崇高で愚かなあなたが、最後に教えてくれたこと

汐海有真(白木犀)

崇高で愚かなあなたが、最後に教えてくれたこと

 夜空が融解したような黒い髪だった。ショートカットに切られていて、丁寧に整えられていた。カフェの電灯を受けて生まれた光の輪は、煌めく星々のように美しかった。

 その髪を見ただけで、目の前に佇む少女が彼女の妹であると、はっきりわかった。胸に付けられたネームプレートは、その理解を確かに後押しした。


「いらっしゃいませ」


 少女は私に向けて、微笑んだ。少し笑うだけでえくぼができるところまで、彼女にそっくりで、思わず息を呑んだ。心臓を誰かの見えない手に掴まれて、ぎゅうっと握られているようだった。


「……お客様?」


 少女は心配そうな面持ちを浮かべて、私のことを見ていた。それもそうだろう。私の瞳からは、意思とは関係なしに涙が溢れて、ぼろぼろと零れているのだから。私はうずくまって、嗚咽を漏らす。


「お客様、どうされましたか?」


 顔を上げると、少女が悲しそうに私のことを見ていた。ああ、優しい子だ。この子はきっと、私が悲しんでいることを、自分のことのように悲しむことができる人なのだ。

 そんな美しさまでもが――彼女とよく、似ていた。


「ごめんなさい」


 私は立ち上がって、少女の肩に手を置いた。少女は驚いたように、私のことを見つめていた。


「本当に、ごめんなさい……」


 ただ謝り続ける私のことを、少女の瞳はくっきりと映し出していた。目の形は彼女と余り似ていないなと、どうでもいい感想を抱いた自分が、何だか可笑しかった。


 ◯


 彼女が持っていた黒のストレートロングヘアより美しい髪を、私は見たことがない。深遠でいて雄大な夜空が、融け出しているような綺麗さだった。


「私はね、世界を救いたいんだよ」


 彼女――四ノ宮譲葉しのみやゆずりはは、部活の後輩である私に、よくそう言った。屋上、吹く風が譲葉先輩のセーラー服の赤いスカーフを、さらさらと揺らした。彼女の手には、缶のブラックコーヒーが握られていた。譲葉先輩はその飲み物を愛していた。


「世界を救うって、結局どういうことなんですか?」


 私はその日、そうやって尋ねた。譲葉先輩はきょとんとした顔をした。それからふふっと笑って、屋上の柵にもたれかかった。


「もう誰も苦しまなくていいような世界。ちょっとだけ頑張れば全てが報われるような、何かに怯えることもなく大切な人と笑い合えるような、そんな世界になればいい」


「……そうですか、素敵ですね」


 私は呟くように言った。譲葉先輩は、目を細めてコーヒーに口を付けた。


 そんな理想を語る譲葉先輩を、崇高だと思っていた。世界について考えられるほど、私は暇ではなかった。高校生になって難しくなった勉強。好きと嫌いが交錯する人間関係。迫ってくる将来に対する選択。

 自分が生きていくために考えなければいけないことが沢山あって、そのために私はそういうことばかり悩んでいた。だから私は、譲葉先輩の思考回路を尊敬していた。


 でも、それと同時に――。私は、彼女の制服の袖からちらりと見える手首に視線をやる。刃物で切った跡が幾つも幾つも、残っているのがわかる。


 譲葉先輩は愚かだ。他者を大切に思うことは得意なのに、自分自身を大切にしようとしない。譲葉先輩のそういうところを、私は憎んでいた。

 本当はどうでもいい、世界なんて。私は譲葉先輩に、譲葉先輩自身を救ってほしい。顔も名前も知らない誰かの集合よりもよっぽど、私は不器用で優しい彼女のことを、愛していたのだ。


「どうしたら、世界、救えるのかな」


 譲葉先輩の瞳は、真っ赤な夕焼けの空を映し出していた。もうすぐ沈む陽の濃い煌めきが目の中に閉じ込められていて、余りにも美しかった。


 *


 休日の昼頃に目覚めると、不在着信が一件、スマホの通知に残されていた。譲葉先輩からだった。朝に電話をくれたようだったが、眠っている間は携帯をマナーモードにしているので、気が付かなかった。


 メッセージアプリを立ち上げて、「すみません、眠ってました。どうかしましたか?」という言葉を送信する。そのときの私は、早く起きていればよかったなと少しだけ後悔して、でもすぐにその感情を忘れて、ご飯を食べるためにリビングへと向かった。



 ――結局、その言葉は譲葉先輩に届かなかった。



 彼女はその日の午前中にマンションから飛び降りて、そうして亡くなった。私はそれを知らされたとき、ただ呼吸を繰り返すことしかできなかった。思考は真っ白になって、感情はぐちゃぐちゃになって、最後にぽろっと、譲葉先輩、という言葉が口から漏れた。



 ――もしあのとき、私が電話に出ていたら。

 譲葉先輩は今も、生きていたんじゃないだろうか。

 そうして、また私に、いつものように。

 彼女の理想を、語ってくれたのではないだろうか――



 わからない。その答えを知ることなどできない。だってもう、譲葉先輩は死んでしまったから。それだけが、変えようのない真実だった。


 *


 譲葉先輩には妹がいた。彼女は妹の話をするとき、とても優しい顔をした。深い愛がその表情だけで伝わってきて、私は見たこともない彼女の妹に、淡い嫉妬を覚えていた。


「私の妹はね、貴女と同い年なんだ」

「高一ですか?」

「そうそう。学校は違うけれどね」


 ある日の放課後。譲葉先輩はそう言ったあとで、とある町のとあるカフェで妹がバイトをしている、という話を始めた。私は相槌を打ちながら、別に会う気はないですけどね、と心の中で呟いた。


 ◯


「どうして、謝るんですか……?」


 少女は私に、そう尋ねる。

 話したかった。あのとき私が取った行動が違えば、結末も異なっていたかもしれないのだ。四ノ宮譲葉が、この世界から失われてしまうことなど、なかったかもしれないのだ。


 でも――話したいのは、自分が楽になりたいからだ。許されたいからだ。駄目だ。そんな思いで、この子に迷惑を掛ける訳にはいかない。

 私は少女の肩から手を離して、涙を拭う。それから微笑みをつくって、口を開いた。


「……前に、悲しいことがあったんです。それを思い出してしまって、涙が溢れてきて。すみません、ご心配をお掛けして」


 私の言葉に、少女はふるふると首を横に振った。それからそっと、笑う。


「悲しいときは、目を閉じてゆっくり、十数えるんです。そうすると、段々と落ち着いてきますよ。……これは、姉の受け売りなんですけれどね」


 私は、目を見張った。


「テーブル、ご案内しましょうか?」


 ゆっくりと、頷いた。少女の小さな背中を見ながら、私は店内を歩いた。窓際の席に通されて、私は着席する。


「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びくださいね」


 少女は微笑んで、私の元を離れていった。

 私は目を閉じる。

 それからゆっくり、数字を一から数え始める。


 ――十。


 私は目を開けた。少しだけ、楽になった。でもやっぱり、悲しくて悲しくて、堪らなかった。


 ――譲葉先輩。私はあなたに、十を数えてほしかったです。結局私は、あなたにとって他者でした。だからあなたは今もこうやって、私に救いの手を差し伸べてくれるのでしょう。でも、違うんです。私はあなたに、あなただけを、救ってほしかったんです……


 譲葉先輩のことを、もっと、もっと知りたかった。


 思い出したように、メニューを開く。何を頼んだらいいかわからなくて、ぼうっと写真を眺める。顔を上げると、少女は笑顔を振りまきながら仕事に励んでいた。


 あの子と会って話せば、私の悲しみは清算されるのではないかと期待していた。

 でも、現実はそうではなかった。結局私は、今も苦しい。


 けれど、あの少女が伝えてくれた言葉は、もういない譲葉先輩からの最後の救済だった。それを受け取ることができただけで、このカフェを訪れた意味はあったのだろう。メニューのブラックコーヒーを見て、彼女のことを思い出して、また視界が滲んでいった。

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