飛脚の黒彪

Tsuyoshi

第1話幻の飛脚走り

 彪(こ)太郎(たろう)の部屋の丸い格子窓にそよ風が吹き抜けた。地球柄の風鈴が涼やかな音を鳴らしながら揺れている。その風流な工芸品に描かれた朱色の日本列島が一際目を引いていた。


『今から数十年前、日本に飛脚(ひきゃく)の黒彪(くろひょう)と呼ばれる一人のマラソンランナーがいた』


 彪太郎は『超人アスリート列伝』を読みながら木造の階段をギシギシと音を立てて登っていく。書籍が少年の顔を覆っていて、黒いツンツン頭は見えるがその表情は窺えない。半袖短パン姿の至る所には泥が跳ねたような汚れが目立っていた。


「なになに・・・・・・古くより伝わる武術を用いた独特の走りで幾多の勝利を収め、日本のマラソン界に明るい希望をもたらした最速の男、飛脚の黒彪」


 彪太郎は自室の前に着くと紫陽花(あじさい)が描かれた襖(ふすま)を片手間に開いた。風鈴がまた涼やかな音で鳴る。そのまま六畳間の畳を踏み締めながら学習机に向かった。

 学習机の棚には黒装束の忍者や鎧兜の侍、三度(さんど)笠(がさ)の修行僧のフィギュアが飾られている。そして机の上には『ひまり小学校・持久走大会』のプリント用紙が無造作に広げられていた。


「しかし、彼は・・・・・・連勝中にも関わらずある日忽然と姿を消し去り、その行方は謎のまま。飛脚の黒彪の名は、伝説となっていった」


 学習机で超人アスリート列伝を読む彪太郎は、次に開いたページに目が止まる。そこには気高き野生の黒彪を背景に黄色いスカーフを腕に巻いた好青年ランナーの写真が掲載されていた。


「へぇ・・・・・・黒彪って、動物なんだ。僕の名前と同じ漢字だ」


 彪太郎はフタエでパッチリした瞳を輝かせながら、泥で汚れた口元をニヤリと上げた。

 すると一階のリビングから割烹着姿のママが出てきて、


「彪太郎~、外から帰ったら、ちゃんと・・・・・・まっ!」


 玄関に泥だらけの運動靴が脱ぎ散らかされているのを見て驚いた。それからドタバタと慌ただしい足音を立てて、子供部屋の襖を勢いよく開ける。


「彪太郎!」

「あ、母ちゃん! ねぇ、ねぇ、飛脚って、何? サムライ!?」


 本を熱心に読んでいた彪太郎がママの声に振り向いて訊ねる。


「ヒキャク? あ! もう・・・・・・こんなに汚してぇ。どこ行ってたのよ!?」

「ヘヘヘヘ・・・・・・それはヒミツ。それよりさ!」

「秘密じゃ、ありません!」


 ママが息子の頬を両手でむんぎゅッと摘まむ。


「あたたた…・・・か、かぁちゃん!」

「早くお風呂場に行きなさい。飛脚の事は、パパが詳しく教えてくれるわよ」

「あ、あーい・・・・・・」



 ひまり小学校の校舎裏にある小高い山には、緑が茂る林道があった。その林の間を小さな黒い影が駆け抜けていた。それは樹木の枝へ高々と飛び上がり、木々の間に差し込む夕暮れに照らされる。まるで黒猫のようなシルエットだ。



「ええ? 飛脚?」

「そう。飛脚って、脚(あし)に羽根が生えるの?」


 郵便屋さんの制服を着た小太りのパパ、牛夫がキレイさっぱり寝間(ねま)着(き)姿になった彪太郎に質問されていた。今は夕食時、家族三人で食卓を囲んでいる。今夜はカレーのようだ。

 彪太郎は飛脚の漢字と脚に羽が生えたメルヘンチックな黒彪を頭上にイメージした。そんな息子の想像力に、牛夫は笑って答える。


「ハハハハ・・・・・・そうじゃないよ。飛脚は、昔の郵便屋さんの事。つまり、パパの先輩さ」

「ええ!? 飛脚は郵便屋さんなの!?」


 想像とは違ったパパの回答に、彪太郎は口をあんぐりとして驚いた。

 すると牛夫は彪太郎と共有するように想像しながら、日本地図を広げて地図上に三度笠の飛脚を登場させた。飛脚が関西と関東の間の往復線に沿って走っている。


「昔の郵便屋さんはね、関西と関東の間、東海道五十三次を走って手紙や貨物を届けたのさ」

「そんな遠くまで、走って!?」


 飛脚の身体能力の高さに驚く彪太郎。牛夫は自分がイメージしている飛脚のキャラクターの動きに合わせて、元気いっぱいと言わんばかりに両腕で力こぶを作る。


「そうさ。もの凄く足腰が強くて、片道でも約500㎞ある東海道五十三次を一ヶ月に三度も往復する飛脚もいたんだ」

「わぁ・・・・・・凄いね! 父ちゃんの先輩。カッコイイ!」


 牛夫の想像するのと同じものが彪太郎にも伝わったのか、少年の瞳がキラキラと輝く。


「もちろんだとも! 歩美さん、このカレー、凄くオウシイよ」

「まぁ、やだ。牛夫さんったらぁ・・・・・・」


 息子の疑問に答えた牛夫は、愛妻へ夫としても気遣いを忘れない。低いダンディーな声で洒落て歩美の料理を誉めた。牛夫と歩美は、いまだに新婚かと疑われる程、夫婦仲が良好なのだ。

 一家(いっか)団欒(だんらん)の後、夜もすっかり更けていた。自室に戻った彪太郎は布団に包まり、


「よし、僕も飛脚みたいに頑張るぞぉ」

 

 と、呟きながらそっと瞳を閉じた。



『彪太郎がフワフワと夢遊しているようだ。小学校の校庭の真ん中には、ワンピース姿の女の子が立っているのが見える。ポニーテイルが可愛く温容な雰囲気の美少女、美(み)嬉(き)。小学五年生で彪太郎の同級生だ。


「彪太郎くん・・・・・・私、ずっと彪太郎くんの事が」


 頬を赤くする彼女に寝間着姿の彪太郎はゴクリと息を呑む。潤んだ唇に目が行く。


「なんて、ごめんね」

「え?」

「哀れだねぇ~、お前って奴は。俺の目を盗んで隠し事か~?」


 体操着姿の同級生、金光(かねみつ)が彪太郎の背後にふいに現れて言った。

 彪太郎が金光の声に振り返ったその瞬間、


「カーーーーーツッ‼」


 と金光が鋭く眼を見開いて叫ぶ。すると彪太郎の足元に黒い渦が発生し、


「・・・・・・!? 嘘ぉー!!」


 彪太郎はそのまま奈落の底に吸い込まれていった。』



 バッと勢いよく跳ね起きる彪太郎。


「うわっ! ゆ、夢・・・・・・か?」


 呼吸を乱しながら酷い寝汗で寝間着がじっとりと湿っていた。

 外はまだ薄暗く、風鈴が格子窓の脇で涼しげにちりんと鳴った。

 早朝の静けさとは裏腹に、蝉が五月蝿く鳴き始め出す。

 蝉の眼には和風の門が反射して映り込み、表札には『夏(なつ)輝(き)』と掛かっていた。


「いってきまーす!」


 元気な挨拶と共に、青色チェック柄の制服を着た彪太郎が勢いよく門を開いて走り出す。

 驚いた蝉がジジッと鳴いて空を飛ぶ。電柱が連なる通りを過ぎて、大きな校舎の小学校が見えた。『ひまり小学校』と表記された校門・・・・・・蝉は校舎裏の山に向かって飛び去っていった。



 ホームルーム。ひまり小学校の五年二組では、


「おめでとう、夏輝君。よく頑張ったね!」


 と、彪太郎に担任教師が賞状を手渡していた。賞状には『漢字検定三級・合格』と表記されている。彪太郎は満面の笑みで元気よく受け取った。

 同じチェック柄の制服を着た他の生徒達が拍手を送る。その中央席で一際目立つ美少女、美嬉も微笑んでいた。赤のチェック柄の制服がアイドルのように似合っていて可愛らしい。


「姫野さん・・・・・・」


 彪太郎は拍手される中、美嬉を眺めて頬を赤く染めた。そんな彪太郎に背後から、


「なかなかやるじゃん、彪太郎」


 と、金光が不敵な笑みを浮かべて彪太郎とすれ違う。


「すごいぞ、金光君。三級合格おめでとう!」


 担任教師が金光にも彪太郎と同じ賞状を手渡す。


「えっ!? 金光君も三級⁉」

 

 彪太郎はハッとして振り返る。クールに賞状を受け取る金光が目に映った。


「有難うございます」

『キャーーー‼ 金光ク~~~ン』


 クラスの女の子達の黄色い歓声が上がる。にやりとニヒルな微笑を彪太郎に見せる金光。歓声こそ上げていないが、金光にも笑顔を向ける美嬉を見て彪太郎は苦々しく唇を噛み締めた。



 今朝のホームルームが終わり、体操服を着た冴子(さえこ)が美嬉と一緒に教室から出てくる。冴子は美嬉とは違ってショートボブで体育会系といった雰囲気の女の子だ。


「さすが、金光君よねぇ~。ルックスは良いし、頭も、スポーツも万能なのよ?」

「うん。そうだね。金光君もだけど、夏輝君も頑張ってたよね」

「えぇ~? あれは漢字が得意なだけで、スポーツ音痴じゃん。見たでしょ? アイツの走り方。この間の持久走の練習だって・・・・・・アハハハ」


 冴子が嘲笑しながら美嬉と靴箱へ向かう。廊下の掲示板には『持久走大会・目指せ、2㎞完走!』と表記してある用紙が貼ってあった。


「もう、冴子ぉ・・・・・・」

「だってぇ・・・・・・プププ。今日も見れるかしらね~」



 授業が始まり、校庭の直線トラックでは男の子達が走っていた。その中には彪太郎と金光もいて、それを見るクラスメイト達は様々な反応をしていた。金光に黄色い声援を送る女の子達、そして、大爆笑しながら彪太郎を馬鹿にする男の子達。

 それもそのはず、綺麗なフォームでトップを独走している金光と、左右の手足が一緒に動いた奇怪なフォームで最後尾を走る彪太郎が、あまりにも対照的で特に目を引くからだ。


『キャーーー‼ 金光ク~~~ン』

『いいぞー‼ 彪太郎~‼』


 冴子も男の子達に混じって彪太郎を指差し、声を上げて大笑いしている。


「ちょっと、冴子ぉ・・・・・・」


 隣に座る美嬉は口元に手を当てながらも冴子を窘(たしな)めるが、


「だって、ロボットみたいじゃ~ん!」


 と、彼女の彪太郎に対する嘲笑は止まらない。


「くそぉ~、こんなはずじゃ・・・・・・」


 彪太郎は真剣な表情で、涙を滲ませながら悔しがる。



『彪太郎は昨日の裏山での特訓を思い出していた。半袖短パン姿の彪太郎が、超人アスリート列伝の高地トレーニングが書かれたページを開いている。


「体内にたくさんの酸素を取り込めるようになるトレーニングか」


 彪太郎は山道から見える住宅街を見渡した。


「ここが、この街で一番高い山だ。よぉし、ここで練習して、一ヶ月後の持久走大会では皆をアッと言わせてやる」


 裏山の平地で秘密の特訓をしていた彪太郎。彼は左右の手足を交差させて歩く。


「歩くのはできるんだ。だから、走るのだって、できるはずさ!」


 手足を交差させたフォームのまま、彪太郎は走ってみるが、次第に手足が一緒に出てしまう。』



 彪太郎は直線トラックを懸命に走りながら唇を噛み締める。


(ちゃんと練習したのに・・・・・・どうして直らないんだよぉ!)


 歯を食い縛って心で叫ぶ。その瞬間、


「うわっ!」


 左右の足が交差して絡まり、ダイビングヘッドで滑り転んだ。


「あっ・・・・・・‼」


 美嬉はハッとなり彪太郎を見つめる。


「くそぉ・・・・・・」


 砂にまみれた顔を上げる彪太郎。その姿を見て周囲が大爆笑をする。冴子も腹を抱えて笑っていた。金光も首を振って呆れ顔をしている。


「夏輝君・・・・・・」


 美嬉は心苦しそうに胸に手を当て、心配するように彪太郎を見つめていた。



 放課後の帰り道、ランドセルを背負って通学路を歩く彪太郎の背中が寂しく見える。


「何が超人だ、こんなもの・・・・・・」


 手にしていた超人アスリート列伝を電柱そばのゴミ置き場に放り投げた。


「捨てちゃうの? この本・・・・・・」


 ふと、彪太郎の背後から声を掛けられた。彼はハッとして振り返ると、そこには美嬉がいて先程自分が捨てた本を開いて読んでいた。


「へぇ・・・・・・難しい漢字ばっかり。もう、こんな本も読めるんだ。夏輝君」

「ひ、姫野さん・・・・・・⁉」


 彪太郎に微笑む彼女に意表を突かれて驚いた。


「今度の持久走大会に向けて、練習してたんだね。偉いわ」

「ち、違うよ! 練習だなんて、地味で土臭くてできないって」


 彼女の言葉に、彪太郎は体育の時間の事を思い出して恥ずかしくなった。

しかし、美嬉はそんな彪太郎を包み込むような笑顔を向けて本を差し出した。


「フフフ・・・・・・そっか。途中で諦めないでね、夏輝君。地味でも、いいじゃない  最後まで、目標に向かって頑張ってね」

「姫野さん・・・・・・」


 彪太郎は真顔で美嬉を見つめた。


「ひ、姫野さん! ぼ、僕―――」


 すると美嬉は急に悲しそうに俯いた。


「夏輝君、私ね・・・・・・来月、外国に引っ越すんだ―――」

「・・・・・・!! えっ!?」


 予期しなかった告白に彪太郎は凍り付いた。


「・・・・・・だからね、私も悔いが残らないように、少しでも長くクラスの皆と話していたくて。迷惑、だったかな?」

「そ、そんな・・・・・・」


 美嬉の話も正直耳に入ってこず、ただただショックで呆然とする彪太郎。


「美嬉ぃ~!」


 背後から彼女を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると冴子と金光が見えた。駆け寄って来る冴子に、美嬉は先程までの悲し気な表情を隠して平静を装う。


「あ、冴子ぉ。あれ、金光君も一緒?」


 冴子は金光の腕に恋人のように組み付く。


「ヘヘ、帰る途中に誘われちゃった。あれ、夏輝もいたんだ」


 金光は彪太郎が持っている書籍に目をやる。


「なんだ? その本」

「いや、これは・・・・・・」

「あ~、知ってる、ソレ。いろんなスポーツの練習方法が書いてあるやつでしょ? って、夏輝。あんたそれ見て特訓でもしてたの?」


 冴子がニヤニヤしながら書籍を指差す。彪太郎は咄嗟にそれを背中に隠した。


「ち、違うよ!」

「へぇ~、陰で努力してるんだ。ま、俺はそんなもの読む必要ないけどな」


 焦る彪太郎に、金光が皮肉たっぷりな表情を浮かべて鼻で笑った。


「金光君は天才だもん。ねー、美嬉も一緒に帰ろう」

「え? う、うん・・・・・・。じゃあ、またね、夏輝君―――」


 冴子に手を引かれて少し困った様子で去って行く美嬉。

 美嬉が彪太郎を気にするように振り返ると、彪太郎は寂しそうに俯いていた。



 裏山の山道を全速力で彪太郎が走っていた。目を瞑(つむ)り、彼の頬には汗なのか、涙なのか、雫(しずく)が伝った跡がある。野(の)兎(うさぎ)や栗鼠(りす)が走り去る彪太郎を見送る。それと一緒に彼を見つめる黒い影。

 彪太郎が躓(つまづ)いて転んでしまう。青臭い草の匂いが彼の鼻をつく。


「・・・・・・そんなの、嘘だ。姫野さんが転校するなんて。まだ、何も伝えてないのに」


 樹木の葉がざわめき始めた。


「会えなくなるなんて、急過ぎるよ・・・・・・もっと自信が持てたら、僕だって・・・・・・」

『僕だって、すぐに想いを伝えられるかって? とんだチキンハートなボクチャンだな』


 俯いて塞ぎ込む彪太郎の頭上から声がした。ハッとして声のする方を見上げて立ち上がる。  


「・・・・・・!? だ、誰!?」

『こんな純粋なナンバ走りを見たのは、前の旦那以来だぞ。ハッハッハッ・・・・・・』


 辺りを見回し声の主を探す彪太郎だが、それらしき者が見当たらず、次第に恐怖心が沸いてきた。


「わ、笑うな! わざとじゃ、ないやい!」


 しかし、笑われた事にムッとしたのか、恐怖心を隠す為か、彪太郎が謎の声に大声を出す。するとガサッと葉音を立てて、彪太郎の背後に黒い影が着地した。


『負けず嫌いなのもそっくりだ』

「き、キミは・・・・・・?」


 音のした方に振り返ると、そこにはつぶらな瞳で三本のストライプヘアー、黄色いスカーフを巻いた小さな黒彪が立っていた。


『飛脚の黒彪、絆三(はんぞう)さ』

「飛脚の、黒彪⁉」


 ニヤリとする絆三の容姿は、まるでマスコットのぬいぐるみのようだった。


「キミが・・・・・・あの、飛脚の黒彪だって?」

『おうよ。そんなに驚くなよ。九官鳥が喋れば、賢い彪も喋れるってもんよ』

「そ、そうなんだね・・・・・・ははは」


 戸惑う彪太郎に、絆三が腕を組んでドヤ顔で答える。


『それより、自信が持てるようになりたいんだろ? ボクチャン?』


 彪太郎の顔を見上げる絆三。その言葉に彪太郎は憤慨する。


「んもぉ、ボクチャンって呼ぶな! コタロウ、僕は夏輝彪太郎だ!」

『ハハハ・・・・・・それだけ威勢が良くて、自信が持てないだって? 面白いヤツだな』


 絆三に笑われるも、彪太郎はそれに堪えて彼に背を向けてわなわなと肩を震わせていた。


「・・・・・・キミなんかに言われたくないよ。走り方が変で、みんなに笑われている僕の気持ちなんて分からないくせに」


 トボトボと離れて行く彪太郎を無言で見つめる絆三。


「飛脚の黒彪って、もっとカッコイイ人だと思ってた……なのに、こんな憎たらしいチビ助だったなんて、ガッカリだよ」

『・・・・・・その昔、日本の飛脚にヒントを得た男がいてよ―――』


 絆三が口を開くと、彪太郎はハッとして振り返った。


『天下無双の走り、『密息ナンバ走り』を編み出したんだ』


 絆三は鋭い眼差しを彪太郎に向ける。そんな絆三を見つめ返す彪太郎。


「天下無双の、ミッソクナンバ走り?」

『どうやら、ボクチャンにはその素質がありそうだ』


 絆三はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。



 それから平地に移動した彪太郎と絆三はさっそくと言わんばかりに歩行練習に取り組んでいた。絆三が四足歩行をして、隣で同じように四足歩行で歩く彪太郎に話し掛ける。


『そもそも、周りと同じように走ろうとするから上手くいかないのさ。自分の特徴に見合った走り方が一番なんだぞ?』

「だからって、僕も四つ足で歩く事ないじゃないか・・・・・・」


 絆三が、ぎこちなく歩く彪太郎の背中に飛び乗る。


『密息とナンバ走りの基本は、四足歩行にあるんだ。文句を言うでない』

「そもそも、密息って何なのさ?」


 自身の背の上で胡坐(あぐら)をかく絆三に訊ねる彪太郎。


『エネルギーとなる酸素をたくさん体内に取り込めるようになる呼吸法さ』

「フ~ン・・・・・・あ、それならココで高地トレーニングをしていれば―――」

『ほ、ココで!? あのなぁ・・・・・・高地トレーニングは、標高二千から三千メートルのところじゃないと効果ないんだぞ。ここは低過ぎる』

「ええっ、そうなの!?」


 今まで勘違いをしていた彪太郎の様子に、絆三が呆れるように首を振る。


『まぁ、それだけ熱心さがなきゃ。よし、彪太郎。この状態から鼻で大きく息を吸って、口で吐いてごらんよ?』


 彪太郎は言われた通りに鼻で息を吸って、


「フーン・・・・・・ブハァー」


 口から息を吐くも、むせてしまう。


「このままじゃ、鼻で息はしにくいよ」


 絆三が彪太郎の背中から飛び降りて、彼の前に立つ。


『密息は一見呼吸をしているか分からないもの。まるで魚のエラ呼吸のような呼吸法なのさ』

「エラ呼吸!?」


 困惑する彪太郎は頭上で、口をパクつかせる鯉をイメージする。すると絆三が背後からストローを取り出して、彼の前でストローを吹いてみせた。


『四足歩行だったら、イメージもしやすいだろう? ストローになったように、口からお尻へ空気が突き抜けるイメージさ』

「ストロー・・・・・・なるほど。でも、大会までもう一ヶ月もないんだ。僕にできるかなぁ」

『できるか、できないかは。彪太郎の想いの強さが決めるもんだろう?』


 不安そうにする彪太郎を絆三は鼓舞する。


「・・・・・・!! うん!」


 決意を固めるように彪太郎は強く頷く。これからの彪太郎の特訓を物語るように、蝉が激しく鳴いていた。



 それから一か月後。ひまり小学校の校門前には『ひまり小学校・持久走大会』と書かれた看板が建っており、体操着姿の美嬉や冴子、女の子達と一般の観客が校門前の直線ロード脇に並んで賑わっていた。

 体操着姿の男の子達も校門内のスタートラインに並んでいた。その集団の先頭には彪太郎の姿も見え、表情はかなり強張っている様子だった。


「なんだ、緊張してるのかぁ? まぁ~、せいぜい恥じかかないように頑張れよ」


 彪太郎の横で余裕の表情を浮かべる金光に、彪太郎は強い眼差しでキッと見つめる。


『彪太郎は、ヌシが思ってるほど弱くないぞ』

「なに・・・・・・?」


 謎の声に金光が周囲を見渡す。すると、絆三が彪太郎の背後から飛び上がって現れ、金光の頭上にぽふっと着地した。


「絆三!」

「わ、なんだ! コイツは!?」


 絆三は驚愕する金光の頭上で辺りの男の子達を見回す。


『ウヒョー、久々のレースだぞぉ!』


 辺りの生徒達も絆三に気付いてざわつき始めた。冴子と美嬉が瞳を輝かせて、


「うそぉ、喋る黒猫なんて夢みたぁい!」

「可愛い~!」


 と、絆三を指差してはしゃぐ。そんな絆三は緊張気味の彪太郎を見る。


『彪太郎、途中地点で合図する。それまでは教えた通りに走れば大丈夫だぞ』

「う、うん・・・・・・」

『緊張は誰だってするもんさ、彪太郎』

(あれ? 今日の絆三、どこか優しい―――)

「つか、早く頭から降りろよ」


 絆三は自分を見上げる金光の頭から飛び降りる。絆三はぽむっと着地して、


『彪太郎、スマイル!』


 ニカッと笑って人混みに消えて行った。彪太郎もニッとはにかむ―――。

 空に向かって合図のピストルが鳴った。そして男の子達がいっせいに走り出した。

 観客と女の子達は男の子達に声援を送る。

 先頭を切って金光が飛び出て突っ走って行く。彪太郎は周りより遅いスピードで次々と抜かされている。が、強く先を見据えた眼差しだ。

 緑林の並木道コースを次々と男の子達が走って行く。当然、金光が先頭で引っ張っていた。彪太郎は、先頭集団から離れてあとに続いてやって来る。

 彪太郎の脳裏には裏山での特訓の記憶が甦っていた。


『自然の風と、溶け込む?』

『そうだ。密息は、自然の風を仲間にするもの。風の音を聴くんだ。最初は焦らず、周りをしっかり見ることさ』


 彪太郎はガチガチに強張る表情で、


(お、落ち着け・・・・・・さ、最初は、焦らず、周りをよく見ること・・・・・・)


 ゆっくりと緑林の並木道を見渡す。ざわめく並木から差し込む木漏れ日。枝に芽を出している若葉に、小鳥の囀(さえず)り。幹で鳴いている蝉の音さえ静かになる。


「・・・・・・!! わぁ・・・・・・」


 後ろから次々と二、三人の走者に抜かれて行くのにも気にならないくらいに。彪太郎の表情が次第に柔らかくなっていった。


(まるで違う道みたいだ。いつも学校から帰る時に通る道なのに―――)


 彪太郎の表情が微笑みに変わって、


(絆三? 風の音、聞こえるよ)


 グッと掌を握り締めた。

 そんな中、かんかん照りの太陽がアスファルトを照り付けて熱気を放っていた。

 陽炎が揺れる校門前の直線ロードには、冴子に抱えられていてもがいている絆三がいた。


「フヌヌヌヌゥ・・・・・・」


 冴子の手から抜け出そうとするが、彼女はそんな絆三をギュッと抱きしめる。


「もう、暴れないの、クロちゃん」

「我輩は絆三だ! 彪太郎に合図をせねばいかんのだ。だから離して―――」

「美嬉、手触りも最高だよ~」


 絆三の言葉を遮り、冴子は腕の中の小さな黒彪を撫でる。

 そんな美嬉は隣で額にハンカチを当てている。


「うん。なんか、暑くなってきたね」


 絆三も目を細めて太陽を見上げた。


(彪太郎・・・・・・)

 

 一筋の汗が頬へ伝わる。



 先頭の金光が走って行く先に『1㎞折り返し地点・あと半分!』と表記してある看板が建っている。ここが折り返し地点だ。金光は汗をかいて険しい表情で看板を折り返した。


(く、なんて暑さだ・・・・・・だが、このまま独走は変わりねぇ)


 顔を歪めて苦しそうな走者達とすれ違う。


(へ、もうバテてるじゃん・・・・・・なっ!?)


 陽炎のアスファルトに、力強く走って来る人影が見えてくる。金光はまさかと驚いた。


「こ、彪太郎!? なんだ、あの走り方は」


 彪太郎の腕は、僅かに曲げた状態で更に左右の手足は同時に出ている。他の走者のような拳を眼前に突き上げるような腕振りではなく、腰の辺りで拳を小さく振り子させているような腕振りで、左右の肩と足が同時に出ているような具合だ。

 彪太郎が前傾姿勢で二、三人の走者を次々と抜かしていく。その様子に金光は焦りの表情を見せた。


「あんな走りで・・・・・・どうなってやがる」


 彪太郎は金光に気付いた。


(・・・・・・! 金光クン)


 唖然としている金光とすれ違った。



 校門前では、絆三は未だ冴子から抜け出せずにいた。


「え? ナンバ歩き?」


 絆三を抱いた冴子は首を傾げる。


『そうだ。彪太郎は、昔の日本人の歩き方をしているんだ』

「そういえば、私も幼稚園の頃、手と足を一緒出して笑われた事があるわ。体育の授業で行進の練習をした時に先生から注意されて自然と直ったけど・・・・・・」


 冴子の隣で美嬉も過去を振り返る。


『普通はそうだろう。周りと一緒の方が安心するもんな。彪太郎も必死にそうなろうとした』


 美嬉と冴子が顔を見合わせる。遠くを見据える絆三。

 彼の脳裏には彪太郎との裏山の記憶が思い返される。

 彪太郎は擦り傷や泥で汚れてながらも必死に歯を食い縛り走っていた。


『人も動物と同じで、群れからはぐれたくないはずさ』


 美嬉は絆三の言葉に俯く。


「そうだね・・・・・・」

『大丈夫、今の彪太郎は誰にも負けない』


 すると冴子は絆三の言葉にピクリと反応して、


「だからって、金光君には敵わないわよ」


 絆三をむぎゅっと締め付けた。


『ヌオオオオ~~~~~‼』


 あまりの力強さに、目が飛び出そうになる絆三。


「あ、来た!」


 美嬉の声に、絆三と冴子がコースの先に注目した。

 金光がコーナーを曲がってやって来る。彼の表情に、いつもの余裕は感じられなかった。

 冴子はパアッと表情が明るくなって、彼にエールを送るように名前を叫ぶ。


「きゃ~~~金光君‼ ・・・・・・え!?」


 しかし金光のすぐ後を彪太郎が追いかけて来ていた。これには冴子も驚き、絆三と美嬉の表情が明るくなる。グッと力が入る眼差しの彪太郎に、


「夏輝君!」


 美嬉が彪太郎の名前を呼ぶ。絆三も冴子の胸から飛び降り、着地と同時に叫んだ。


『彪太郎! 行けーッ!!』


 彪太郎は絆三から合図を受け取り、


「・・・・・・絆三」


 グッと拳に力を込めた。


「はい!」


 肘を引いて更に加速した。彪太郎はついに金光と肩を並べる。

 金光は焦る表情で彪太郎を見た。


(なっ!? どこにそんな力が残ってやがる・・・・・・コイツ!)


 彪太郎が金光を僅かに抜かす。


「おおおぉぉぉ・・・・・・!!」


 絆三と美嬉、冴子が彼らのデッドヒートに注目する。いつも彪太郎を馬鹿にするクラスの女の子達も息を呑んで見つめる。

 絆三は胸が躍るように身体を震わせていた。


(旦那……あれが、夏輝彪太郎だ。旦那に、そっくりだろ?)


 首に巻いた黄色いスカーフをそっと握る絆三。

 金光は横に並ぶ彪太郎を見て唇を噛む。


(冗談じゃねぇ……誰がこんなヤツに負けるか。こんなヤツに!)

「・・・・・・!?」


 彪太郎がハッとした刹那、勢いよく迫る金光がショルダータックルをして彪太郎の肩に体当たりしたのだ。彪太郎がその衝撃で転倒してしまう。

 冴子は目の前の光景に、目を疑うように驚愕する。絆三と美嬉も彼の行動に驚愕していた。


「あっ!?」


 金光は倒れた彪太郎を置いて、そのまま走って行く。彪太郎は金光の背中を見上げた。しかし、唇を震わせて俯く彪太郎。


(アクシデントは付き物だ、彪太郎)


 金光は険しい表情で俯いている冴子の前を走って通り過ぎた。

 そんな冴子は声を震わせる。


「信じていたのに・・・・・・!」


 すれ違い様に聞こえた彼女の悲痛の声に、金光はハッと我に返る。金光は泣いている冴子を目で追うも、そのまま走り過ぎていった。

 彪太郎は依然として倒れ伏せていた。絆三は彪太郎のもとへ駆け寄り声を掛ける。


『怪我はしてないか!? 立てるか、彪太郎!?』

「もう、ダメだよ・・・・・・勝てないよ」


 俯く彪太郎は震える声だった。


『彪太郎・・・・・・』

「結局、僕は何にも・・・・・・」


 彪太郎は悔しそうに拳を握り締める。そんな彼の拳に絆三が優しく手を置く。


『彪太郎。勝つ事だけが、カッコ良いんじゃない。最後まで、想いを貫くんだ』

「えっ・・・・・・?」


 涙を滲ませる彪太郎が見上げると、そこには、


『我輩は、そう教わった』


 二カッと笑顔を見せる絆三がいた。彼の笑顔が輝いて見えた。絆三の後ろに自分を心配そうに見つめる美嬉の姿が見える。


「想いを、貫く・・・・・・」


 彪太郎は美嬉を見つめ、赤く滲む頬の擦り傷を腕で拭う。


「・・・・・・そうだ、姫野さんにとって、これが最後の思い出になるんだ―――」


 彪太郎は渾身の力を振り絞って立ち上がった。


(あの日、笑顔で本を手渡してくれた姫野さん)

『フフフ・・・・・・そっか。途中で諦めないで、夏輝君。地味でも、いいじゃない』

(あの日、諦めかけていた自分に勇気をくれた)

『最後まで、目標に向かって頑張ってね』


 彪太郎が唇を噛み締める。


(ここで諦めたら、姫野さんの想いを・・・・・・)

『彪太郎!』


 絆三の声に、彪太郎は前をグッと見つめた。


(今の僕にできる事を・・・・・・うっ)


 蓄積された疲労、本来ならとうに限界を迎えていた彪太郎の身体。彪太郎はぐらりと体勢を崩してしまう。

 その瞬間、彪太郎に手が差し伸べられる。その手の相手に絆三が驚いた。


『お、おヌシ!?』


 彪太郎は金光に支えられて驚き困惑した。


「か、金光クン!?」


 金光は目を逸らしたまま、ぶっきらぼうに呟く。


「あ、アクシデントは・・・・・・付き物だ。すまなかった、彪太郎」


 金光は彪太郎の肩を背負って歩き出す。その間にも、二、三人の走者が次々と彼らを追い抜いて行った。それでも彪太郎は金光に支えられながら、小さく見えるゴールの校門へ向かってゆっくりと歩いて行く。


「金光君・・・・・・」


 冴子は金光を見つめ、その光景に涙を浮かべていた。美嬉はそんな冴子の肩を抱き寄せる。


「冴子・・・・・・良かったね」

「・・・・・・うん!」


 彪太郎と金光がゴールに向かって歩く。あと少しだ。一歩、一歩、確実に足を踏み出す。

 そして、二人が同時にゴールテープを切った。それと同時に沸き起こる拍手と歓声。彪太郎と金光は顔を見合わせて微笑み合った。

 勢いよく駆け付けて彪太郎に飛びつく絆三。


『よく走りきったぞぉ、彪太郎!』

「金光君も」


 嬉しそうな顔で彪太郎が金光を見る。


「か、勘違いするな。俺は、ただ・・・・・・」


 彪太郎の真っすぐで喜びに満ちた瞳に、気恥ずかしそうに目を逸らす金光。

 美嬉が笑顔の彪太郎を見つめながら涙を拭った。


「夏輝君、ありがとう―――」


 美嬉の可愛らしい笑顔が夏の空に輝いた。



 季節はすっかり秋で、広葉樹が色づき、紅葉が赤く染まっている。

 ひまり小学校五年二組の教室には、窓際の席から外を眺める彪太郎がいた。窓の外にはどこまでも青く澄んだ空を飛んでいる飛行機が見えた。


(姫野さん、元気にしているかな?)

『一生に一度限りの、一期一会の縁』

「え?」


 突然の声にハッと我に返る彪太郎。すると絆三が窓の外からひょっこり顔を出して、


『でも、その縁は、想いの分だけ繋がる事だってできるのだぞ』


 背中をゴソゴソとまさぐる。そして彪太郎に手紙を差し出した。


『美嬉ちゃんからだぞ、ホレ』

「ええっ!? は、絆三、どうして!」


 彪太郎は美嬉からの思いがけない手紙に驚く。


『どうしてって? そりゃあ、我輩は、飛脚の黒彪だからさ』

 

 あの日と同じ、二カッと満面の笑顔で笑う絆三がいた。

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飛脚の黒彪 Tsuyoshi @Tsuyoshi-k

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