第4話 4.
『修一郎さんは毎月一度、月末の金曜日は御邸へ帰り、お父様と週末を過ごします』
いつか教頭が憲介にそう言っていた。両親と、ではなく『お父様と』なのか。口にはしないまでも、素通りすることはできなかった。
「貴方は、……失礼しました。教頭先生は栗原のことをどこまでご存知なんですか?」
怒りと軽蔑を忍ばせた憲介の語気に、触れたらざらりと音がしそうなわずかに髭が伸び始めた下顎をさすりながら教頭は顔を上げた。
「私が知っているのは、彼から聞いたことだけです。月に一度、家に帰れば、父親が彼を片時も離さずそばに置き、食事も入浴もお休みになる時も、まさに寝食すべてを彼とともにするのだと。それがどういう意味で、どういう行為を指しているのか、あえて説明する必要はありませんね」
唇の端だけをニュッと持ち上げ、教頭が憲介を見た。憲介にはそれが、物欲しげなサインに見えた。いやらしい中年男。きっと栗原を前に、いつもそんな表情をしているんだろう。まっすぐにこちらを見つめる教頭の瞳の奥が、憲介には薄暗く果てのない闇のように映った。
「私は日頃、初等部から高等部まで授業を見回っているので分かりますが、彼は教室ではとても物静かです。自分の存在を消そうとしているようにさえ見える。寮ではいかがですか? たぶんそれほど変わらないでしょう。それなのに、毎週金曜の夜になるとまるで人が変わったように、私を快楽の淵へと誘い、ひと息に底まで、あぁ底ではなく天上というべきでしょうね。あの小さな肢体で、この上ない愉悦と快楽にまみれたひとときへ導いてくれます。彼の姿、美しかったでしょう? シャツをはぎ取る時の恥ずかしそうな表情や、達してしまわれる時の目も口も半開きになった顔。もう何年も同じことを繰り返しているけれど、私はもう、たまらないんだよ」
初老の男はグレイがかった髪をかきあげ、満足そうに話している。頭の中には栗原の肉体を思い描いているに違いない。
この地で知らぬ者はないほどの名士である栗原家の当主が、実の息子と。その息子はいずれ父親の跡を継ぐ。憲介は当初、いっそ自分の口からすべてを公にしてしまえば、父親や教頭から栗原を救い出すことができるのかもしれないと考えていた。
けれど、それをして誰が喜ぶのだろう。世間という名の、他人の不幸と噂が好きな有象無象が舌なめずりして欲しがるエサを与えることになるだけで、栗原自身は深い傷と哀しみを負い、憲介にとてつもない憎悪を抱くに違いない。「彼を救いたい」なんて英雄気取りの戯言は、誰の耳にも届かない。教頭の言ったように彼ら父子が愛し合っているというなら、憲介が暴走することで二人をより孤立させ、一層強く結びつかせることになりはしないか。場合によっては死を選ぶような事態が起こることだって考えられる。それだけは絶対にあってはならない。
「おれは、栗原を正しい軌道へ戻してあげたいんです。十四歳の、ごく普通の中学生に」
「それは素晴らしい正義感だ。けれど、中村くんの思う正しさが、修一郎にとっての正しさであるとは限らないだろう?」
興奮しているのだろう。教頭はさっきから栗原を「修一郎」と呼んでいるが、自分では気づいていないようだった。
「単なる自己満足。その点ではきみも私も変わらない。美しく恵まれた容姿に生まれたばかりに、修一郎は人を惹きつけてしまう。それは神の悪戯といえるのかもしれない。父親、そしてきみも僕もそのうちのひとりだろう?」
「貴方にはご家庭があります。それについてはどうお考えなのですか」
「こう見えても私は良き家庭人でね。妻も娘も愛しているよ。修一郎同様にね。彼女らはまったく違う立場、違う種類の人間だけれど、私は肉体も心も伴っている」
「嘘だ。栗原は──」
「彼が望むものを与えているということは、限りなく愛を与えていることと同じだと私は思っている。それに、高校を卒業するまでの限られた時間の出来事、長い人生のほんの一瞬の出来事だよ。それも修一郎からの提案だ。まぁ、受け入れた時点で合意になるわけだけれども」
「先生は、彼の、栗原の心と身体、いえ人生そのものを穢して、壊しているとは思わないんですか? それに対する罪悪感は?」
憲介はどうにかして否定したかった。謝罪させるまでいかずとも、貴方は間違っているのだと、硬い岩の塊のどこか一か所だけでも突き崩せるものなら。けれども目の前の男が放った嘲るような高笑いに、憲介は自分の非力さを痛感するよりほかなかった。
「それを言うなら、私が出会った時にはもう、彼はすでに穢されていたよ。きみの言葉を借りるならね。実の父親によって犯された――修一郎は愛されていると言っているが――その時点で穢れ、壊れているだろう? 本当に悪い大人は誰なんだろうね。私かい? きみはそう言いたいんだろう。けれどね、彼、修一郎には救いが必要だったんだよ。父親と離れている間に持て余している肉体を、身体中が疼くほど欲しいと願うものを与えてくれる存在が彼には必要だった。父親のように愛し、快楽を与えてくれる存在。だから、きみでは到底彼の相手は務まらない。それだけは言い切れる」
小さな部屋の窓からは、憲介が副寮長を務める北第一寮が見える。
いったん言葉を切った教頭の視線が一瞬窓の方へ動き、再び憲介をとらえると、あの、いやらしい笑みを唇の端に浮かべて言った。
「とはいえ、修一郎だって、きみを気に入っているから、きみの反応見たさにあんなことをするんだろう。どうだい? 今度一緒に。私はそういったことはあまり好むほうではないけれど、修一郎が三人でしたいと言うなら、私は構わないよ」
**
『憲介が正しいと信じることを貫けばいいんだよ』
明け方、夢に現れた先輩の言葉が、ゆっくりと頭の中を旋回する。
前年度まで寮長を務めていた先輩は、高校入学と同時に寮生活を始めた憲介を、いつもそうやって励ましてくれていた。他県から進学し身近に近親者がいない憲介にとって、兄のような存在だった。彼に対する思慕のような想いと、栗原に対する感情はまったく別のものだ。
おれの信じること。おれが正しいと信じること。
それをすればいい。
憲介の頭には、ある考えがあった。
月末の金曜日、栗原は実家へ帰る。今日はその前日。明日の放課後はもう、彼はこの寮を出て邸へ向かう。だから、今夜しかない。
あの日、詰め寄った時に教頭は言った。
『きみ、鏡をごらんなさい。私と同じ貌をしていますよ。初めて修一郎とあの部屋で過ごした夜、私は今のきみのような貌をしていました。きみのような正義感は持ち合わせていなかったけれどね』
同じ形の扉が並ぶフロアの一番奥にある栗原の部屋の前に立ち、息を吸ってふうっとはき出した。階段や廊下の照明がいつもより清潔に、眩しく感じるのは、憲介の中に後ろめたい思いがあるからなのか。左手に持ったものを背中に隠すようにして扉を二回ノックした。すぐに、扉の向こうから「はい」と栗原の声が聞こえた。
彼が扉を開けたらまずなんと言おう。
『二人だけで話したいことがあるんだけど、少し部屋にお邪魔してもいいかな?』
おれの部屋でも構わないけれど、栗原の部屋は廊下の突きあたりにあって右隣にしか部屋がない。その部屋の住人は今夜、外泊届を出している。
あんな薄暗い建物へ行かなくたって欲しいものを手に入れることはできる。おれは、おれが正しいと信じることを貫けばいい。栗原のために。彼を彼の周りにいる薄汚い大人たちから護るために。
了
開かない扉の向こう boly @boly
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