観察は情事のあとで(月野)
※前話をお読みいただいた方が分かりやすいと思います
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尚香さんとの約束まであと五分。急がないと。
「お疲れさま、でした」
バックヤードで着替えを済ませた僕は、古参バイトのイチさんに挨拶した。
「お疲れさん月野。……あ、ちょっと待て」
「なにですか?」
イチさんはカウンターをうかがってから僕に肩を寄せた。まだ店にはマスターとその友人がいるからだろう。彼は「お前さ、尚ちゃんとどうなってんの」と声をひそめた。
尚香さんは僕と協力関係にある女性で、会えば地球人式に体を繋げる相手だ。広義の『交際』で、狭義としては恐らく『恋人付き合い』。一般的にお客さまとそういう関係になることは、こと日本においては推奨されない。だからイチさんは声を低めたと理解した。
「? 仲良し、です」
「あーうん。だよな。ごめん趣味悪ぃことした、それは知ってる」
彼は気まずそうに頭を掻くと、天井を見上げた。これは地球人がよくする仕草だ。尚香さんはあまりしない。
「なんつーか……さっきの尚ちゃんの様子、気になったから」
僕はイチさんが彼女のことを『尚ちゃん』と呼ぶと変な気分になる。これはいつか検証考察すべき現象だと思ってはいるが、今ではない。
「どんな様子、わからない」
それにこういうとき、僕は困る。
だって彼女はさっき笑っていた。僕に気づいたときも、「あとで」と会計のときに囁いたときも。
知識と実際にズレが生じるとき、外星人である僕と彼らの間に分かり合えない溝があるような気がする。特に今は、尚香さんと僕との間にも越えられない海があると暗に示唆されている気分にも。
「なんていうか、寂しそうだった。早く行ってやれ」
「はい……?」
それなら呼び止めないでくれよ。
僕は再びお辞儀して店を出た。
二分も無駄にしてしまった、尚香さんとの貴重な時間——大切な観察と検証時間が減ってしまう。待ち合わせはいつものファミレス、もし遅くて彼女が帰ってしまっていたら!
僕は誰も見ていないのをいいことに、ビルの壁を蹴って屋上へと飛び上がった。軽いコンクリの足音が小気味いい。地球の重力は僕にとってちょうどいい、飛びすぎず速くなりすぎない。
日本人は誰も空を見上げない。今日は曇りだし。
雲間から朧な故郷の影が見えて、僕はちょっとだけホームシックになる。
毎日、生活と地球人観察のために働くことは苦にはならない。むしろ興味深い、地球人は月人に比べると多様だ、その身に秘める感情の種類も。
だからこそ月に帰りたいと思うことは多い。穏やかで淡々とした空気が恋しくなる、行動や行為の裏など存在しない世界の方が楽だから。
だけど尚香さんとの『恋人付き合い』を存外楽しめていることも事実だった。
——見えた。あぁよかった、彼女は今夜も待っていてくれた。
変だなと思うのはこういうときだ、地球でいう心臓が強く打つ。病気かと思って妹に通信で聞いてみたがなぜか一蹴された。
実際尚香さんと接触するといつも風邪気味になるのは事実だから、地球特有の病だろうかとも思う。やはり月に帰って調べるべきか?
僕は店の裏手に飛び降り、髪を手早く直した。しっかりとピンで留める、触覚が露出しているとまずい。コスプレだと思われるならいいが、万が一引っ張られたら目も当てられない。
窓越しの彼女は眠そうに目を伏せていた。いつもだ、仕事で疲れているんだろう。でも僕が着くと笑うんだ。
尚香さんは可愛くて素敵だ。興味深い、いつでも観察したい。
さっきまで痛いほどだった心臓が温かく満たされる。またこの感覚だ。
それに彼女に会うと隙間なく接触したくて仕方なくなる。月では経験しなかった、原始的な衝動に突き動かされてしまう自分さえ興味深い。
いいや考察はあとだ、今は急ごう。
耳が弱い。背中もその先の少しへこんだ窪みも。そっと撫でると尚香さんからは必ず声が上がる。ぶわりと彼女の香りが立つ。僕は愉しくて舌を走らせる、震える肌を濡らす。
そうして液体のように彼女はぐにゃぐにゃになるころ、僕の触覚はたまらず知覚したがってピンを飛ばしてしまう。彼女の匂い、柔らかさ、体温も鼓動の速さも——すべてを味わいたくて本来の知覚器官がしゃしゃり出るのだ。
でも無理だ、彼女は月人ではないから触覚を通して深くわかり合うことはできない。少し切なく思うけど仕方ない、地球ではイルカと交信するくらいしか使い道がない代物だ。それより僕が地球人ではないとバレるのはまずい。
「尚香さん、うつ伏せなるます」
「ふ、ぅう……あ、」
教えられた通り、キスを落としつつ彼女をひっくり返す。これで見えない、ヨシ。
うなじも肩も赤く染まる彼女に、またしても胸が重く痛む。不安を無視して彼女のふくらみに手を伸ばせば僕も声を上げそうになってしまった。
◇
——大学の研究のための観察も、尚香さんとの交際も順調と思っていた。彼女から「もう会うのやめない?」と言われるまでは。
そして僕はついカッとなって、彼女を抱き上げて誰からも見られない場所に連れてきてしまった。地球ではありえない跳躍を以て。今夜が満月、カミングアウトにはおあつらえ向きだ。
彼女の優しげな顔をじっと見つめる。急に本性を現したから混乱している様子ですら可愛らしい。
いや待て、それよりどうして彼女は僕との関係を解消しようと?
「尚香さん……」
彼女の瞳ははっきりと恐怖に揺れた。僕は咄嗟、言葉を飲みこんだ。
あぁ嫌われたんだ。
するとこれまで感じたことのない痛みが胸に走った。いや息すら苦しい。僕の体は一体どうしたんだ。
「……わたし、月から来ました」
彼女の眉が上がった。恐怖は不安へ——いつの間にか触覚が露出していたようだ。まぁいいか、もう。
「な、なに……? 冗談はやめて」
彼女が小さく答えた。でも言いながら目尻に涙が溜まっていくのがわかって、僕は誘われるように彼女に近づいた。いつもこうだ、なぜか彼女には接触したくて体が勝手に動く。
僕はしゃがんで涙を吸おうとした。でも彼女は逃げて嫌がった。
内心ムッとした。僕が地球人じゃないから? そう思った瞬間、新たな仮定が浮かんで僕は震えた。
僕と終わりになったら、他の地球人と——?
だから気づいたときには耳を食んでいた。
「ねぇ」僕じゃだめ?
彼女は「いや」と喘ぐ。だめだよ許したくない。
キスを落とそう、そうすれば尚香さんはぐにゃぐにゃになる。目尻にひとつ、まぶたにひとつ。彼女に教えられた通り、丁寧にたくさん。あぁ早く口づけたいと思うのを我慢して。
だけど、ふと見ると彼女は泣いていた、目をきつく閉じて僕を見ていなかった。さっきの苛立ちが腹の底で渦を巻いて口から出た。
「わたし、地球人じゃない、キライ?」
彼女は唸って沈黙して、そして「だめなの。もう苦しい」と言った。ザァと血の気が引いたのを自覚する。
体を離した。
様々な場所で、似たような状況は観測していた。同時に個人の表情の変化も。
観察する女性に尚香さんを重ねてはあれこれ考察した。
だって彼女を理解したかった、わからないから面白いままじゃなく、すべてを知りたい。暴きたい。体だけじゃなく、見えない心も、言葉の裏側も何もかも。
だけど彼女は嫌なんだ。地球人じゃない僕は、言葉通りだめなんだ。
「胸痛いです。変。……月に帰る、調べる思うます」
そうだ、もう帰ろう。月を見上げた。
すでにデータは随分前に集まっている。ずるずると地球に残っていたのは彼女のことが——。
「もう……帰ってこないの?」
僕はハッと彼女を見た。一貫して別れを求めていた彼女が、矛盾を漏らしたからだ。今や仰向けで泣く彼女に、近づいた。
「月でもどこでも……どっか行って……!」
きっと嘘だ。
だってわかる、こんなに泣いてる。
悲しいんだ、苦しんでるんだ。何が原因かはわからないけど。
知りたい。彼女を、もっと。
「やっぱり帰る、やめる」
僕は彼女の隣に寝転んで、腕枕した。ぐいと抱きしめて、湿った首元に額を乗せた。彼女と『恋人付き合い』をしてから知った、僕の好きな体勢だ。
「行かない、ここにいる」いたいから。彼女が何か否定の言葉を上げる、でも構うものか。
「尚香さん、ずっといる。離れない」
「だめ……だよ」
それは『だめ』じゃない声色だった。僕は可笑しくなって、つい彼女の前髪に口づけた。本当は唇にしたい、でもここでは良くない。
「行こう尚香さん、わたしのうち。ここ寒い、風邪ひくだめ」
「やだ、だめむり」
地球人の言葉の裏はとかくわかりづらい。
だけど、それが初めて可愛らしいと思ったのは、彼女にピアスを届けたときだった。
あのときの千鳥足の彼女は、外では愉快な酔っぱらいでしかなかったが、家に着いた途端「寂しい」と泣いた。行かないで、ひとりは嫌だと。
毛布で包むとおとなしくなった彼女の涙のあとを拭いながら、面白いと思った。寝る直前まで僕の手を離さなかった、子どものような彼女が。
「わたし知ってる」
——でも尚香さんの『やだ』と『だめ』はわかった。もう絶対に間違えない。
なぜか急に大人しくなった彼女を抱いて、僕はやっぱりキスをした。途端ぎゅうと胸が痛む、もしかしたらインフルエンザというやつかもしれない。
月人の僕は地球のウイルスにめっぽう弱い。医療関係の仕事を探そうか専門家になって自分用のワクチンを作るのも手だな、なんて考えつつ、僕は彼女の耳を食んだ。月人の求婚だ、本当は触覚だけど。
だけどまずは、彼女をぐにゃぐにゃにするのが先だ。
僕は屋上の端から、日本語の愛してるは何て発音するんだっけ、と思いながら跳んだ。
(了)
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『匿名キャラお見合い企画』参加
【No.049】観察は情事のあとで【性描写あり】
【メインCP:男28. 月野 廻光(ベンジャミン四畳半さん)、女18. 小日向 尚香(海瀬 瑛さん)】
3000字くらいの短編集 micco @micco-s
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