観察は情事のあとで
彼、月野くんとは出会って半年経つ。
行きつけのバーに金土で働くハタチのフリーター、あと二年で四十になる私には眩しいほど若い。カウンターの中に立っているときは少々頼りなく見えるけど、掛け持ちバイトでフルタイム労働できる体力も、どこの職場でもうまくやる愛嬌もあるようだ。実際年上からは気に入られるタイプだし、彼目当てのお客さんも見かける。
彼には、オリエンタルな雰囲気なのにどこか野ウサギに似た素朴さがあって、全体的に「かわいい」感じ。
国籍は日本らしいけど、外国育ちの言動はギャップがあるので、新人バイトとして彼がシフトに入り始めたころには元からいたバーテンと「スルメ味だわ」なんて笑っていた。ひどく遠くて、すでに懐かしい記憶だ。
「
今では彼に名を呼ばれるだけで理性が溶けて、肌が触れると言葉も忘れてしまう。
温い泥のようになった醜悪な私は、コトが全部終わって一時の巣を出るまで——繋いでいた手が離れてようやく元の形を思い出す始末。そうして後悔する、冷えて固まった心が。
◇
始まりはふた月前のことだった。
私は忙しさのせいでたった二杯のカクテルでしたたかに酔い、お気に入りのピアスを店に忘れた。手遊びに耳に触れる癖が出てしまったのだろう、それはカウンターに転がっていたそうだ。
千鳥足で駅へ向かう私にそれを届けたのは月野くんで、私のあまりの酔っ払いぷりに『面白い』と笑ったのだけは覚えている。
それで気がつくと私は自宅の玄関内で毛布に包まれていて、耳にはピアスが戻っていた。
次にお店で再会し、彼が自発的に私を追いかけてくれたと聞いて、妙な優越感に浸ったのが最初の過ちだったのかもしれない。バイト上がりの彼を待ち、遅い夕食に誘うくらいには調子に乗っていた。
週末深夜のファミレスは賑やかで、私たちのことなんて誰も見ていない雑多な感じがよかった。細かい話はもう忘れた。でも彼がふと真顔になったあとのセリフだけは耳に残っている。
「わたし人間くわしい。でも小日向さん、ちょっと面白いです」
瞬いたときには彼はいつもの笑顔になっていた。でもどこか変だった。人畜無害な瞳の奥に火が灯ったような気配があった。
私は分かりやすく狼狽え、そして無遠慮で勝手な評価に年上としての矜持を傷つけられたように感じた。
「面白いって。あんまり女性にそんなことを言っちゃだめよ」
「なぜです」
「だって嬉しくないし、褒めるなら別の言葉にしないと。嫌われるわよ」
まるで部下に叱責するような調子になった。月野くんはひょいと首を傾げた。意に介さなかったらしい。
「別の? 例えばなんて言う、いいですか」
「そうねぇ。
「分かりました」
あまりの素直さに『貶す』って言葉知ってたかなと、私が眉を寄せたとき。
「小日向さんは素敵、可愛い、です」
「え!」
「あなたを、観察、いいですか?」
あのとき、無遠慮に目を覗きこんできた彼の真意は未だにわからない。反射的に肯いてしまったけど、『観察』の意味も。
そして観察の過程とはいえ、その辺の男女なら行き着くだろう行為の果てにいる私たちは、この先どうなるのだろう。考察は、結論は——?
彼の手や唇がそこらじゅうを撫でれば、胸の奥を鈍痛が穿つ——終着点が見えない恐れのせいだ。だけど彼のどこか一部によって、ぐずぐずと外へ発してしまう好意的な体液や声は空気を媒介に私へと戻ってくる。いかにこの時間を欲してしまっているかを自覚せずにはいられない、彼にそうと伝わってしまう、それがつらい。
まっすぐに見つめる視線に耐えきれず唇を合わせたのは私。この関係にあえて名前をつけずに始めたのも私。
◇
「月野くん、もう会うのやめない?」
彼にしては珍しく立ち止まり、表情豊かに見つめ返した。心底驚いたらしい。醜い溜飲が下がって私は自然に微笑むことができた。
「ちょっと疲れたの。年も離れてるし、会ってもするだけでしょ?」
「尚香、さん」
呼ばないでよ。私は、私でいるために目を伏せた。
「なんで、あなた悲しそう……ちがう、眠い?」
思わず笑いが込みあげる。あぁ私たちは決定的に分かり合えない、彼は私の複雑さを永遠に理解できないと確信する。
「観察は失敗ね」
いいや失敗してよかったのだ。私の、素敵でも可愛くもない胸の内を晒すことになるくらいなら。
彼に会うために気合を入れたスカートも、耳を舐られるためのピアスの重さも今はひどく滑稽だ。彼のラフでもう真似できない
「もう帰るから」
だって私は充分悩んだ。
『弄ぶのはやめたら?』と相談した友人は揶揄した。『仲良さそうだな』と馴染みのバーテンも微笑えましそうに言う。本当はそのどれでもないし、逆かもしれない。
わからない、まっすぐに愛されたことがなくて。
膨大なパズルピースの前に手を出せなくなってしまう子どものように、私は月野くんとの関係に途方に暮れていた。悩むほどに先なんてないと思い知った。
バイバイ。私は繋がれた手を離そうとした。だけどぐいと強く繋ぎ直される。
「こっち、尚香さん」
「待って……え、きゃあッ!」
裏通りに引っ張られたと思った瞬間、私は軽々と彼に抱きかかえられ宙に浮いていた。浮いてるって何⁉︎
「声、だめ。聞かれる」
反論は言えなかった。だってあり得ないことに、彼は壁を蹴って二メートル近くジャンプし、ビルからビルを渡ったのだ。
ようやく彼が人間離れした跳躍をやめ、「大丈夫?」と気を遣ったのは見覚えのないマンションの屋上だった。
私は震えていた、だってこんなのおかしい。信じられない、何が起こってるんだろう。腰は随分前に抜けていて、足を下ろされた瞬間、私は剥きだしのコンクリに膝をついた。
「尚香さん、」
「つ……あ……」
言葉にならない。夜空には満月がかかっていて、月を背負う彼がまるで化け物じみて見えた。髪の毛もボサボサで——待ってあれは、何? 頭からふたつ、細長い耳のようなものが突き出ていた。
「わたし、月から来ました」
逆光で彼の表情はわからない。だけどやけに静かな声だった。
「な、なに……? 冗談はやめて」
不意に彼がしゃがんで私に顔を近づけた。途端、私の口からは「ひっ」と声が漏れた。私はまだ尻もちをついたままで、後ずさろうと脚を立てた。
「尚香さん、わたしをキラウ?」
膝頭を、彼の大きな手が包んだ。温もりが伝わる前に、彼の顔がさらに迫った。スカートの捲れた膝の間に、彼が入りこむ。まるで情事の始まりのような態勢、私は顎を逸らした。
「どうして、会わない? バレたから?」
すり、とお互いの髪を擦って頬が合わされた。彼の匂い。耳に息がかかった。
「尚香さん」
彼は私をよく分かっていて、答えも聞かずぬらりと耳を含んだ。かちり。私のピアスと彼の歯が鳴った。一瞬で恐怖が快楽に塗りかえられる、ずるい。
頭を手で支えられる感触にどこか安堵してしまうと、耳朶を食まれ、背が突っぱった。「ねぇ」と吐息と捻じこまれる声には辛うじて「いや」と喘いだ。
けれど今度は唇を目指して小さなキスが何度も落ちると、体が痺れ始めた。頬を、目尻を、まぶたを。勘違いしてしまうような丁寧さに、力が抜けていく。
これまで付き合ったどの男よりも優しいキス、拒否できない。泣きそうなほどの愛しさと苦しさが込みあげて息ができない。いや自業自得だ、全部私が教えたことなのだから笑えない。
ついに口の端をちゅうと彼が吸った。早く、と言いそうになる。だけど、
「わたし、地球人じゃない、キライ?」
唇にそう吹きこまれるように囁かれたと同時、頭は冷静になった。流されて応えかけていた舌を引っこめた。
違う。地球人とか月から来たとか、そんなことどうでもいい。冗談でも問題にならない。
キライなんかじゃないからどうにもならない、
「だめなの。もう苦しい」
すれ違うことに耐えられない。
キライになれたなら、体だけでいいと割り切れたなら。
裏切られると、信じられず怯えて愛するのが怖い。愛されないのが怖い。
熱くなっていた頬を、夜風が撫でた。近すぎて見えなかった彼の瞳が私をのぞいていた。
「尚香さん……キライ、わかった」
そして彼は簡単に私から手を離した。
「……ぁ、」
「よく、わかった」
しゅんと彼の頭の柔らかそうな突起が萎れた。
「送る、ます」
私は唐突な冷えに震えた。言葉も距離も一瞬で遠のいた。もうどこも触れていない。
呆然と、彼を見上げた。これが私の望んだ結末。
すると彼は困ったように言った。初めて見る、眉の下がった表情。
「尚香さん、わたしキライ。胸痛いです。変」
そして立ち上がって、視界から消えた。後ろに両手をついた私を、月だけが見ていた。力が抜けて仰向けになった背を、じわじわとコンクリが冷やす。
「月に帰る、調べる思うます」
遠すぎて届かない場所から撥ねる光が、私を照らした。あそこに?
「はい」と返事があった。「少し遠い」とも。
「もう……帰ってこないの?」
言ってから、なんてバカなことを両手で顔を覆った。そんなこともう私には関係ないのに、月がどうとか興味ないのに。
私はとっくに泣いていた。そして脚を子どもみたいに投げ出して、「月でもどこでも……どっか行って……!」渾身の嘘を放った。
だってこれまで裏切られてばっかりだった、好きだよも愛してるも全部建前で嘘。もう傷ついてひとりになるのは真っ平、だから今度は私が先に裏切ってやるんだ。
あぁなんて私は醜い。でもそうでなきゃ、この苦しさは消えないから。
涙が止まらない。
誰かに期待なんてしてはだめだ。いやだ、私に構わないで。
「……やっぱり帰る、やめる」
そのとき、ごそっとすぐ傍で物音がしたと思ったら、勝手に首の下に彼の腕が入ってきた。反対側の肩が抱かれ、顔を隠しているだけの私は力づくで彼の腕に抱きこまれた。私の肩に彼が顔を埋めた。
「行かない、ここにいる」
「なんでよぉ。やだ、むり触んないで」
「尚香さん、ずっといる。離れない」
私はますますわめいた。『ずっといる』が本気に聞こえてしまったから。
「だめ……だよ」
だって観察していたのは彼だけじゃなかった、私だって彼を見ていた。
普段の笑顔が気遣いの表情だってことも、時折見せる真顔は驚きだってことも。子どもっぽく言う言葉が本音だってことも。
私と会ったあと必ず風邪気味になることだって。
ふふ、と笑って彼は私の前髪に口づけた。
「行こう尚香さん、わたしのうち。ここ寒い、風邪ひくだめ」
「やだ、だめむり」
「わたし知ってる。尚香さんの『やだ』と『だめ』。『いい』のこと」
——私はついにそっと顔を上げた。
面白がるような黒い瞳がのぞきこんで、私の理性は呆気なく溶けた。
信じたいんだ、いつか別れてしまうとしても。今だけは一緒にいたい、それが『ずっと』だって彼が言うなら。
ちゅ。まるで自分のものように私の唇にキスを落として、また私を簡単に抱き上げた。
「胸、キスしても痛い。早くうち、帰る」
「ぁ、やっ……こらぁ!」
私の耳に噛みついて愉しげに笑うと、月野くんは宙にぴょんと跳んだ。
(了)
——————————————————————
『匿名キャラお見合い企画』参加
【No.049】観察は情事のあとで【性描写あり】
【メインCP:男28. 月野 廻光(ベンジャミン四畳半さん)、女18. 小日向 尚香(海瀬 瑛さん)】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます