シリウス

葉桜冷

シリウス

 多くの観衆が押し掛ける中に、人の波にもまれるように、きみはいた。

 灰色のボブカットに小さくて赤い四葉のブローチがアクセントに添えられている。小さな背丈で、らしくもなくピョンピョントと跳ねているものだから、長いスカートの裾が揺らいで真っ白な肌が見え隠れしている。

 そんな、きみの名前は夜河世界よるかわせかい。その場にいる大人たちには中学生くらいに見えるかもしれないが、この時間ではきみは17歳の女子高生だ。

「せんぱい」

 どうにか人込みをかき分けて、きみはきみが「せんぱい」とよんだ人の所に駆け寄った。

 そうして、手のひらに握ったネックレスを彼に手渡した。二つ一セットのネックレスで、二つ合わせると星型になるというものだ。

 きみはネックレスを手渡すと、彼の宇宙服に触れてなんどか指先で叩いた。


〈 ・・ ・―・・ ――― ・・・— ・ —・―― ――― ・・― 〉


「待ってるから」

 きみはそういって不器用に微笑った。

 そうして、握られた手のひらが、離れていく。

 宇宙ソラの向こうに行ってしまう人に向かって。



 ・・・ ――― ・―・ ・― ・・・・ ・ ・・― — ・― ・・―



「20世紀の空間超越ワープ技術の発展により、地球人類の宇宙開発は急進していきました。そしてさる2099年。とうとう『星図』の8割を完成させた人類は138億光年向こうにあるといわれる『宇宙の果て』を目指し、有人宇宙探査船『シリウス』を発進させました。しかし、残念ながら『宇宙の果て』にたどり着いた地点で『シリウス』との交信が途切れてしまいました。と、ここまでは教科書に書いてある通りです。しかし?」

「はい!」

 若い教師が説明とともに投げかけた問題に勢いよく少年が答えた。

「シリウスから連絡があったんですよね!」

「ええ、その通り。約10年間音信不通であった『シリウス』からモールス信号が届きました。ワープ技術の発達で何光年離れた宇宙でも即座に連絡が取れるようになったおかげですね。内容は〈・・・ ――― ・・・〉でした。どういう意味か分かりますか……っと、早かった」

 さっきの少年とは別の少年が勢いよく手を挙げた。

「はい! 『SOS』です!」

「ええ、よく勉強していますね。そしてそのSOSを受けてまもなく発進する救援及び改めての『宇宙の果て』探査を目的とした有人宇宙船『プロキオン』です!」

 賑やかに社会科見学が行われている、この場所はJAXAであり、この時間は2111年だ。

 社会科見学に来て目を輝かせてる少年少女をしり目に、きみは古びた靴をならしながら早足で歩いていく。

 かつてはボブだった灰色がかった髪はそのままにいくらか背が伸びて、顔立ちも鋭くなった。

 きみは少年少女に見つからないように関係者以外立ち入り禁止の扉から通路を通ってミーティングルームに入った。

 そこの入り口には『プロキオン乗員決起集会』と安っぽい張り紙が張られている。

「遅れてごめんなさい……」

「全然。時間にはちゃんと間に合っているから大丈夫だよ世界ちゃん」

「そうだとも。ンンン、朝主クンの言う通りだ。夜河くんはいつもよくやっているのだし、もっと自信満々に登場してもいい!」

「ていうか割と大きいプロジェクトなのにこんな安っぽい場所に呼ばれるほうがおかしいですよね」

「ンンン、成田クン。君のそういう言い方、素直でとても好感が持てるが……うん! 素直でとても好感が持てるな!」

 一人で納得しているテンションの高い小太りの男性は松陰という『プロキオン』の搭乗科学技術者である。

 松陰がツッコミを入れそうで入れなかった中肉中背の男性が成田という『プロキオン』の搭乗運用技術者である。

 そして、きみに最初に返事をした切れ長の眼差しで背の高い女性が朝主派流。『プロキオン』の船長であり、きみは船の操縦士だ。

 丸机の開いているスペースの君は座る。俯きがちなきみの目元には長い前髪がかかっている。その前髪を朝主さんは指先でかき分けた。

「ヘアピン、買ったほうがいいんじゃない?」

「いえ……別に不便はしてませんから……、でも検討してみます」

 きみが静かな声音でそういうと、朝主さんは「うん」と頷いて、壁際のホワイトボードの傍に立った。

「さて、今まで散々ミーティングを重ねてきたわけだし、今更何か言う必要はないと思うけど。いよいよ明日、アタシたち『プロキオン』は138億光年先にある『宇宙の果て』に向かうことになる。目的はSOS信号を送ってきた2099年の有人宇宙探査船『シリウス』の安否確認、可能なら救出にある。けれど、もう一つの目的があって、それは改めての『宇宙の果て』の調査だ」

 そこで一呼吸して朝主さんは船員を見渡す。全員、しっかりと覚悟を決めている様子で満足げに彼女は頷いた。このミッションは常に人手不足な宇宙開発事業において、あまり利益率の高くない任務だ。

 ただでさえリターンが少ないうえに、リスクが高すぎる。

それでも、少ないが確かな能力の船員をそろえられたことを彼女は嬉しく思っていた。

「ビッグバンで発生し、膨らみ続ける宇宙に理論上存在する端っこ。そこを『宇宙の果て』と定義しているけれどそこにあるものは当然ブラックボックス。何があるのか、現時点を持っても全く分かっていない。まあすごく危険だよね。うん」

 この場にいる全員、そのことは重々承知の上である。

「気を引き締めていこう。全員でしっかり仕事を終わらせて帰還しようね」

 朗らかに朝主さんは笑って、オーッ、っと手を挙げた。

 きみも含めて三人とも手を挙げた。

 松陰氏も成田氏も笑顔でそうしている。

 なのにきみは、どこか不安げな顔をしていた。



 すべてを吸い込みそうな蒼穹がある。

 開けた原っぱは風になびき、草葉はさざ波のように揺らいでいる。

 宇宙開発が進んで地球の土地問題はいくらかの改善がなされた。

 他の星のテラフォーミングが進んで、なんなら地球よりも住みやすい星が多く生まれたことによって地球の人口は結構減ったのだ。

 そんな地球の日本の某所、忘れ去られた街を一望できる草原に寝転がって、携帯端末をいじっている。

 そうして、思い人を待っている。



 きみが目を覚ますと、狭い天井があった。

「あぁ……夢なのね……」

 アンニュイにきみは起き上がる。

 遠い夢を視ていたようだ。

 

 地球は日本、種子島宇宙センターにあるロケット打ち上げ場。

 空間超越技術開発前は人工衛星の打ち上げを中心に行っていたが、開発後は有人ロケットの打ち上げも徐々に行われるようになっていた。

 すでに『プロキオン』の発進準備は完了している。

 鉛筆のように見えるほどに細いボディに流線上のペイントが施されており、その内側は空間の拡張によって外側からは考えられないほどに広い。

 広い海原の傍らににぽつんとそびえたつロケットはどこか場違いに白い。

 関わっている誰にも緊張の色は薄い。ここにいる多くの人間にとって宇宙ロケットの打ち上げは珍しいことでも何でもないのだ。

 いくらかの最終チェックを終えて、四人は『プロキオン』に乗り込んだ。

「みんな、準備はいい?」 

 全員が乗り込んだことを船長である朝主が確認する。

「ンン、問題、ないですよ!」

「わたしも、問題ありません」

「でも久しぶりですよねー。旅客用じゃないロケットに乗り込むなんて。五月蠅い客がいなくて、ほんとに楽ですよ」

「ンン。成田くん! ここには同僚しかいないからと言って、聞かれたらまずいことを言うのは感心しないが……、まあ! いいだろう!」

「ハイハイ。ふたりが仲良しなのはわかったから。体を固定して。夜河さんも……うん。ちゃんと出来てるね」

「はい。……派流船長、スムーズに発射準備が済んでいます。その分巻いて早く出発できませんか?」

「んー。確かに巻きで準備は進んでいるけど、発射時刻は流石に揺るがないよ。それくらい、夜河さんならわかってるでしょ?」

「……わかってます」

「うん。じゃあ、もう少し待っててね」

 きみは俯いて、手持無沙汰に首元をいじった。

 首元には片割れのネックレスがかかっている。

 もう片方は今、きみの恋人が持っている。

「夜河くん」

 不意に、松陰氏が君に声をかけた。

「ンン、君の事情は皆知っている。君の知人が『シリウス』に乗っていたことをここにいるみんなはちゃんとわかっていて尊重している。このプロジェクトに普段大人しい君がどれだけ尽力してきたかもわかっているつもりだ。けれど、焦りは禁物だ。落ち着いて、常に冷静な判断をするのが我々、宇宙飛行士だよ」

「……そう、ですね。ごめんなさい、わたし、どうしても焦ってしまって……」

「そうですよ。宇宙飛行士になるのに昔ほど厳しい試験を突破する必要がなくなったとはいえ、僕たちはあくまでもプロフェッショナルってやつなんですから」

「はい……」

「第一、 彼らがまだ生きてる保証もないですしあんまり期待しないほうがいいですよね」

「……」

「ンンン! 成田くん! 流石にデリカシーが足りないぞぉ」

「はいはい。お話は済んだ? じゃあ、そろそろ出発するよ」

 朝主さんは船長らしく、その場を仕切る。それから、きみにウインクをした。

「じゃあ、夜河さん。発射準備よろしく」

「はい」

 きみは運転席に座る。

 旧時代に比べて宇宙船の操縦はかなり簡略化されているが、それでもある程度の専門知識と技量は当然、必要とされる。

 まだ年若いうちから、きみは大変な苦労をして操縦士になった。

 そのことを、同乗する皆はよく知っている。

 手際よく、発射準備をしていく。いくつかのスイッチを押し、安全確認を済ませて、エンジンキーを朝主さんと同時にセットする。

「3、2,1」

 エンジンが入り、発射カウントダウンが電子音声で流れ出す。

 種子島に轟音が奔る。エンジンの消音化は間に合わなかったようだ。

 やがてロケットは発射した。

 青い空と青い海を線でつなぐように、一筋の雲が白く瞬いた。

 

「大気圏、突破しました」

「大気圏突破確認。このまま空間超越シークエンスを開始する。全員、異議は?」

「搭乗科学技術、松陰。異議ありませんッ」

「搭乗運用技術、成田。同じく僕も異議なしです」

「操縦士、夜河。異議ありません」

「よし。ではこのまま138億光年をワープします。座標指定」

「座標、指定します。『シリウス』からの救難信号があった地点に」

「空間超越。コード:―――。空間超越史至上最高クラスの距離のワープだ、各自、予期せぬ衝撃に備えてくれ」

 空の上、宙の中。

 数多の星が瞬く、闇の中。

 救助兼探索用小型ロケット『プロキオン』は一瞬、きらめく星の終わりのように瞬いて、線となった。

 そしてその座標空間から完全に消失した。



「ワープ技術というものを簡単に説明する手法は古来より、これと相場が決まっていてね」

 そういうと、『彼』は一枚の紙を二つ折りにして、ペンを突き刺してからもう一度開いた。

 紙には二つの穴が開いていた。その間をつなぐ線。

「ベタ、ですね。過去の映画やドラマやアニメで散々使い古された手法ですよ」

「うん。でも使い古されるということは、それだけ端的でわかりやすい解説だということだよ。ね、世界」

「……そう、かもしれないですけど。わたしは、あまりベタって好きじゃないです」

「そうだね。確かにきみは、あまりベタな話は好きじゃない。この間きみが読んでいた小説は、そういう意味ではきみ好みだったんじゃないかな?」

「そう、ですね。面白い物語だったと思います。けれど、本質的はベタな話だったかな……」

「ふぅん。そうなの?」

「はい」

 窓の外を見る。

 草原に蒼穹がある。

 遠くで、飛行機雲が揺れていた。

 景色が真ん中で二つに分かれている。

「プロタゴニストと、とある女性の愛の物語だと、わたしは解釈しました」

「プロタゴニスト……主人公という意味だったね」

「はい。作中ではそのように記述されていました」

「どんな内容なの」

「詳細の説明は難しいですね。ジャンルとしてはSFだとおもいますけど」

「へぇ、今時SFとは珍しいね。まもなく22世紀が来ようとするこの時代に」

「せんぱいは知らないかもしれないですけど。SFってどうかしている思考実験があれば成立するんですよ」

「……どうかしている、か。……」

 どこかで風が哭いている。

「ふふっ」

 夜河世界は微かに笑った。『彼』の少し困った顔が好きだったから、それをみれて嬉しいのだ。

 ふと、

「そういえば、どうしてこんな話をしているんでしたっけ……」

 そう、思ってしまった。

「うん? ベタについての話かい?」

「いえ、その前、……どうして、わたしは今更空間超越についての幼稚なたとえ話を聞いて……」

「それはね」

『彼』は答えた。

「君の意識が捩じれて過去にあるからだよ」

「え、―――?」

「これはまだ人類が理解できていない話なのだが、空間と時間は密接な関係にあるんだ。だから、空間を調節している現在の君に意識がある種の時間をも超えてしまっている」

「でも、そんなのは……」

「ありえない。普通はそうだね。けれども今の君は……」

 世界が画用紙にクレヨンで書いた拙い絵のように変質していく。

「せん、ぱ……」

 せめて最後にキスをしたいと。

「ごめんね、世界。もっと伝えたかった言葉はあったんだけども、刹那はこれで終了だ」

 手を伸ばしても届かない。



 目を覚ます。

 きみの頬には一筋の涙があり、虚空に伸ばした手がある。

 どこかに届くわけでもなく、誰に伸ばした手であったか。

「ワープ、終了だ」

 朝主さんの声がして、きみは視線の焦点を当てる。

「大丈夫?」

「……えぇ、少し気を失っていました」

「二人は?」

「大丈夫ですとも」

「めっちゃグラグラするけど大丈夫です!」

 後ろに座っていた二人も朝主さんにそう返答した。

「うん。全員無事を確認した。世界、現在地の把握は?」

「はい。座標を特定……、指定されていた座標に存在することを確認しました」

 そしてきみは『プロキオン』の窓から目視で外を――宇宙の中を確認する。

 闇がある。

 星はない。

 遠くには明かりの残滓が見えるが、反対側には闇しかない。

 否――無にちかい壁のような、球のような、暗夜が存在している。

「……あれが『宇宙の果て』……ですかね?」

 そう、きみが言う。

 どこかの、遠い何かを見る眼差しで。

「……うん。はじめてみるけど……なんだか変な感じだね」

 朝主さんが反応を返した。

 原初のビッグバンから今なお膨張を続けている宇宙の現時点での端っこ。

 そこが『宇宙の果て』だった。

「あの向こう側って、何があるのかな……?」

「宇宙の向こう側は、次元の向こう側っていう与太話なら、聞いたことありますけど」

「ンンゥ、ブラックホールとつながっているとかそういう古い理論だね」

「まあ普通に人智の及ばない領域なんでしょうね」

「………だから、調べに行ったんでしょう……」

 きみが最後に答えると、束の間の沈黙が生まれた。

「……、よし。ここで四の五の言ってても仕方ないし、さっさと救難信号の発信源を特定して、向かおう。ね、世界」

「……はい。派流さん」

 きみは朝主さんの言葉に答える。どこか覇気のない声。

「あ、見つけましたよ! 遭難船」

「ンン! あそこの大きな船だな! しかし、随分と損傷が激しいようだ」

 レーダーが探知した宇宙船は、記録にある通りの『シリウス』で間違いないと思われた。

 されど、目に見えて損傷が激しく、その体の半分以上をを欠いているように見える。

 ただ虚ろに、闇の海に揺蕩うように、その残骸は佇んでいた。

「『プロキオン』転身。対象『シリウス』と目される大破した宇宙船。徐行しつつ近づき、接触する」

 きみは運転席のハンドルを握る手を強めた。

 そして『シリウス』と思われる宇宙船の接触した。



 結論から言えば、生存者はいた。

「うう、うぅぅぅぅうううう……」

 彼は宇宙服を着て、頭を抱えていた。

 大破した『シリウス』のなかにはもう酸素が残っておらず、宇宙服に少しずつ入れることでやり過ごしていたらしい。

 永い闇の中において、彼の精神は既に限界に達していたらしく、うめき声を上げるだけであった。

 彼の名前を烏という。そしてそれはきみの恋人の名前ではなかった。

「世界、今は彼の救出を優先しよう」

 きみが何かを言おうとする前に朝主さんはそう判断を下した。

 宇宙船『シリウス』には彼以外に誰も残っていなかった。

 あるのは本当に、宇宙に漂う残骸だけだった。



 宇宙船『プロキオン』船内。

 唯一の生存者(他の『シリウス』メンバーの生死は不明であるが便宜上そう呼称する)である烏帷操縦士のたどたどしい証言を纏めると。

 『シリウス』は確かに『宇宙の果て』に到達、『果ての壁』への接近を行い調査を開始した。しかし、そこでなんらかのアクシデントが発生し『シリウス』はその『果て』に接触をしてしまったのだという。

「それで、アクシデントってなにがあったの?」

 その質問に対して、烏くんはただ首を振るうだけで何も答えてはくれなかった。

「そして、接触後に大きな振動があり、急激な速度で『シリウス』は『果て』に飲み込まれていった。君……烏操縦士はとっさの判断で機体の分離を図ったが、急速かつ強力な引力の影響を受けている最中であったこともあり、『シリウス』は分解してしまったと?」

「……は、はい……その通りです。……本当に、みんな……。闇の中にのまれてしまって……」

 たどたどしく、弱弱しく答える烏クン。その目はどこか虚ろだ。

「烏操縦士」

 きみは烏くんに言う。

「本当に、何も知らないんですか。アクシデントについて。他の操縦士について、なにか――」

「なにも……ッ! 何も知らない! ほんとうだッ!」

 金切るように彼は叫んで、頭を抱えた。

「世界、」

「……すみません」

「いいよ。とりあえず彼を部屋へ連れて行って。それから『宇宙の果て』の調査についてのミーティングを開こう」

「……調査?」

 傍らでそれを聞いていた烏クンが思わず尋ねる。

「ええ『プロキオン』の目的は『シリウス』の回収と、あとついでに『シリウス』の業務の引継ぎ――つまりは『宇宙の果て』の探索にあって――っきゃッ⁉」

 突然のことだった。

 烏くんは朝主さんを突き飛ばし、きみを突き飛ばした後操縦室に走った。

「……ッ! 朝主船長!」

「私は大丈夫。だから、」

「はいっ!」

 きみは立ち上がり、烏くんを追った。

 追いついたときにはすでに彼はそう操縦室を乗っ取っており、隠し持っていた拳銃を松陰・成田氏両名につきつけていた。

 烏くんの様相は尋常ではなく、錯乱している様子だった。

「……行かない……あんなものを調べたりしない。すぐに帰る。帰るんだ! 出発しろ!」

 彼はそう叫んで、きみに銃口を突きつけた。

「帰る! 帰るんだ!」

「……船長の許可なしにその決定は出来かねます」

「黙れ! 早く、早く船を……! 俺はもう、もう……!」

「烏操縦士、貴方、本当は何か」

「黙れ黙れ黙れ俺のせいじゃない俺はミスなんかしてない俺は―――を裏切ってなんかいないんだ!」

 彼が口走った名前は、きみにとって重要な名前だった。

「貴方、センパイの何を――」

 銃声がした。

 烏くんが持っていた拳銃を発砲したのだ。

 放たれた弾丸は君の左肩を貫通し、後ろにあった窓を割った。

 宇宙空間で破損が発生すればそこから空気が漏れる。

 きみは弾かれるように割れた窓に吸い込まれていく。

「ッ!」

 右手だけで、きみは窓の淵につかまった。

 けれど風圧は圧倒的速度できみを暗黒の宇宙へ吸い込もうとしている。

「……だめ……! まだ……まだ何もわかってない……ッ」

 掴んだ右手の指が一本一本離れていく。

「まだ何も、センパイのこと……わかってないのに……ッ!」

 最後の人差し指まできてしまった。

「まだっ、愛してるもさよならも言えていないのにッ……―――」

 とうとう、きみの体が宙に浮いた。

 勢いよく、宇宙空間に放り出される。

 音のない、光のない、命のない空間。

 手も声も光も何も届かない場所できみは叫びをあげる。

 そして『宇宙の果て』の中に、きみは吸い込まれていった。



・・・ ――― ―・・・ ・― ―・ ・・ ・・ — ・― ・・



 2095年。

 まだ人類が宇宙の海図を完成させる少し前の時間。場所は地球。

 他の惑星のテラフォーミングと移住が進んで、人が少なくなってしまった不便な星。

 6月。

 雨が降っていた。

 青葉が色濃く染まり、初夏の兆しをじっとりと感じる季節だという。

 彼女――夜河世界はまだ年若く、新品の制服を着て、傘をさして歩いている。

 歩道はゆるく、草花がタイルの隙間からのぞいている。過疎化が進んで整備が進んでいないのだ。

 段々と雨脚が強くなってきて、傘をさしても濡れてきてしまうから。世界は早足でかける。

 まもなく見える、古びたガラス張りのバス停に駆け込んだ。

 小さく息を吐くと、あとから一人の少年が入ってきた。

 なんどか同じバス停で見かけた。背の高い人、多分同じ学校のセンパイ。

「ひどい雨ですね」と彼が言うから、「そうですね」と世界は答えた。

 雨脚が強くなり、硝子を打つ雨音が静寂を支配していく。

 あまりに退屈なので読みかけの小説を取り出すもすぐに読み終わってしまった。

 過疎化が進む地球で、公共交通機関は随分と本数を減らしてしまって学校帰りの二人はまた随分と待つことになる。

 ふとどこかで読んだ記述を世界は思い出す。

 書物によれば昔は5分に一本バスが来たというけれど、にわかには信じがたいなと思った。

 手持無沙汰になった本を指で弄ぶけれど、それで頁が増えるわけでもなく、結局退屈を持て余すことになる。

 雨音が世界を支配する。それは確かに風情ではあるけれど、年若い少女にとって別に心地いものではない。寒いし。

 ちらりと彼女は同じ場所で待つ彼を見た。

 すると目が合って、すっと目を逸らす。

 あの、と同時に声を出して、すこし可笑しかった。

 ただ、退屈を紛らわすための会話。

 それが多分、出逢い。



 その日は夏の日で暑かった。

 遠くに入道雲が見える。

 青い空に、草原が見える。

 ほとんど生徒の残っていない古びた学校の、古びた教室。

 開け放たれたカーテンと窓から、風がささやかに拭いている。

 世界は頬に張り付いた髪を耳元にかける。

 教室には二人、片手に古びた小説を読む世界と、電子端末での勉強を行っているいつかの彼。

 ぱたんと、小説を読み終えた世界に彼は聞く。

「どうだった?」

「オーソドックスなSFものかと思ってました」

「違かったのかい?」

「ファンタジーでした。しかもラブストーリーです。実にわたし好みではありませんでした」

「そうなんだ。じゃあもしかしたら僕好みかもしれない。こんど探してみるよ、タイトルは?」

「探すも何も遠い昔の絶版本ですから、電子書籍ではありませんよ」

「それは残念。ところで世界はよく紙の本を読むけれど、電子は読まないの?」

「読まないことはないですよ。でも、電子書籍はあんまり好きじゃないです」

 すると彼は少し微笑った。世界は少しむくれる。

「なんですか? せんぱい」

「いやごめん。今の世界とそっくりなことを祖父が言っていたのを思い出してしまってね」

「…………嬉しくないです」

「ごめん」

 それから彼は、もっとむくれた世界を十分ぐらいなだめていた。

 しばらく彼を困らせたかった世界は、けれど夏が暑くて、なんだかだんだんどうでもよくなってきた。

 遠くで風が音をたてている。

 局所的に風が吹いて、どこかの廃墟の隙間を鳴らしているのだろうか。

「暑いですね」

「うん。そうだね」

「昔は地球温暖化っていうのがあって、もっと暑かったそうですよ」

「ああ、その話は聞いたことがあるよ。でも確か、地球の人口が減少するにしたがって次第に解消されていったって話だよね」

「ええ……」

 世界は天を仰いだ。

 木目の天井にくるくるまわる羽と古びたLED電灯。

 世界の額に汗が伝った。

 それが口に入って、しょっぱい。

「……涼しくなってこれって、暑すぎますよね」

「そうだね」

「せんぱい、今何の勉強をしているんです」

「モールス符号についてだよ」

 急な投げかけにも、彼は変な顔ひとつしないで答えてくれる。

 世界の指先が、本の表紙の上でとん、と跳ねる。

「もう、必修科目ではないんじゃないですか、それ」

「うん。確かに。何光年向こうでも長文メッセージが届く今では、モールスは既に古い言語になっているね」

「時間の無駄では?」

「そんなことないよ。少なくともぼくが知りたい宇宙の領域は現在のワープ技術では通用しない可能性の十分にある分野なんだ。今のうちに学んでいても損はないと思うんだ」

「そうですかね? わたしはそういうの、興味ないですけど」

「うん。多分そうだと思う。それに、単純に僕の趣味というのもあるんだ。祖父とよく、モールス符号で暗号づくりをして遊んでいた記憶があってね」

 そんなことをいうと彼は少し不器用に微笑った。

 その微笑を綺麗だと、世界は思った。

 日が傾いて、明るい日差しは赤い色に変わっていった。

 夕景が世界を赤く染めた。



 しんしんと、しんしんと。静寂の中に無音がなる。

 暗夜の中に、雪が降っている。

 ささめのようだった雪は、いつしか牡丹のように重さを増していた。

 遠い間隔でぽつぽつと頼りなさげに電灯が灯る道をふたりは歩いている。

 中くらいのビニール傘をさす彼の傍ら、寄り添うように世界が歩く。

 重たい雪に振られながら、繋がれたふたりの手は赤く染まっていた。

 あるく、あるく。

 ざくざくと、しとしとと。

 膝までつかるような雪がふたりの靴を濡らしていく。

 ぼんやりとした道を歩く。

 ふたりに会話はなく、ただ白い息が大きく吐き出されて、絡みあう。

 白く染まった空気は、ふたりの間をすり抜けるように宙を舞って、どこかへ消えてしまった。

 暗黒と真白の間に、やがてひと際か細い電灯が現れる。

 うすぼんやりとした灯りがただでさえ心もとないのに、かちかちとまもなく消えるともしびみたいに点滅してるものだから、それだけで世界はなんだか泣きそうになってしまう。

 その灯りの下で、ふたりはしばらく佇んでいた。

 それは静かで、静かで……。

 繋がっていた手のひらが少しずつ、離れていく。

 幽かなぬくもりが離れていく。

「ここで、お別れだね」

 そう彼は言った。

 しんしんと降る雪の中にある彼の微笑は、だから哀しいくらいに綺麗で。

 どれだけ見つめても、手を伸ばせば届く距離なのに、

 どうしたら届くのか、わからない。

 彼が遠ざかっていく。

 遠ざかっていく背中。

 暗い闇の中へ。

 滲んで掠れて、見えなくなって。

 零れた泪は雪上に落ちて、凍ってしまった。



 ・―・・ ・・ ―・― ・ ・― 


 夢のような、幻想ユメのような、記憶ユメのような、

 そんな思い出を見ていた。

 どこかフィルムを見ているような感じがした。

 どうしてか胸が苦しくなって、

 どうしても滲んでこぼれる涙がなくなってはくれないのだ。


 過去は写す。わたしの涙を。

 行ってしまったせんぱいを見送って、それからずっと泣いているわたし。

 窓の外、どこまでも開けた星空を眺めていては、泣いているわたし。

 寂しくて、切なくて、

 瞬く星空が遠くにある。


 ……そうだ、だからわたしはこんなところまで来たんだ。

 柄にもないくらい頑張って。

 生まれて初めて、こんなに動いて。

 それは、せんぱいに逢いたくなったから。

 せんぱいが消息を絶って、生存が絶望的だってわかっていても、

 それでも――。

 

「ここは……どこ……」

 そうだ、わたしは夜河世界。今は宇宙飛行士をやっている。

 それで『シリウス』を追って『宇宙の果て』まできて……。

 そうだ、わたしはあの『果て』の中に飲み込まれて、それからこのユメを視ている。

 おおきな、昏い空間の中にいる。

 ここがどこかはわからない。もしかしたら、死んだ後なのかもしれない。

「こんな頓智来なあの世があってたまるものですか」

 わたしはあたりを見渡す。

 昏い部屋の中だというのに、いやに視界が明瞭で気分が変になりそうだ。

 不意に扉を見つけた。

 わたしは近づいて、その扉を開ける。

「……」

 そこには別にユメがあった。

 せんぱいのゆめだ。

 せんぱいの夢だ。

 遠い記憶と、近い事実。

 せんぱいのご両親とおじいさんのこと。

 幼い日々と、それからのこと。わたしの知らないせんぱいのこと。

 わたしとの日々と、『果て』に飲み込まれた刹那のこと。

「―――ッ」

 そこで、せんぱいが死んでしまったこと。

 肉体が、粒子みたいに溶けて消えた。

 砂のお城が崩れる幻影。

 花がはらはら散るような。

 視たものが直接頭の中に入っていってしまったみたいに、どうしようもなく。

 どうしようもない現実を理解してしまった。

 あぁ、――なんとなくわかってはいた。

 そう、わかってはいたのだ。なんとなく。

 それでも、認めたくはなかったから。

 だから……こんなところまできて。

 こんな宇宙の果てまできて……。

「…………せんぱい」

 昏い部屋の中に、深い孔が開いた。

 わたしはその中に飲み込まれていく。

 ああ、もういいかな。

 ――少し、疲れてしまったから。



 昏い、暗い、くらい。

 闇の中に溶けていくような感覚がしている。

 それは湖の底に沈んでいくようなもので、つめたくて息苦しく、どこか心地いい。

 ここは『宇宙の果て』のなか。

 どういう類の場所なのか、どんな理屈の場所なのか、まるで見当がつかない。

 考える気力も、もうない。

 ただ、融けるように。ゆっくりと。



 どうして、きみはここまで来たの?

 そんな声がした。

 どうしてって、そんなのは決まっている。

 彼に逢いたかったから。せんぱいと再会したかったから。

 まだ、伝えたい言葉も伝えきれていない想いもたくさんあるのに、何も伝えきれていない。

 まだ、好きの一言さえ、わたしからは言えていないのに。

 このまま、さよならなんて嫌だから。

 わたしは、不意に手を伸ばす。

 上も下もない、左と右もないようなこの場所で、力なく手を伸ばす。

 ふと遠くに光が見えた。

 うすぼんやりとした灯りだった。

 雪が降っている。

 いつかの闇の中にいるみたい。

 けれど今度はひとりぼっちで。

 ぼんやりとした灯りにわたしは向かって……。



 数多の光が見る。

 宇宙ソラの光。星の瞬き。

 数多の瞬きが、万華鏡のように跳ねて弾けて、無数に広がる。

 暗闇の中に煌めく光の球たち。その中にわたしは浮遊している。

 そうして目の前に、わたしが好きなせんぱいがいた。



 ・・・・ ・― — ・・― ―・― ――― ・・



「ここはどこですか?」ときみはつぶやく。

 淡い星の瞬きが跳ねては弾ける、この真っ暗闇の空間。

 ここは『宇宙の果て』の向こう側の世界。

 空間も、時間も三次元的な物質概念も存在しない世界。

 そこにきみは迷い込んだんだ。

 空間と時間が本来ならば密接な関係になる話は、きみにしたよね。

「ああ、あれは夢かと……」

 ユメでもある。物質として存在する空間ではきみの意識に介入することはできなかったから、

 空間歪曲の瞬間にしかコンタクトをとれなかったんだ。

 きみがあの時間時点でこの空間に飲み込まれてしまうことは、すでに分かっていた。

 だから、そうならないように言いたかったんだけど、自我と彼我の壁の大きさの前に、意図した言動を伝えることはできなかった。

 ごめん。ごめんね。

「いいんです、だってまたせんぱいに逢えたから……」

 きみはそういう。

 この空間の中において、物理的な肉体は意味をなさない。

 けれど、きみが泣いているのはわかった。

「どうして、せんぱいはここに? だって、せんぱいは……」

 うん。きみがせんぱいと呼ぶ人間は確かに『宇宙の果て』に飲み込まれてしまい、肉体は消失し、その生命活動は終了した。

 死んでしまったんだ。

 不幸な事故だったとしか言いようがないし、どうかきみも烏くんのことを責めないであげてほしい。

 けれど、死んでしまった『彼』の今際の意識はこの空間に残留したんだ。

 そしてその意識は此処に接続した。

 茫漠とした時間と空間。

 全と無の宇宙そのものともいえるものと繋がった。

 そして『彼』は――ぼくは、きみを見つけた。

 きみが此処に訪れ、このままではぼくと同じ運命を辿ることを識った。

 それを、ぼくは観てきた。

 だから、ぼくはきみにそうなってほしくなくて。

「……気にしないでください。わたしが勝手にやったことです。……でも、このままわたしはどうなるんですか?」

 このままなら、きみの意識もやがて融けて、霧散するだろう。

 ぼくがまもなくそうなるように。

「せんぱいも、そうなるんですか?」

 うん。まもなく、この今際の意識も消えてしまう。そうして、本当の意味でぼくは死を迎えるのだろう。

 でも怖くはない。恐怖という感情がすでに消失してしまっただけなのかもしれないけれど、ぼくはもう、ぼくの消失を受け入れている。

 それでも、ぼくはきみにそうなってほしくないんだ。

「何言ってるんですか、せんぱい。わたしは、わたしはずっとせんぱいに逢いたくて、会いたくて、こんなところまで」

 きみの肉体はまだ残っている。

「え?」

 ぼくとともに飲み込まれたメンバーと、あと『彼ら』に頼んでやってもらったんだ。

「『彼ら』?」

 なんと説明すればいいのか。

 こっちの世界の住人たちであり、そうでないとも。

 ぼくがこうしてきみに語り掛けていることが出来るのは『彼ら』のおかげでもある。

 とにかく、世界。

「はい」

 こっちへ。



 静かな場所だ。

 なにもない星屑の空間を揺蕩うように歩いている。

 歩いているという表現が正しいのかは、わたしにはわからない。

 せんぱいの背中を見る。

 これまたうすぼんやりとして輪郭がはっきりしていない。

 わたしの知っている背中であり、わたしの知らない背中。でも確かにわたしの好きな背中。

 胸がざわざわと、微風に揺れる草のようにさざめく。

 触れようとして、けど触れられないでいる。

 うつむいて、ただついていくことしかできない。

 しばらくすると、どこか遠くの情景の中のような、そんな場所にいた。

 わたしの知っている場所、せんぱいとの思い出の場所がいくつもぼんやりと重なっているような場所。

 そこに確かにわたしの体があった。

 傷つきほとんど壊れてしまった宇宙服を着た、未練がましい女の姿。

 いつかの日々よりも、ずいぶんと年齢を重ねていた自分の姿。

 自分自身を見下ろしているのは、なんだかひどく嫌な感じがする。

 せんぱいがなにかわたしに声をかけた。

 気が付くと、わたしはわたしの肉体に中にいる。

 せんぱいは穏やかに微笑んでいる。

 せんぱいの顔が見える。お別れしたときと変わらない、せんぱいの顔。

 ああ、こんな顔だった……。

 わたしは、ずいぶん変わってしまった。

 わたしは立ち上がってせんぱいのことをみる。

「さあ、世界」

 せんぱいはわたしに手を伸ばす。

「手を取って、そして帰りたい場所を思い浮かべるんだ。その空間座標にきみは現れる」

 わたしはせんぱいの手を取った。

 ああ、知っている。知っている温かさだ。

 泣きそうになりながら、帰りたい場所を思い浮かべる。

 わたしが、いたい。わたしの居場所。


 ぱきん、セカイが割れた。



 そこはさっきと同じ場所。

 暗闇の中に、星が瞬く『果て』のなか。

「いや……」

 きみはそうつぶやく。

 きみは泣いていた。

「わたしは、せんぱいのところにいたい」

 きみが泣いている。

 さらさらと零れ落ちる砂のように、きみは宇宙にとけていく。

「わたし、ずっとせんぱいのこと、思ってた。ずっとせんぱいの傍にいたかった。せんぱいが帰ってこない日々が、苦しかった……ッ!

 それでも、わたし、泣かないで頑張って……

 毎日、せんぱいのことを考えるんです。反芻するみたいに昔の、思い出がずっと頭の中にぐるぐると渦巻いているんです。

 明日になったらまた普通に会えるのかなって、そんなことばっかり考えるんです。

 でも、せんぱいはいってしまった。

 好きも、愛してるも。まだ全然言い足りないのに。

 行かないでって言ったら、せんぱいはわたしの傍にまだいてくれたんじゃないかって、そんなことばかり考えるんです。

 それから、なんでもない日々をだらだら続けて。

 わたしは、憎まれ口ばっか叩いて、でもセンパイは優しくて……。

 でももうそんな日々は来なくて……。

 痛い、痛いんです。胸がずっと痛むんです。せんぱいの―――あなたの傍にいたいって、ずっとこころがそう叫んでいる」

 セカイが変わる。

 いつかの雨の日。6月の雨宿り。

 いつかの夏の日。入道雲の下で。

 いつかの雪の日。ふたり、深雪のなかで手をつないで歩いた。

 目まぐるしい季節の中で、移り行く日々の中で。確かにぼくがきみと生きた時間であり、ぼくが見てきた。きみが視てきた時間。

 もう、もどれない日々の残響。

 ああ、愛しいと。

 もうほとんどを亡くしてしまった、まもなく全てを亡くしてしまう、この瞬間の自分でも確かに胸の中に宿っていた最期の未練。

 ああ、でも。だからこそ。


「―――――それはできない」



 ふたりの手が離れていく。

 ぼくと、きみの手のひらが離れていく。

 思い返すのは、雪の日。

 繋がれたぬくもりが、少しずつなくなっていく淋しさ。

 いつかの出発の日。

 きみから渡されたネックレス。

 毀れ行く意識の中で、確かに自分に残ったもの。

 もうすぐ完全になくなってしまう前に。

「ぼくは、きみに生きてほしい。

 ぼくはもう消えてしまう。死んでしまう。

 きみが夢想した日々を、ぼく以外のだれかと過ごしてもいいし、ひとりで幸せになってもいいんだ。

 ぼくのことを憶えていてくれても、忘れてしまってもいい。

 だからきみには幸せになってほしい。こんなところで死んでほしくない」

「そんなの、そんなのいや! あなたがいい。わたしはあなたがいいんです。誰かをこんなに好きになることなんてない。あなたを忘れるなんてできない!」

 きみの頬に伝う涙。

 ぼくは上り、消える。

 きみは落ちて、帰る。

 ああ、本当にぎりぎりだったらしい。自分が掠れていくのをたしかに感じる。

 困ったな、まだ言いたいことがたくさんあったのに。

 もう言えないや。

 ごめんね、世界。きみをたくさん傷つけてしまった。たくさん、振り回してしまった。

 これ以上ないくらい、泣かせてしまった。

 ごめん。

 でも、どうか、最期に……。



 ・・ ・―・・ ――― ・・・― ・ ―・―― ――― ・・―


 目を覚ますと、そこは見知った『プロキオン』の船内だった。

 他の船員に聞くと『宇宙の果て』に飲み込まれたときの姿のままいきなり現れたらしい。

 普通に死んだとみんな思っていたそうで、すごく驚いた顔をしていた。

 それから船長に抱きしめられた。

 烏といったあの生存者はいまは隔離されているらしい。

 ふと、手のひらに何かを握っている感触があった。

 そっと開くとそこにはわたしが持っているネックレスの片割れがあった。

 首から下げているわたしのそれと合わせるとぴったりと嵌った。

 星形が完成してしまったネックレスを天井の明かりにかざす。

 それはキラキラと安っぽく煌めいている。

「む? 何者かから信号が届いている。モールス信号のようだ」

 ボンヤリとネックレスを見つめていると、松陰さんが声を上げた。

「モールス信号? だれから?」

「いや、それがわからんのです。正体不明のコードで?」

「えぇ? スパム?」

「かもしれないですけど、……もう廃れ切ったこの信号を読める人ってここには……」

 皆が一斉にわたしをみた・

 わたしはゆっくりと立ち上がって、その符号を確認する。

 斯くて、そこにはこう書かれていた。


『 ・・ ・―・・ ――― ・・・— ・ —・―― ――― ・・― 』


 わたしは泣いていた。

 ずっとずっと、泣かないでいた分泣いていた。

 ああ、もう、そっか。

 わたしはぎゅっと手のひらのネックレスを握りしめる。

 欠けた片方が戻ってきて、だから戻らない人を確認する。

 ただ、そこには一文。

愛しているi love you』と書かれていた。



 結局、『宇宙の果て』の調査は行われず、生存者一名という結果だけを残して『プロキオン』は帰還を遂げることになった。

 不慮の事故が重なったこととわたしの進言を聞いたことの二つが理由だったと朝主船長は言っていた。

 彼女の「帰ろっか」という一言はどこかやさしく感じた。

 帰還後、わたしは『宇宙の果て』のなかでの出来事をかいつまんでメンバーに話した。

 みんな、夢でも見ていたんだろうといっていた。

 わたしも、そうですね。と笑った。

 あれを本当のことだと思っているのはわたしだけだ。

 いつか誰かがあの場所にまたたどり着くのだろうかと益体もなく考えるけれど、少なくともそれはもうわたしではないのだ。

 せんぱいと会えないことに涙することは、もうない……といえばうそになる。

 ああ、でも。

 この思い出は、いまもここに残っている。

 そう、星の欠片を抱きしめる。

 そうしてソラを見上げる。

 夜空には幾重もの明かりが瞬いている。

 そのずっと遠く、肉眼では決して届かない暗い場所を、想うのだ。

 愛した人を思うのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シリウス 葉桜冷 @hazakura09

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ