第2話 2.


 翌週の金曜日も、同じように栗原からの手紙がドアに挟まれていた。わずか一週間前、たった三行の文面に胸を躍らせたことを遠い過去のように憲介は感じていた。

 あの後、食堂でばったり出くわした時なにか声をかけようとしながらなにも口にできない憲介に、栗原はすれ違いざま、「またあそこでお会いしましょう。先輩」と、言葉を残した。


 なぜ。

 きみは、どうしてあんなことを?

 おれになにがしたかった?

 自分の記憶の中にいる栗原に問いかけ続けた。机に向かっても、熱い湯に身体を沈めても、気が付けばあの夜のことを思い出している。ぼうっとした頭の中は、永遠に晴れないような気さえする。


 おれが行っても行かなくても、金曜のあの時間に二人はあそこで、あんなことをするのか。考えたくない気持ちと、忘れたくても頭の中から消すことができない光景に押しつぶされそうで、息苦しいような思いにとらわれる日々が続いていた。



 **



 次の金曜日は月に一度の寮長会議があり、病欠の校長に代わり教頭と事務長出席のもと、旧北第一寮の改装、今後の活用についての是非も議題にあがっていた。建物の内部を地域に開放する案や、個別学習室として使用する案などについて意見交換しながらもその場では議決せず、引き続きの検討事項となった。


 散会が告げられると同時に、「申し訳ないが来客があるのでこれで」と教頭が席を立った。時計の針は二十時を少し過ぎていた。射ぬくような教頭の視線が憲介に向けられ、「では、また次回」と言い残し、ドアの向こうへ消えた。これからあの男は、栗原に会うのか。今まさに議題に挙がっていたあの建物の、三階の一番奥のあの部屋で。ランプの灯りだけであの男は栗原を組み敷き……、いや、二人がしていることのすべてを把握しているわけではない。もしかして、最悪の事態にはなっていないのかもしれない。

 最悪。

 憲介が考える最悪の事態とは……。


「ケン、大丈夫か?」と、肩を叩かれハッと顔を上げると、さっきまで隣に座っていた寮長の佐々木が心配そうな表情で憲介を見下ろしていた。

「試験前だから勉強も忙しくなるけど、たまにはゆっくり休めよ」と言い、「会議おつかれ」と背中をポンポンと二回叩き、ミーティング室から出て行った。無意識のうちに憲介はギリギリと奥歯をかみしめていたようで、じんじんとした鈍い痛みが後から後からこみ上げてきた。


 週末が近づくたびに憲介の懊悩は深まる一方で、この頃は寮で見かけてもいつしか自分から栗原を避けるようになっていた。ある日の夕食後、食堂を出たところで栗原に呼び止められた。彼は憲介がよく知る、あどけない表情を一瞬だけ見せ、


「ぼく、先輩に告白されてすごく嬉しかった。でも、先輩の気持ちは言葉だけのもので、真実じゃなかったんですね」


 そう告げると、尾を引くような寂しげな目をして走り去っていった。ひとり残された憲介は身体がぐにゃりと、まるでダリが描いた、木の枝にだらりと垂れ下がった時計のように全身の力が抜けていくのを感じていた。「違うんだ」という言い訳にも似た思いと、「だってきみは、」と相手を責めたいような気持ち。無意識のうちに栗原を避けてしまっているのは、彼が教頭の手に落ちていることが許せないからなのか。それを汚らわしいと思っているからなのだろうか。


『疑っているわけじゃないんですけど、たしかめたくて』

『こんなぼくでも、好き?』


 栗原はあの時、憲介にそう言った。おれを試しているのか。もしそうだとしたら、なんのために? なにを試したい? それとも、教頭にあんなふうに嬲られていることをあえて見せつけ、「ぼくをこの男から救い出してほしい」というメッセージを伝えたかったのか? そうなのか? そう思い巡らせながらも憲介の中には、あの夜に見た妖艶な顔つきで身をさらす栗原の姿が焼き付いていた。


 最初に呼び出されてからふた月ほど経った金曜日の夜、意を決してもう一度憲介はあの建物へ向かうことを決めた。相変わらず憲介の部屋には、金曜日が近づくと栗原からの手紙が届いていたけれど、ここしばらくは手紙の封を切ることすらしていない。ただ、たとえ教頭との間におぞましい交わりがあったとしても、自分が栗原に抱いている好意はなんら変わらない。変わることはない。それどころか……。なんとしても次は、教頭から栗原を救い出さなければならない。憲介は爪が手のひらに食い込んでしまうほど固く、誓いを立てるように拳を握りしめた。



 **



『修一郎さんと私は、あぁ、生徒をこんなふうに名前で呼ぶのはおかしいですね。まぁ今は限りなくプライベートに近い状況ですし、中村くんもそのほうが腹を割って話せるでしょう。

 私が修一郎さんに初めて会ったのは初等部の受験の時。私はその前年に教頭になったばかりでした。修一郎さんの父上は私の学生時代の先輩で、この地方の名士である栗原家のひとり息子。将来を嘱望され、小さな頃から英才教育を受けて育った方です。ですが、そのような家庭環境に触れることなどなく、私のような後輩も大切にしてくれました。


 親子仲も良く、初等部の入学式を前に二人で学園を見学に来られた際も、「息子をよろしく頼む」と、とても嬉しそうでした。お邸は通学可能な範囲にありますし、当初は入寮の意志はなかったようです。が、後になって修一郎さんから事の次第を聞きました。


 奥様は御主人と修一郎さんの仲にいつの頃からか気づいており、奥様としては修一郎さんが美しく成長されるにつれ苦痛は増すばかりだったのではないかと私は思っています。どうにかして父子を引き離したい。そのため、修一郎さんを入寮させるならば、離縁は口にしないという誓約書を御主人にお出しになっていたそうです。


 あぁ、中村くんはご存じありませんでしたか? 修一郎さんとお父様が通じ合っていること。修一郎さんが話してくれたように申し上げるなら、彼は父親に愛されている。我が子を目に入れても痛くないというような、そういう親子の情愛ではありません。私の言っている意味、分かりますよね?


 くっきりとした目鼻立ちと、薔薇のつぼみのような唇。色白だからか小さな頃の修一郎さんは女の子に間違えられることも多かったようです。その上、あの利発さ。彼と父親の関係が始まったのは、修一郎さんによると十歳、小学四年生の頃だそうです。彼はそれに対して嫌悪感を抱くことはなく、むしろ父親からの愛情の印と感じたようです。きっとお父様は、それはそれは大切に息子さんを愛されたのでしょう。それを奥様が知ることになったのは修一郎さんが六年生の頃だったそうです。奥様は若く美しいお方です。狂わんばかりに傷ついたことは想像に難くありません。ですが、先ほども申し上げた通り、名家であるがゆえ離縁は許されることではなく、さりとて父子の関係を知らぬふりで仮面をつけて夫婦生活を続けることもできない。


 修一郎さんは毎月一度、月末の金曜日は御邸へ帰り、お父様と週末を過ごして日曜の夜に寮へ戻られます。彼の父親──私にとっては先輩ですね――は学生の頃からジャズがお好きで、修一郎さんを抱く時はいつもジャズのレコードをかけているようです。隣室にいる奥様の目を欺くためでもあるのかもしれません。


 あいにく、あの北第一寮の部屋では音楽を鳴らすことはできませんが、私はどんな音楽よりも素晴らしい修一郎さんの声音を堪能することができる。あぁ、そう。御邸へ帰られる前は肌に痕を残すことは厳禁。これは修一郎さんから固く命じられています』



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