湖
僕は怒っているのだろうか。
あの人はふとした日に死んだ。勿論兆候は少なからずあった。あの人の目から生気がなくなっていく感じが、
人は基本段階的な変化には気付けないものなのだと思っている。それは自分に対しても同じだろう。それに気づくときはなにか客観的な数字に触れたとき。又はその段階的な変化の一段階がとても大きかったときくらいなのだ。ダイエットとかがいい例なのだろう。仮に体重が減少しつつあっても気づかない。体重計に乗って初めて分かる。なぜそうしないとわからないのか、それはただ段階的な変化が常に少しづつ起こっているからだ。人間はデータのように明瞭に変化しないのだ。
それは他者目線でも大きく変わらない。毎日外をランニングする相手がいたとして、相手が日に日に日焼けしていってもなかなか気づかない。気付けないのだ。
ただこの気付きについて他者の場合においては一つ例外がある。それは頻度だ。ある人が毎日日焼けサロンに通ったとして、毎日その人にあっている人はなかなかその変化に気付けないだろう。しかし、一ヶ月ぶりにその人に会ったらすごい焼けたな。となる。
しかしその例外は今回の事象にはそこまで関与していなかった。なぜなら僕はあの人の家に毎日通っていたからだ。
「僕はたぶん死ぬ。」
そういったときのあの人の顔は不思議だった。
「君はこれからも毎日来てくれるのかな。」
その言葉は僕を試していたのだろうか。としたらどんな選択を求められていたのか。僕の頭はよく回る。けど、その演算能力は、このとき一切機能しなかった。
「死にたいの?」
僕はそう聞いた。僕は何も知らない。何もわからない。それでも、いまはそれで、それがいい気がした。
「うーん、多分僕は寝たいんだ。」
「寝る?」
「そう。君は、みかんが好きかい?」
好きだよ。とは言えなかった。僕には今日のあの人があの人に見えなくて少し恐怖感を覚えた。目の前にいる人間の表情も、話し方も、あの人なのに、僕はあの人と思えなかった。
「僕が死んだら。みかんを食べておいてほしい。腐ってカビたりしたら、みかんに対して不誠実だからね。
でも君が本当はみかんが好きではないとかなら、無理はしないでいい。
あと警察に通報しておいてほしいんだ。お隣の人とかに死体を見せるのは気の毒なきがするし、死体の匂いはいいものではないからね。早めに回収されるに越したことはない。」
きっと僕はたった数日であの人を知った気になっていたのだろう。あの人は不思議な人だ。でも僕にはあの人に美しさを見出したときのあの映像がくっきり残っていた。
あの人は死ぬといった。人はいつか死ぬものなのだ。
あの人は死ぬといった。それはいつのことなのだろうか。
あの人が死ぬ、らしい。それは僕をどうさせるだろうか。
「わかった。僕がここに来れるあいだに死んだら、そうしておく。」
答えを考える必要もなかった。
黒瀬という女がいた。いや、彼女は自分を黒瀬と名乗ったに過ぎない。すなわち素性のわからない女だった。そんな女と僕が出会ったのはとある湖でのことだ。もう2年前になる。
ここの湖には基本人が来なかった。たしか廃れた看板に湖の名前があった気がするが、見たこともなかった。
水蒸気というのは特有の匂いを持つらしかった。僕はそんな匂いが好きでここに通っていた。今日は湖に行きたいとかそんな理由で大学の授業にほぼ出席しなかった。
僕はきっと生を望んでいないのだろうと何度か考えたことがある。産んだ親に恨みはないし、生をまっとうするうえでそこまでひどい目にあったわけでも僕の記憶の中ではない。それでもきっと僕は生を望んでいないし、なんで僕は生まれたんだろうと思う。
この世に魂なんて概念があるのだとしたら残酷だ。この世には生まれてくる子供がたくさんいて、きっと僕のように生を望んでないのに生まれる人間がいて、逆に生を望んでいるのに死んでしまう人間がいるのだろう。僕の魂はそんな死んでしまう人間に与えられて、生を望んでいる魂が僕の身体にあれば。
湖は僕を拒否しなかった。川にぬしや神様がいる昔話を読んだことがある。きっとそのような話は神様が題材なのではなく、その水には命があると言いたいのだろうと、そんなふうに考えていた。水は人より人を殺すことができる。僕を湖が拒絶することは簡単なのだ。だから僕は湖に生かされているのだろう。それすなわち湖は僕がここに居ることをみとめているのだろう。
そんな基本誰もいない湖に人がいた。人は眠っていた。寝袋に入って、無警戒な顔つきで。整った顔立ちだと思った。
「何をしている?」
僕は意図的に彼女を起こした。
「睡眠。広く考えるなら、生活ね。」
始まりはここからだった。
「ここは湖だ。なぜここで生活を?」
この世にはある程度抽象的に一つの物事に対して決まった場所があるものだ。例えば排泄をするならお手洗いがあって、喫煙をするなら喫煙所があるように。
「生活の場なんて決まった形はないんじゃないかしら。人が生活してたらそれは生活の場だと思うわ。
石器時代なら野宿なんて不思議なことでもないし、何なら寝袋があるでけでも質は高いわ。それにあなたの言い方だと橋の下でダンボールに囲まれて生活してる人に失礼なんじゃないかしら。」
半分正しいと思った。人が生活していたらきっとそれは生活の場なのだろう。しかし時代が移り変わろうと家がありそこに決められた寝床があり。人の生活の場はそうあるべきだと思っていた。でも僕が言いたかったのはまた別のことで、
「少し解釈がずれている。僕はただここで生活してる意味が知りたい。川でダンボールに囲まれて生活する人間を見下しているわけではなく仮に君がそんな人間と似たような立場ならなぜここを選んだのか。と聞きたいんだ。」
僕は湖を愛していた。この場所が好きだ。しかしながら僕は湿度の高い場所を嫌った。ここは比較的じめついた場所だ。僕はここを嫌いながら、愛していた。
「人気がないからかしら。私はのんびりできる環境を求めて入るけど団らんとか協力とか搾取とかは求めてないの。」
たしかにここは静かだった。雑音のない場所だった。僕は自習室が嫌いだった。何かを書く音が聞こえた。文字でも、図形でも。そんな空間が嫌いだった。それは僕にとっては雑音以外の何物でもなかった。雑音がないとは自然なものなのだと思っていた。
「ここでどうやって生活を?」
自然と質問攻めになってしまっていることに気づいた。不本意なことだ。僕はここを僕以外の人間のいない場所と考えている節があった。ここの水が認めた人間は僕だけだったり、そんな馬鹿げたことも少し考えていた。これは決して僕の独占欲から現れた感情の類ではなく、人里離れているわけでもないこの湖に人が来ないという事象に対しての一つの考察に過ぎなかった。
僕はここの水が認めた彼女に興味を持った。話したいと思った。故にこの状況は望んだものではない。目的は対話でありそれを逸脱しないものを望んだ。僕はただ彼女の一つ一つの回答が僕のイメージから外れているから言葉が自然と疑問形になるのだ。
負い目があるから、僕は彼女の表情の変化にいち早く気づいたし、そして少し恐怖した。
「話すのはいいけどあなたも座ってほしい。下を見て話されるのは嫌いなの。腹が立つ。同等の目線になって。」
と言われて僕は腰を下ろした。僕はこころのなかで一度安堵した。彼女は満足そうな顔をして続けた。
どうやら彼女は現在の状況を嫌と思っているわけではないらしい。
「食料なんて探せばいいしそもそも蓄えがあるから今のとこ探さずに生きていけてるわ。樹の下で寝れば雨はしのげるし、ここの水も濾過すれば案外飲めないことはないわよ。それなりにきれいな水だわ。」
この空間は僕に令和を感じさせないものだと一度評価をしたことがある。きっとこの感性を目の前の彼女も持っているのだろうと僕は即座に悟った。だから少し野性的で、知恵的な思想を持ってここで生活をしようとしているのだろうと思った
「今の生活を楽しんでるか?」
僕は人間とはある程度楽観的な生き物なのだろうと評価している。住めば都という言葉がある。きっとそれはこういうことなのだ。
人間は満足を求める。しかし満足とは案外簡単に得られるものなのだと思っている。プラスに目を向けることだ。マイナスから目をそらし、プラスにフォーカスすれば、人は自然とある程度の満足感を得られる。
僕は一度都会から田舎に引っ越しをしたことがあった。当時の僕はそれを自分に対してマイナスな影響を及ぼす人生のイベントであると評価していたが、田舎というのは文明のレベルが多少下であるように感じられるが、空気が澄んでいて健康的な匂いがする。人同士の繋がりが強固で美しい。そんなふうに見ることで僕はこの引越というある種人生の転換点をプラスに捉えることができた。
これは意識して得た思考回路ではない。本能的にこうなったものだ。僕は自分をある程度悲観的な人間であると認識している。しかし人間とは本質的に楽観的なのだ。なぜか、きっとそれは悲観的であることは、エネルギーを使うことだからなのだ。抗うより受け入れるほうが、簡単なのだ。
この思想を持っているならこんな質問はしなくてよかったのかもしれない。それでもしたのは、ただただ彼女を知りたかった。その一心だったのだろうと思う
「ある程度。でも人間って基本満足できない生き物なのよ。欲張りなの。願いが一つ叶うとプラスαを求めてしまうの。だから満足はきっと一生できないんだと思うわ。だから私は今のままを愛そうと思うの。」
たしかにそうだ。と思った。しかしそれは不思議なことだった。彼女は満足のために自分をこの場所に連れてきたのだろう。彼女にはそれほどの度胸があったのだ。しかしながらなぜそれで己の欲望にストッパーを掛けたのか。
「欲望に逆らうのは辛いことではないのか?」
彼女の答えには疑問と矛盾があった。欲望のままにアクションして、それによって満足感を得た人間が己の欲望の真逆、即ち現状維持に走っているという事実に僕は少し納得ができなかった。
「さあ。私は逆らってないから。」
「それはおかしくないか?」
「なにがおかしいの?人の欲望は常に1つではないのよ。私は今を愛することを一つの欲望にしているだけ。」
彼女は人格者なのだろうかと思った。いや、きっと違うのだろう。きっと僕の頭が少しばかり堅苦しいのだろう。しかしそれはまた一つ疑問だった。
「それ即ち、愛していないということなんだろう?」
彼女は”愛せていないものに満足感を見出した”ということだ。それがふしぎでならなかった。そして僕には無理してこの現状を受け入れようとしているようにも写った。僕には理解できない話だった。それがなぜ欲望になり得るのかとも考えた。
「そうでもないわ。割と今の生活楽しんでるの。私。」
考えは深まるばかりだった。蟻地獄を連想させた。きっと僕はこの問いに対する答えを一つすら出すことはできないように思えた。
「ならなぜ愛していないんだ?」
これは愚問だった。きっと満足と愛は大きくベクトルが違う概念なのだ。類似していると僕が勝手に思っただけなのだ。
「そうね、このまま行ったら行く先が破滅なのはわかっているから。破滅するために生きるって、なにか絶望を感じないかしら。そして絶望を想起させるものを愛するのは難しいことよ。」
破滅。僕は小さく復唱した。未来を人は見ることはできない。しかし想像することはできる。彼女はきっとこの生活が長く続かないことを暗に理解しているのだろう。
「それでも、愛したいのか?」
きっとこれは残酷なことなのだろう。破滅を愛するのは並の人間にできることではないのだ。僕は昔読んだ小説を思い出した。死に至る病を持つ人間に恋に落ちた人の話だ。僕はその小説を美談ではなくとても残酷な話なのだと思った。きっとその主人公はこのあとも愛する死人の幻影を追いかけていくのだろう。そういう定めなのだろう。彼女も大きく変わらないのだ。この場所を、未来のないこの場所を、彼女はここがきっと好きなのだろう。だから愛そうとしている。この湖は水溜りであり底なし沼でもあるということだ。
「そうね、自分の選んだ道を愛せないのは過去の自分に失礼な気がするから。」
やはり、理解できるようで、僕には理解できない話だった。
「あなたは湖が好き?」
きっと質疑応答というのは応答側のほうが気が楽なのだろうと思った。なぜなら元々持っている原稿を読むだけでいいからだ。答えたくないものや、わからないものはそれらの原稿を持っていないと嘘をついていけば良い。こんなにも気が楽なことはない。
今度は相手の時間だった。
「嫌いではない。でも好きできているわけではないと思う。習慣のようなものだし、ふとした時自然とここに足を運ぶ。僕にとって湖は僕の生活の中の一つなんだと思うよ。」
「なぜここに来ているかはこのあと聞こうと思ってたんだけどな。」
「ある程度質問の内容を予測して先に答えられれば会話が効率的だろう?」
「勿論効率的だけど。ここに効率を求めても何も意味はないと思うけど。」
「そんなの当然だ。だから別に狙ったわけではないよ。ただ流れるように言葉を発しただけ。そもそも僕は考えて話すのは得意じゃない。」
「そっか。じゃあ、この景色は好き?」
「この景色?」
「私は割と好きなの。この景色。だって嘘みたいに見えない?この世ってものが。
緑って色が私は比較的好きなんだけど、それ以上に人工的な景色が嫌いなの。周りを見渡したらそこにある景色はすべて人間が破壊を行ってできた産物。それ以上に残酷な景色があるかしら。でもここには人がいないの。200mもしたらまた人工の景色だけど、ここだけはなんだか最初からこのままだったように見えて。
私は残酷さを感じさせるものが好きじゃないの。」
と言って彼女はカバンから一つのみかんを取り出して僕に投げた。
「お近づきの印ってやつ。」
キャッチすら僕には危うかった。彼女はそんな僕を見て一度笑った。だから僕は聞いた
「名前は?何ていうんだ。」
うーんと考えるような顔をして、彼女は言った。
「黒瀬。」
そんな話をしながらみかんを食べた。とても酸っぱいみかんだった。
みかんを食べて酸っぱそうな口をした僕を見て黒瀬は笑った。でも僕は怒る気にはなれなかった。別に怒っても良かった。冗談交じりに頭を叩いてやっても良かった。
でもそうはしなかったし、する意味も特になかった。
話しているとふと黒瀬は暗い顔をした。残酷さを感じさせるものが嫌いだと彼女は言った。きっと彼女はとても残酷なものを過去に五感のどれかで感じさせられたのだろう。
彼女は破滅を愛するのは難しいと言った。
僕はその理由を興味本位で聞いた。
「生物って残酷な概念だと思わない?」
「考えたこともないな。」
「生物は卵となったときその時点で二つの義務が課せられるのよ。生まれること、そして死ぬこと。私死が怖いわ。でも生まれた以上いつかは死ななくてはならないの。それってとても残酷じゃない?」
「でも人間の命は循環しないといけない。人間は歳をとる。移り変わるものなんだよ。」
「そんなのわかった上で言っているの。私はそのシステムが嫌。老いたくないとかそんなのじゃないわ。私はただ、命はもともとなくなるために生まれたなんて。こんなの考えても無駄なのはわかる。わかってるの。それでも、、、
きっと人は死がわからないの。そして遠く見てるのよ。だから怖くないの。でも私は具体的な数字を出されたわ。そうしたとき一気に死が怖くなった。ソクラテスは無知の知を示したわ。私は死に無知であると知った。それはとても怖いことのように見えたの。人は死から自然と目を背けてしまう。それは誰が悪いのでもなく生物に生存本能があるからなのだと思うの。人間が人間で自我を持っているから、人は自然と死を直視せずに、生きてしまうの。そしてこれからも人間はこれに気づかないんだと思うわ。私だってもうすぐ死ぬって思うまでこんな事考えなかったもの。」
「死ぬのか?黒瀬は。」
「死ぬ。」
「そうか。」
僕は立ち上がった。そしてほぼなかったが軽く荷物を準備して言った。
「生活は生活をする場で行うものだ。」
黒瀬の腕を引っ張って立ち上がらせた。
「どういうこと?」
「美味しいみかんが食べたいだけさ。人間は常に大きな目標を持って行動してるわけではないんだ。」
キョトンとした顔を一瞬見せたあと、黒瀬は静かに笑い始めた。
「たしかに。」
よくきこえなかったが、そんなふうに言ってる気がした。
「さあ。もう一段階上の満足を探しに行かないか?」
僕は水蒸気をふっとばすような大きな声で言った。
「連れて行ってくれるなら。」
満面の笑みで、彼女は答えた。
タイトルなし かすてら @Castilla_1473
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