家でなく、創作の淀みの進行方向だ。どうしても先回りする必要がある。


 「おい待てって! どこ行くんだよ!」


 置いて行かれた黒猫は少女を追いかけた。




 「あァ……?」


 妬みと絶望から生まれた闇は、その粗野な口を開いた。

 自らの行く手を塞がんとする者がいる。ここに来るまでもそういった者たちを倒してきたが、彼らは集団であり一人ではなかった。


 「おま、お前ェ、なんだァ? 退けよ、逃げろよ。死にてェのか?」


 少女は車が放置された道路の真ん中で、逃げる住人を余所に怪物を睨んでいる。


 「この先へは進ませない」


 「あ? あ? 俺よォ、この先のビルに用があんだ。お前とかどうでもいいからさマジ。ゴミみたいに消えてくんね? 潰すのもめんどいわ」


 何を言われても少女は退かない。常に携帯している鉛筆を取り出すと、魚群を召喚してみせた。

 小さな魚の群れは横一列に一斉に広がり、道路の上に明確な線を引く。彼女にできる最大の創作の力の行使だ。


 「あのさ、俺はよ、あの出版社潰しに行くの。なんなのお前、そこで本出してんの? ……違うよな。だって全然力弱いし。駄作しか書けねーニオイがプンプンすんだ」


 「どうして出版社を潰すの?」


 「あ? んなんひとつだろ。スゲームカつくじゃんか、あいつらさ。知らない? 俺たちのことを好き勝手言って棄てやがる。駄作駄作っつって嗤って、上から俺たちの物語を切って殺すんだ。マジイラつくぜ。じゃあ当然だよな、殺してきた分だけ殺し返されても」


 駄作認定とは、迫害された物語たちの無念である。自らを駄作と呼んだ者たちへの強い復讐心を抱いている。その評価が正当であるか否かに関わらず。

 少女は彼の言葉を肯定も否定もしない。


 「それは、勝手にすればいい」


 「あァ?」


 思わぬ返答に、駄作認定も首を傾げた。

 目の前の人物はてっきり、自分を倒しに来たものだと考えていた。そうでないなら何用なのだろう。


 「私はただの作家志望で、正義の味方じゃない。傷つくのは怖いし、戦わないで済むならそれに越したことはない。でも、この道は通らないで。学校があるの。皆避難してる。あなたが通れば、大変なことになる」


 少女の言葉に駄作認定は大笑いすると、頭から丸めた紙ゴミのようなものを溢れさせ地面へ零した。


 「馬鹿馬鹿馬鹿バァーカ! 言ってることとやってることが矛盾してんだよォ!」


 落ちた紙ゴミは黒い瘴気を発生させ、少女と魚群の力を削いでいく。強い憎しみの念だ。


 「お前にィ、教えてェ! 教えてやる! 才能のない人間はなァ! 何しても駄作しか書けねェんだよォ!」


 駄作認定は右腕を大きく振りかぶると、少女と、その後にある小学校を一直線に狙いを定めた。


 「お前のやってること、全部無意味ィ! いくら努力なんかしても、時間の無駄ァ! なんにもできないんだから────創作なんざ止めちまえェ!」


 怪物の腕は張り手のように、上空斜め上の角度から地面に向かって突き出された。

 他のクリエイターがこの場に現れるには、まだ時間が掛かる。守りたいものがあるならそれは、自分の力で守るしかない。

 少女は鉛筆を強く握ると、その先端を迫る掌に向けた。水の泡が彼女を幾重にも包む。


 ──次の瞬間、激しい衝突音が街に響き渡った。




 暗く狭い部屋の中で、机の上の電灯だけが光っている。たどたどしく文字を書き連ねる音と、時計が時を刻む音だけが響く。

 少女の左腕はギプスの入った包帯で固められていた。左半身を机の上にもたげた歪な姿勢で原稿用紙を押さえ、右腕で新たな物語を綴っている。


 「あのさ……。流石に今日ぐらいは休んだらどうだ? 入院させられるはずだったのに、無理矢理家に帰ってきて……」


 「大丈夫。右腕さえ無事なら字は書けるから。それに、書くのを止めたら私は死ぬ」


 黒猫はため息をつくことしかできない。

 息をするように常に何かを創作し続ける、クリエイターとはそういう生き物だった。

 だが強い疲労感と身体の痛みは重く響いたのか、少女は創作の合間に小休憩を多くとった。

 休憩に使うのはいつもの音楽ではなく、一冊の古びた本。少女が多くの想いと願いを馳せた、傍にある遠くの星だ。

 休憩の度に適当なページから開いて読み進める。何度も味わっている。最初から食べ始める必要はない。


 タイトルは「今際の花」。不死の怪物が遠くの国の王女のもとへ、一輪の花を届けに行く話だ。

 旅の道中、如何なる差別や攻撃を受けても怪物はその歩みを止めなかった。最後には老いた王女の死に際に花を届け、怪物はその不死の旅を終える。

 少女が昔読んだその物語は、幼い心に強い導きの光を与えた。以来、彼女はその光を辿って道を歩いている。


 「上機嫌そうだな」


 「うん」


 誕生日などの特別な日に、少女はよく自分の原点を見返す。今日は左腕を骨折したが、それでも特別に嬉しい日だ。

 理由ははっきりしている。少女の身を挺し壁になったことで、小学校は全損を免れた。本校舎の一部は倒壊し怪我人も出たものの、死傷者はいない。

 駄作認定は少女を吹き飛ばした後、追い付いてきたクリエイターらに討伐されたようだ。意識のなかった少女は、病院で目覚めた後に事の顛末を知った。


「よかったな、読者を救えて」


 「うん」


 少女は黒猫を見てはにかむ。

 彼女が守りたかったものは、小さな自分の読者だった。いつか出会ったあの女の子は、入院こそしているが深刻な怪我ではないようだ。


 「………………」


 本を開いていた少女の手が、急に止まった。思い出してしまったのだ、創作の淀みに吐かれた言葉を。

 机の上の、書きかけの原稿を手に取る。少女にはこの物語が面白いのかどうか判別がつかない。

 自分が面白いと思うものを書いているつもりだが、実際、他人からどう見えるのかなど分かりはしない。全て滑稽な一人芝居ということもあるだろう。


 「無意味」、「時間の無駄」。浴びせられた言葉は毒となり、少女の幸福に水を差す。

 毒はゆっくりと回り始め、心に陰鬱を呼び込む。陰鬱は冷たく、凍り付く。凍えた心は腕の動きを鈍らせ、やがて何も書けなくなる。

 決して正義の味方ではないけれど。自分にもっと才能があれば、きっと、もっと多くの人を救えたのに。少女は自分の無力さを悔やむ。

 あの子だって、怪我をしなくて済んだはずだ。ギプスで固定された左腕が、痛みを訴える。


 「いつかなれるのかな、私。誰かの星に」


 暗く、深い海の底のような部屋の中で、少女はぼそりと呟いた。

 珍しく弱気な態度を見せる少女を前に、黒猫は立ち上がって机の上に飛び移る。そして少女に、まるで心を覗いたかのような口ぶりで話し始める。


 「……こんなのはあんまりだ。なぜお前が苦しむ必要がある。お前はただ、自分の夢を叶えようとしているだけじゃないか。なのに誰も、それを認めようとしない」


 電灯に照らされ、黒猫の影が大きく伸びる。だがそれは、少し異様な大きさにも見えた。


 「おかしいよな。お前が望んでいるのはささやかな幸せだ。本屋の棚の隅に、その物語をひとつ、ひっそりと置いてくれればいいんだろう? 何が悪いってんだ。必死に咲こうとする花を、寄ってたかって踏み潰しやがって」


 その語気には段々と怒りの色が混じる。黒猫はまるで、少女の境遇を自分自身のことのように嘆く。それは、単なる同情ではない。


 「冷たい風に吹かれてお前が枯れていくなんてこと、俺が許せるものか。なあ、憎くはないのかこの世界が。お前の存在価値を否定する、この残酷で光のない世界が」


 黒猫の形をしたものは問う。少女の返答如何では、この街でまた大きな騒動が起こることになる。

 少女はしばらく目を瞑った後、首を小さく横に振った。




 悪夢を見る。絵の具を滅茶苦茶に混ぜたような色の、混沌とした渦の中で、少女は溺れていた。


 「無駄な努力、やめちまえェ!」


 誰かの叫び声が聞こえる。


 「本なんて、お前が書かなくても誰かが書く! 才能のないお前の作ったモノに価値はない! 誰もお前の創作を見ない」


 それはどこから聞こえてくるのか不明だが、少女を渦の奥へと引きずり込もうとする。

 少女は腕を伸ばし藻掻き、息をしようと試みる。だが願い虚しく、泥のような水が喉を塞ぐ。


 「無意味なんだよ、全部。どれほど時間を掛けようと、どれほど深く執着しようと、できあがるのはゴミばかり。駄作は評価もされず廃棄処分だ。才能がなけりゃ生きていくことすらできやしないィ! なあ、そうだろう?」


 渦に飲み込まれ海中へ沈んでいく。上下も左右も曖昧になり、どこへ行けばいいのか分からない。

 海の底はとても冷たく、暗い。海面から差し込む光も最早見えることなく、少女は世界の片端へと追いやられる。

 少女がいようといまいと、誰も気づかないだろう。この海で、少女という存在は路傍の石と変わりない。

 自分が無意味で無価値なのだと思い知らされる。どこからか聞こえた声に、反論する気力すら奪われる。


 それでも。

 少女は、星に手を伸ばした。


 海底の砂地から、海上の空へ向かって。決して届かぬと知っていてなお、もしかしたら掴めるかもしれないと、泡のように淡い夢想を描いて。


 『これからも頑張ってください!』


 違う、鈴のような声が聞こえる。

 少女の顔の横に、一輪の花が咲いた。

 何もかもが見えなくなった深海で、唯一その花だけが光となる。

 声がひとつ、導がひとつ。この広く深い海の中では頼りないだろうか。いいやそんなことはない。それだけあれば、十分だ。


 「私は天才じゃない。大きな才能も持たず、一生をかけてもきっと、人気者になんかなれやしない」


 一人、誰に向けるでもなく言葉を紡ぐ。


 「でも、でもね。才能がなくてもいつかは届くんだって。物語を積み重ねて行けば、いつかは海を出て星になれるんだって信じてる」


 砂の地面から、巨大な魚の顔がせりあがり、少女を顔面に乗せたまま浮上し始める。

 魚の鱗は、奇妙なほどに色とりどりだ。深い緑色のものもあれば、蛍光のピンク色もある。とりとめのない色だったが、全て魚の一部だ。


 「涙で空が見えなくなったって、私は止めない。だって、私を認めてくれる人がいる。私を星にしてくれる人がいる。その人のために書かなきゃ永遠に、夢は夢のままだから────!」


 深海魚は、その勢いのままに海面から飛び出した。少女は淀んだ海を眼下に、澄み切った宙へと上っていく。

 いくつもの星々が少女の周囲に煌めき、一際大きい星に少女は吸い込まれて、消えた。




 目を開ければ少女は、カーテンの隙間から漏れる薄い月明かりで、自分の首を絞める怪物の正体を見た。

 寝ていたため、丸眼鏡はかけていない。しかし裸眼であっても、その淀みの塊は実によく目立つ。

 ベッドで寝ている少女に馬乗りになり、少女を喰わんと狙うもの。一度出会ったときからかなり小さくなり、子供のような大きさまで縮み、下半身すら砕けて失われている。

 だが駄作で満ちた頭の中も、人を嗤うその口も健在だ。駄作認定は傷つきながらも、まだ復讐の続行を望んでいた。


 「才能ないクセして粘るんじゃねェ! つまらねェ理想ばっか見てないで、現実を認めやがれ! お前の書く駄作じゃ、どこにも行けねェだろうがよォ!」


 少女の首を圧迫する力が強くなる。悪意と暴言に息を詰まらせ、少女は苦悶の表情を湛える。


 「あァん!?」


 白い彫刻のような駄作認定の腕が、細い少女の右手に掴まれた。そのまま徐々に持ち上げられ、首を絞める指が解けていく。


 「それでも、諦められない夢がある……! 誰がなんと言おうと、これは私の夢なんだ……!」


 絞り出すように、小さく、しかし力強く少女は訴える。

 少女の包帯で固定された左腕が駄作認定の顎を押し出し、彼女を闇に引きずり込もうとした創作の淀みは弾き飛ばされた。

 どれほど身体が痛もうと、心が削られようと、星を追う少女は止まらない。創作に生かされた少女は、創作に死ぬものと決めていた。そして終わりはまだ、ここではない。


 「ふざッ……けんなよォ! お前もこいよ、コッチ側にィ! 俺の一部になれよォ!」


 月明かりに、黒い影が映し出される。黒猫がそこにいた。音もなく、光る両目で、みっともなく嘆く怪物を前にして。


 「この子は、決して折れない。お前みたいな淀みに溺れることもない。失せろ、駄作認定。込められた祈りも忘れ、人を嗤うことしかできなくなった物語よ」


 大きな影が、淀みを咥えて飲み込んだ。後にはもう何も残っていない。


 「……ふう。とうとう正体を明かしてしまったな。そうだ、俺も創作の淀みだよ。お前にせっせと育てられた、な」


 名付けるとするならば、「日陰の花」。誰に読まれることもなく消えていった、無数の物語たちの化身。

 少女が生んで、費やしていった努力と時間。その代わりに与えられた絶望の、代弁者である。


 「助けてくれて、ありがとう」


 少女は何を恐れることもなく、ただ礼を言った。黒猫は呆れたように鼻でため息をつく。


 「俺が今からお前を喰うかもしれないとは思わないのか?」


 「まさか。こんなに一緒に居て私のことも心配してくれて、今更。それにあなたがそういう存在だっていうのは、ずっと前から知ってた」


 寝間着姿のまま起き上がると、少女は枕元に置いていた眼鏡を掛け、執筆机に向かった。

 書きたいものがまた増えた。普段より早い起床だったが、選ぶのは二度寝より創作だ。


 「分かってて俺にエサをやったのか?」


 「ん。だって、せっかく書いたんだもの。誰かに読んでほしいものでしょ?」


 黒猫はにやりと口角を上げながら、首を振る。そのまま少女の隣のイスへと移動すると、いつものように座り込んだ。

 黒猫は期待した。自分たちのような物語の屍を積み上げた先に、貴い芽吹きがあることを。

 その終わりなき努力が、実を結ぶまで。




 白い壁、白い天井。消毒液の匂いで満たされた空気。

 病院の一室まで少女は足を運んだ。駄作認定が現れ、街を破壊した一週間後のことだった。


 「あ、お姉ちゃん!」


 ベッドの上の、病衣を着た女の子が声を上げる。

 他にも寝ている患者がいるため、少女は静かに口元に指を立てた。


 「元気そうでよかった。痛むところはない?」


 「うん、大丈夫」


 今度は声量を落として女の子は答えた。

 創作の淀みに与えられた怪我のため、念を入れて入院こそしているものの、彼女は既に健康体だ。


 「学校、守ってくれたんだよね。私知ってるよ。あのおっきな怪物の前に立ってたもん、お姉ちゃん」


 少女はただ、微笑むだけ。誇示も肯定もしない。


 「でも、学校壊れちゃって授業なくなっちゃった。しばらく友達とも会えないし、やだなー寂しいなー」


 女の子は不満そうに頬を膨らませ、窓の外に目をやる。

 長閑な青空広がるビル街は、平和そのものだった。創作の淀みも出現していない。


 「はい」


 少女は、カバンから原稿用紙の束を取り出した。ボールペンで書き連ね、果てない理想を形にした、少女の夢。

 綺麗な字で綴られているのは、冒険活劇だった。それを載せた紙の総量は分厚く、重い。


 「なにこれ! もしかして、お姉ちゃんの新作!?」


 「まあ、そんなとこ。無駄に小難しくて、読みにくいかもしれないけど……。暇つぶしになってくれれば、嬉しい」


 女の子は両手で原稿を掴み、震えながら感動していた。少女の想像以上に、喜ばしいプレゼントだったようだ。


 「全然大丈夫! ありがとうお姉ちゃん!」


 女の子の声がまた声が大きくなる。少女はファンの笑顔に満足して、病室を去ろうと足を動かした。


 「あ、待ってくださいっ! ねえ、どうしてこんなことしてくれるの?」


 純粋な疑問だ。どうしてか少女は自分に優しく、自分のためにお見舞いと物語まで持ってきてくれた。

 女の子は少女に、特別何かをしたという記憶はない。本当につい先日、出会っただけなのに。


 「君の声が、また私の手を動かした。これはほんのお礼」


 少女はそれだけ言って出て行った。

 女の子は頭に疑問符を浮かべたまま、貰った原稿の最初の行から読み始める。




 自分の生んだ創作に対する感想など、少女が久しく得ていないものだった。

 純真な心から届けられた言葉は、少女の夢を追う熱の、薪となる。

 そうした言葉を重ねれば、きっといつか届くだろう。夢見た星へ、か細い指先が。


 「おい、良かったのか?」


 人々の雑音がひしめきあうコンクリートのジャングルで、少女の後をついてくる黒猫が問う。


 「あれ、賞に応募するやつだろ」


 「そのつもりだったけど、止めた。書き過ぎちゃったから応募要項通らないや。それに……」


 手の平で眩しい太陽の日差しを遮りながら、少女は碧空を仰ぎ見る。

 いい天気だ。雲ひとつない鮮やかな天気は、心地の良い風を吹かせていた。


 「あの子が一番、喜んでくれそうだったし」


 「そうかい。じゃ、俺の食事はなさそうだな」


 「賞に応募する作品はまた書く。ごはんに困ることはないよ」


 何度も聞いた警報がまた鳴った。創作の淀みが生まれたらしい。

 街頭のテレビニュースで注意喚起がなされる。それを見たクリエイターたちは、自分たちの得意の得物を手にして動き出す。

 少女も鉛筆を握った。昔から使い続けている相棒だ。


 「……よし」


 少女は決意を胸に歩き出す。己の力で少しでも、誰かを助けるために。

 遠い宙の、星になるために。

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物書き少女は星を追う 白ノ光 @ShironoHikari

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