第3話 3.


 憲介が初めて恋を知ったのは、中学生になったばかりの頃。相手は養護教諭の若い男だった。熱を出すことが多く、そのたびに保健室で休む憲介を案じた教諭は、「特別だよ」と教科書を開いて個人授業をしてくれたり、ときには憲介の相談相手になったり、さまざまに心を砕いてくれた。

 好意を抱いていても、その気持ちを自分から伝えなければ恋の実りを得ることはできない。栗原への恋心を自覚した時、憲介の胸によみがえったのは中学時代の淡い想いだった。

 単に、自分よりも大人の男性へのあこがれなのかもしれない。

 寂しさを抱えた心に、そっと寄り添ってくれた人を慕う気持ちを恋だと思い込んでいるのかもしれない。

 そうやってあの時も何度も迷い、眠れない夜を数えた。その日々を思い起こすたび、二度とあの時と同じ思いは繰り返さないと心に決めた。それなのに……。


『先輩の気持ちは言葉だけで、真実じゃなかったんですね』


 いや。

 それなのにじゃなく、だからこそ、だ。だからこそ、彼を……。この手で。

 栗原の言葉をいつしか憲介は、自身の栗原への告白が真実であるかを試されているのだと、そして憲介に救いを求めているに違いないと理解するようになっていた。僅かな期間とはいえ、栗原を避けてしまったことを憲介は心から悔やんでいた。栗原を救いたい。教頭や、教頭の言うように父親と関係しているのだとしたら、それからも彼を救い出したい。それから……。




 憲介が寮に到着したのは二十時を少し過ぎた頃だった。もう訪れることはないと思っていた三階の一番奥の談話室。ノックをしようとした寸前、悲鳴のような声が室内から聞こえた。聞き間違えることなんてない。憲介の心臓の鼓動は一気に加速し、その勢いのまま慌ててノブを回した。

 真っ先に目に飛び込んできたのは、ベッド。その上でうごめいている、なにか。以前に訪れた時、思わせぶりに栗原が脚を組んで座っていたソファは脇に押しやられていた。

 憲介の視線がとらえたのはベッドに横たわった栗原。両腕を頭上で絡ませ、上半身をはだけ下衣を乱された栗原の、その下半身に卑猥な音を立ててしゃぶりつく男。ほの暗い明かりの下でも分かる。さっきの悲鳴は、口淫の最中に放たれた栗原のものだった。

 バタンと大きな音を立てて扉を閉め立ち尽くす憲介を、あん、と顎を突き出し「だめ、もっと、ゆっくり……」と漏らした栗原が横目で見とめた。開いた口からのぞく舌が唇を舐める。まるで誘うように視線が宙を泳いだ後、微笑んだように見えた栗原の目は、なんともいえない恍惚のまなざし。全身を濡らす快楽を味わうその表情に吸い寄せられるように、思わず二、三歩足を前に踏み出した憲介を栗原の言葉が刺した。

「来ないでっ!」

 さほど遠くもない距離から投げられたその声は、憲介にたしかに届いた。聞こえている。けれど、今自分の耳に届いたその声が何を意味しているのか、憲介は瞬時に理解できなかった。

「だめっ……! あなたは、そこでっ、見て、いて。こないで……」

 戸惑う憲介を栗原はなおも刺し、なにも言えずに立ちすくむ彼に見せつけるように汗ばんだ身体をよじらせ、達した。一瞬、顔を上げた教頭は品のない仕草で口元を拭いながら憲介を見やると、ふたたび栗原の下半身に顔を埋め大げさなぐらいに熱い吐息を漏らした。栗原のものであるはずの乱れた黒髪までもが、まるでぬらぬらとうごめく触手のように彼を食らおうとしていた。

 目の前で繰り広げられる痴態、そして浴びせられた栗原の言葉に、憲介の身体は呼吸をするのも忘れるぐらい硬くなりやがて全身の力が奪われていった。

 音もなく声もなく、憲介の頬を流れるものがあり、憲介は静かに扉を閉めた。寮の中央玄関へ向かう憲介の頭の中には、以前図書館で栗原と一緒に開いた本に大きく描かれていた、磔刑に処されたイエス・キリストを描いたフレスコ画が浮かんでいた。


『どうして神はこんな……こんな目に遭わなければならなかったんですか?』


 いまにも零れ落ちそうな涙の粒を目の端に光らせた栗原が、憲介を見上げていた。あの時、自分はなんと答えたのか。神の子であるキリストは人間の身代わりに、などという言葉を栗原が望んでいたわけではないだろう。

 あの頃に戻ることがもしもできたなら。おれは自分でも気づかないうちに栗原になにかをしてしまっていたのだろうか。なにか、贖罪しなければならないようなことを。その罰を受けているのか。


『あなたはそこで、見ていて。来ないで』


 その言葉はロンギヌスの槍のようにいまだに憲介の身体に突き立てられたままだった。敗北なんて生易しいものじゃない。栗原は教頭の行為を嫌がってなどいない。それどころか、おれには指一本触れるなとでもいうように、強い拒絶を示した。あれも試されているのだろうか。それでもぼくを好きでいられるのか、と。




 昨春、入寮のセレモニーの際、順番に挨拶をした時に見せたはにかんだ笑顔。中庭を散歩しながら、『夏休みはいつ、ご実家から寮へ戻るんですか?』と上目遣いで尋ねてきた時の瞳。そうやって、学園内を散策しながら好きな本の話をしたり、並んで自習をしたり、もしも二人一緒に外出許可が取れるなら、映画を観に行くこともできるのかもしれない。誰も見ていない場所だったら、手をつなぐことも許されるだろうか。帰り道、夜の公園で彼の肩を抱き寄せてそっと唇に触れて……。ただ、そんなことがしたかった。彼も、自分に好意を持ってくれているのだと思い込んでいた。

 その夜、部屋に戻ってからも憲介は気持ちの昂りを抑えることができなかった。グラグラするほど頭を振っても消えない妖艶な栗原の姿に、憲介の内にこれまで憶えのない獣性のようなものが目覚めようとしていた。栗原の右耳の下、黒髪に見え隠れするように小さなほくろがある。そこに、教頭は、彼の父親は、指先で触れ、唇で舐め、舌を這わせているのか。おれには指一本すら触れさせようとしないのに。触れさせてもくれないというのに。

 ベッドに潜り栗原を思い出しながら下半身に手を伸ばし、ひとしきり自慰に耽った。そのまま寝入ってしまった憲介は、夢の中で栗原を思う存分に嬲り、犯した。綺麗にそろった栗原の黒髪を乱暴に引っ張って鏡の前に立たせ、背後から無理やり衣服をはぎ取り、肩や背中、脇腹など、触れるたびに彼が甘い声を上げるところへ執拗に歯を立て、唾液を滴らせながらしゃぶりつく。『やめて』と栗原が懇願するたびに、薄ら笑いさえ浮かべてムチのような言葉でいたぶり、栗原の全身が真っ赤に染まっても何ひとつやめなかった。柔らかい唇もいつしか真っ赤に腫れ上がるほど、何度も無理やり口づけた。そうして身体に力の入らなくなった栗原を脅しまがいの言葉で立たせたまま、後ろから挿入し何度も突き上げる。泣きわめき、それでも快感の味を知っている栗原の声はこの上なく卑猥に響き、イヤというほど劣情を煽られる。だから、何度も何度も犯し続けた。


 目が覚めた時、暑い季節でもないのに憲介の全身はびっしょりと濡れていた。数時間前にあの建物で目撃した光景と、今しがた見た夢だったのか現実なのかよく分からないシーン。それは自分の願望なのか? 手や下肢にこびりついた白濁を眺めながら、考える。その願望と、栗原を救いたいと思った気持ちに矛盾はないのか。そもそも『救いたい』のではなく、本当は『奪いたい』、そう思っているんじゃないのか。初めて栗原と教頭の情事を知った時のように憲介は混乱し、汗で湿った身体をただシーツにこすりつけるように捩るほかなかった。



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