壁に耳あり
香久山 ゆみ
壁に耳あり
古いアパートの一室。ぐるりから何か聞こえる。ざわざわ。囁くような。音の出所を探して狭い部屋の中じっと耳を澄ませる。微かな音を辿って畳の上を一歩一歩進む。じっとりした畳の湿り気が白い靴下を通して伝わる。音は目の前の壁の中から聞こえる。ような気がする。わからない。わからないまま、じいっと目の前の壁を見つめる。土壁。黄土色の土壁の中から囁き声は聞こえる気がする。しかし、そんなはずは。ここは二階の角部屋であり、この壁の先は隣室に繋がらず、外に面する。歩行者の声が筒抜けているのだろうか。そんな薄い壁だろうか。古い土壁は見るからに脆そうで、耳をつけることを躊躇う。代わりにそっと目の前の壁に手を伸ばす。案の定、ぱらぱらと壁が崩れる。心なしか、崩れた壁の中から音は少し大きくなった気がする。それで、よせばいいのにそのまま土壁をぼろぼろと剥がす。すると。
「わ」
僕は思わず声を上げ、手を引っ込める。耳。目の前の土壁から耳が出た。白い耳。えらいものを掘り出してしまった。どうしよう。人が埋まっている。どうしようどうしようどうしよう。通報? いや。いやいやいや。僕は。だめだ。届け出る訳にいかない。だって。いや。どうしよう。
懊悩する僕が頭を抱えた拍子に、どっと四方の壁から笑い声が沸く。待っていたとばかりにあちらからこちらから声が上がる。姿はない。壁の中だ。部屋の、あちこちの壁から声が。姿は見えない。けれど壁の中から。壁に女達の姿が浮かぶ。笑っている。嗤っている。
そうして僕は壁の人となった。古い土壁に吸収され、囚われた。壁の中から黄色い歓声が上がる。そばの壁から男の声がする。「あんたもまんまとなあ。女達は淋しいからああして仲間を増やしたがるんだ。俺は止めたんだが。聞こえなかったかい」そう言って溜息を吐く。低い溜息をあちこちに感じる。壁の中には想像以上にたくさんの人が埋まっているようだ。獲物をしとめるやあれだけ甘い言葉を吐いていた女達は途端に静かになる。「口を開けば喧嘩になることをわかっているからさ」壁が呟く。「それに。根っからのお喋りならこんな所にいやしない」
そうしてそのまま幾星霜。壁に時間はわからない。空っぽの部屋では。ただ時間だけが充分すぎるほどに与えられる。
どれ程経ったろう。ある日、アパートの取り壊しが決まった。だが解体業者は乗り込んでくる度に、まんまと壁に捕らわれた。その内、呪われたアパートとして取り壊しは中止されまた長い年月見捨てられることになった。
一体何人が壁に囚われているのだろう。随分になるはずだが、とても静かだ。皆寂しい人だから。僕はじっと耳を傾ける。ひそひそと皆の呟きを捉える。苦しいのだ苦しいのだ悲しい怒っている上手くいかない何もかも皆馬鹿だどいつもこいつもどうして私ばかり私が馬鹿だから皆消えちゃえなのに私が消えちゃった。呟きは様々。皆辛いと嘆いている。けどその辛さも様々。こちらの失望があちらの希望だったりする。だがどうしようもない。僕らは壁だから。ただ呟き続ける、自らの嘆きを。今更ながら。僕の嘆きは。なんだったか。認めてもらえない、必要とされない、居場所がない。それで、消えてしまおうと思ったのだ。この朽ちたアパートで。
ある日一人の青年が扉を開けた。絵の具まみれの服を着ている。芸術家を夢見る青年に女達の誘惑は届かない。彼は何を作るのだろうか。土壁を削り始めた。壁を削っては落とした土をどこかへ運んでいく。土はもう喋らない。そして、削られた土から壁の人が出てくることもない。誰も。がりがりがり。青年は削り続ける、夢のため。ついに僕の壁も。
どさっ。
青年が去った部屋。残された土くれから立ち上がる。呆然と部屋を見回す。湿った畳。四方の黄土色の土壁。随分ボロボロだけどどこも削り取られてはいない。ただ目の前に、耳。白い耳。
足を進めて壁の前に立つ。手を伸ばす。白い耳を自分の顔に戻す。僕の耳だ。
人の話を聞き過ぎる。影響されやすい。落ち込みやすい。なのに自分の声には聞こえないふりをした。体の、心の、悲鳴を。そうして駄目になり何もかも捨てようとした。
でもいいんだ、僕は。耳を傾けることは悪いことではない。ただ足りなかっただけだ。自分も声を上げること、自分の声に耳を傾けること。
ドアを開ける。白い靴下で一歩踏み出す。コンクリートの廊下に僕の足跡がついた。
壁に耳あり 香久山 ゆみ @kaguyamayumi
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