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1-6

 つぐみは洗面台の前で鏡を見つめていた。洗い場では、大きな音を立ててシャワーからお湯が流れ出ている。

 外ではあの原島キモオヤジが聞き耳を立てている気がした。私の足音も、服を脱ぐときの衣擦れの音も、何ひとつアイツに聞かせたくない。

 そんな心理から、つぐみは服も脱ぐ前からシャワーの蛇口をひねっていた。


 とはいえ、もう逃げ場はない。アイツにこの身を、私の……処女を捧げるしか道はない。


「クソ悪魔、絶対にぶん殴ってやる……!」

 

 とも思ったけど、このホテルに来たこと自体はつぐみ自身の選択だ。

 復讐のためには何だってする。原島への嫌悪感やスキアへの怒りはあったけど、この決意自体に嘘はない。


「そう。なんだってやるんだ。どんだけ汚れたっていい」


 自分に言い聞かせながら、つぐみは鏡に映る自分を見つめた。

 復讐を誓ってからもう三年が経つ。あの頃より少しは大人びた姿になっただろうか?

 メイクのやり方は覚えた。自分の顔立ちをより魅力的にする方法もある程度心得ている。下地となる素のルックスも、良い方だという自覚はあった。

 身体つきについては……あの頃から成長がない。スレンダーといえば聞こえはいいけど、事務所の他の女の子と見比べて、貧相だなと思うことがよくある。

 ただまぁ、それでもキモオヤジが欲情する程度には女らしい肉体にはなっているようだけど……。


 自分の肉体に思い巡らせた瞬間、つぐみは寝室で待っているであろう男のことを考えてしまった。ぶくぶくに膨れた中年の腹や、油ぎった顔面、爬虫類のような目が脳裏にチラついて、ぶわっと鳥肌が立つ。

 つぐみは反射的に首を振ると、鏡の奥にいる自分の瞳を睨みつけた。


「今さら何ビビってる雲梯つぐみ!」


 ずっと前から決めていたことだ。チャンスがあれば、どんな事をしてでもモノにする。

 芸能界の大物と一夜を共にする、これはまさしくチャンスなのだ。

 何を捨てたっていい。そもそも自分の処女に価値があるなんて、思ったこともない。


 ただ……。


 ただ、もしも初めての相手がであれば、そこに価値を見出せたのかもしれない。そんな思いだけが引っかかっている。


 あの頃、彼に抱いていた想いが恋によるものだったのかはわからない。ずっと一緒にいたから、色々な感情がない混ぜになってしまっている。

 けど、もし今、ベッドルームで私を待っているのが彼であれば、今夜の記憶は特別な宝物になったかもしれない。


「でも、そうじゃないんだ。たけるは……」


 色々なものを残して消えてしまった。そして、その中でもつぐみとたけるが最も大切にしていたものを、奴らは穢し、嗤い、否定した。

 外にいるキモオヤジも、そんな奴らの同類だ。


「許さない」


 心の奥底で、血黒いロウソクに炎を灯らせる。

 一呼吸置いてから、つぐみはブラウスのボタンに手をかけた。腰のベルトをゆるめ、ブラのホックを外し、ショーツを脱ぎ捨てる。

 自分の身を守る一切のもの取り去ったつぐみは、湯気が沸き立つ洗い場に入った。


 全身にシャワーのお湯を浴びても、胸のロウソクの炎は消えない。そればかりか、油を注がれたかのように、火の勢いは増していく。


「そうだ。もっと燃やそう」


 この炎を大きくしよう。恐怖やためらいなど燃やしてしまうくらいに。

 私の全てを燃料としたその業火で、奴らを焼き尽くすんだ!


「死ぬ瞬間、奴らにざまあみろと言いながら、思い切り笑ってやる。だから……」


 己の最終目標を唱えながらシャワーを止める。


「だから今は怒れ」


 裸身にバスタオルを巻き付けると、再びつぐみは鏡に映る自分の顔を睨みつけた。

 息を整える。心の奥のロウソクは、巨大な火柱と化している。

 いいぞ。この怒りの炎を持ち続けろ。これさえ持っていれば私は大丈夫。


 けど表には出すな。今から臨む戦いに、その顔は必要ない。

 飼い殺しにされている間も、演技や芝居の勉強はしてきた。この場にふさわしい顔があることを私は知っている。

 目には恥じらいの光を、口元は微笑みを絶やさず。そんな表情を作り出す。


「うん、そう。それでいい」


 鏡の中の自分に向かって頷く。あの男を悦ばすために、せいぜいドラマチックな処女喪失を演じてやろう。

 覚悟は決まった。つぐみはベッドルームへ向かおうとした。


「ほう、なかなか良い顔をするではないか」

「ひやっ!?」


 だが長い儀式を経て固めた、つぐみの覚悟と表情は、ものの数秒ともたなかった。

 それらをかき消すような驚きが、目の前に現れたのだ。


「変な声をあげるでない。原島が怪しむ」


 クソ悪魔が一人の連れを伴って、脱衣所に立っている。


「いつのまに……てか、何ソイツ……?」


 スキアの横に立つ影を指差した。

 悪魔の隣には、つぐみにそっくりなが立っている。つぐみと同じ顔をし、つぐみと同じく髪を濡らし、つぐみと同じようにタオル一枚の半裸姿だ。

 もちろんつぐみ本人ではないし、鏡などでもない。自分の姿を映した映像のようなものでもない。

 つぐみの全身の細胞が警鐘を鳴らしている。「これは私ではない」と。


「お初にお目にかかります、つぐみ様。私はアムドゥスキアス様の腹心が一人、リリアと申します」


 自分に似た女はそう名乗ると、うやうやしく頭を下げた。やっぱり、これは私の所作じゃない。


「お前がここで覚悟を決める様をとくと検分させてもらった。なるほど、芸事の世界でやっていく最低限の資質はあるようだ」


 スキアは言う。


「だが、技術面では全然ダメだ。男を籠絡するのにその程度とは、あまりに拙い」

「は? それどういう意味……」

「実践した方が早かろう。リリア」

「はぁい♡」


 自分と同じ形をした口から、甘やかな声がこぼれるのを聞き、つぐみの身体は凍りついた。やっぱり、コレは私なんかじゃない。

 こわばった首筋に両腕が絡みつき、バスタオル一枚の身体同士が密着する。


「んっ……!」


 抗議の声をあげようとした瞬間、その口を塞がれてしまった。舌がつぐみの口内に侵入し、くねくねと動き回る。


「んん……うんっ……」


 なに……これ……?


 気持ち悪い。吐き気がするほどに気持ち悪い。自分と同じ顔をした半裸の女に抱きつかれ、ベロが絡まるようなキスをされている。最悪に気持ち悪い。


 なのに、だ。


「ん……んんっ……!」


 舌と舌がうねり合う。その度に頭がじんじんと痺れる。下腹部から脊髄を伝って、何かが登ってくる。生まれて初めて味わうその感覚は、間違いなく快感、それも性欲を満たす類のものだった。

 唾液が甘く感じ、口内をくすぐられるごとに脳みそがとろけそうになる

 なんで? どうしてこんな……?


「ぷはぁ……っ」


 女の唇が離れる。最悪に甘美なひとときは、唐突に終わった。

 一瞬、ほんの一瞬だけ、つぐみは思ってしまう。「え、もうおしまい?」と。

 それを自覚したつぐみは全力で己を呪った。


「ご馳走様でした」


 まるでお菓子か果物を食べ終わったような感じで、女は言う。


「どうだ? このような真似を、お前はあの男相手にできるか?」

「そ、そんなの……!」


 その後に続く言葉が何にも出てこない。頭が混乱したままで、何を言えばいいかわからない。


「サキュバスの性技にあとは任せ、お前はここから出ていくといい」

「はあ? なにそれ?」


 じゃあ私は何のためにここに来たんだ?

 せっかくこのバスルームで覚悟を決めて、これから戦いに赴こうと言うのに……。

 そもそも、お前に言われてここに来たんだ。出ていけはないだろう。


「お前にこの場で出来ることは、もう何もない」


 スキアとその女は、つぐみに背中を向ける。


「ちょっと、待ちな……」

「聞こえなかったのか?」


 追いすがるようにスーツの裾を掴んだ瞬間。悪魔は振り返えると、つぐみを睨みつけた。


「ひっ……」


 冷たく酷薄な視線が、つぐみを貫く。身体から力が抜け、ぺたりと崩れるように座り込んでしまう。

 ガタガタと震えが止まらない。得体の知れない恐怖がつぐみを襲っていた。

 悪魔だ。コイツは悪魔なんだ。今更すぎる実感を、つぐみは味わった。


「さっさとこのホテルから出て失せろ」


1-7

 空が白んできた。そろそろ始発が動き出す時間だ。

 昨晩、グロテスクな魔城のように見えたホテルは、朝の光に映し出され現代建築特有のシャープなシルエットを浮き上がらせている。

 つぐみは、ホテル前にある公園のベンチに腰を下ろし、自販機で買った缶コーヒーを開けた。

 だいぶ春らしくなってきたけど、この時間帯はまだまだ冷える。苦味のある熱い液体が、つぐみの喉を温めた。これで3本目だ。


 ホテルを追い出されてか、つぐみはずっとこの公園にいる。帰る気にはなれなかった。

 散々な一夜だった。

 自分なりに覚悟を決めてあの部屋に赴いたのに、それを台無しにされた。

 さらに自分と同じ姿の女に気色の悪い快感を押し付けられ、スキアの眼に射すくめられへたり込んでしまった。どちらも恥ずべき醜態だ。


 そして何より、原島と一夜を共にせずに済んだと言う事実につぐみは安堵していた。これが一番腹立たしい。

 何年も募らせ続けてきた復讐心よりも自分の貞操の方が大事だったのか? お前にとってたけるの無念はそんなものなのか?


 わずか数時間の間に、つぐみのプライドはズタズタにされていた。これ以上傷つかないためにも、つぐみは逃げ帰るわけにはいかないのだ。


「安心したまえ、こんなことで傷つく程度のプライドなら、いっそ無いほうが良い」


 その声に顔を上げると、いつの間にかスキアが立っていた。衝動的に空になったばかりのコーヒー缶を投げつける。缶はスキアの顔にぶつかる手前で彼の右手に絡め取られてしまった。


「アンタ……人の心も読めるわけ?」

「あいにく読心の魔術は心得ておらぬ。が、小娘の浅はかな考えを言い当てるなど造作もない」


 かあっと自分の頬が熱くなるのを感じる。

 少なくとも自分の中では最も深刻で重大な思いを、全て見透かされている。羞恥と怒りが同時に沸き立ち、つぐみの体温を上昇させた。


「それにしても、空き缶のポイ捨てとは反社会的な奴だ。公共のルールというものを少しは尊重したまえ」


 そんなつぐみをよそに、スキアは悪魔という存在から最も遠いところにありそうなことを言っている。


「アンタに……」

「うん?」

「アンタなんかに何がわかるんだよ⁉︎」


 どこまでも自分を軽んじられ、ついにつぐみは激発した。


「たけるが死んでから……私がどんな思いできたか。昨日あのホテルにどんな思いで行ったか。アンタ何もわかってないでしょ!」

「おお、確かに私の知るところでないな」

「奴らへの復讐は私の全てなの! それは、誰にも否定させない!」

「……おい女、図になるなよ?」


 スキアがつぐみを睨みつけた。瞬間、全身がこわばる。

 まただ。またあの凍りつくような瞳が、つぐみの身体を貫いた。


「私はお前の幼稚な願いを叶えるサービス業ではないし、ましてお前に隷属する下僕でもない」


 全身の肌が粟立つ。鼓動が早まり、肺に入る空気が激減する。


「これは契約だ。それも悪魔との契約だ。お前のわがままが入る余地などないんだよ」


 悪魔の瞳から放たれる純粋な恐怖は、つぐみを金縛りにかけていた。でも。


「契約?」


 でも……。


「だったらさ」


 ガクガクと震える足に全神経を集中させる。私はこれ以上逃げるわけにはいかないんだ!


「だったら、取引相手と少しはコミュニケーション取れよな!」


 全身を支配していた恐怖をはねのけ、つぐみを一歩足を踏み出した。そして悪魔の瞳を睨み返す。


「ほう?」


 スキアは少し驚いたふうに表情を緩めた。途端に、悪寒が消え、心臓も肺も正常な機能を取り戻す。


「そうだよ。私はアンタと契約を結んだ。あんたの手下になった訳じゃない! 対等な取引のつもり。私を同じ高さの目線で見ろ!」


 つぐみはスキアの瞳から視線を離さない。もしまたあの殺気を放ってきても、真っ向から受け止めてやるつもりでいた。


「ククッ……ハハハハッ」


 が、殺気どころか、悪魔は愉快そうに笑った。


「悪魔相手に面白い要求をする。わかった、話くらい聞いてやろう」


 スキアはつぐみと並んでベンチに腰を下ろした。


「話を聞くのは私の方。昨日のこと、全部説明して」

「ククク、ますます面白いなお前。何が聞きたい?」


 つぐみは一呼吸おき、声を落ち着かせてから問いかける。


「まずさ、最初からそのつもりだったの?」

「そのつもり、とは?」

「あの女だよ。私と同じ顔をした」

「リリア。我が忠実なる使い魔のことか?」

「最初から、アイツを私の替え玉にするつもりだったの?」

「ふむ。そうだが?」

「ならさ。私、わざわざあのキモオヤジの部屋に行く必要あった? 途中であの女と交代するくらいなら、最初からアイツに行かせればよかったじゃん」


 それなら、シャワールームであんな決意を固めることもなかった。


「それはアレか? お前、あの中年男と寝たかったってことか?」

「はあ⁉︎」


 見当違いのことをスキアは言い出す。


「いや性の嗜好は人それぞれだ。お前の楽しみを奪ったのだとしたら、悪い事をした」

「んなわけないでしょ! 私だって、ヤりたくはなかったよ!」

「なら何も問題ないではないか。何にそんな怒っている?」

「じゃなくて!」


 ペースを乱されるな。コイツの言うことを正面から受け止めず、私が話の主導権を握れ!


「アタシが言いたいのは、途中まで私があの部屋にいた理由! アレじゃ……何のためにあんなに覚悟決めたかわからない」

「覚悟、ねえ。なるほど、お前はその覚悟を不意にされたことに怒ってるのか?」

「当たり前でしょ!だって……」

「では聞くが!」


 つぐみの抗議を遮ぎるように、スキアが声をかぶせてきた。


「お前にとって大事なのは、復讐か、お前のお気持ちか?」

「……何それ、どう言う意味?」

「気持ちだけで復讐なぞ果たせるものではない。ましてお前の考える復讐は誰かを殺して終わりという類のものではない。もっと壮大で、甘美で、かつ馬鹿馬鹿しいものだ。だからこそ私はお前と、仮とは言え契約を結ぶ気なったのだ」


 復讐相手は芸能界全てと言っていい。そして達成のために最低限必要な条件は、つぐみがスターになること。生半可な気持ちでできることとは、つぐみも考えていない。だからこそ、昨晩は葛藤しまくった末に覚悟を決めたのだ。


「これからお前の意思ではどうにもならぬ局面も出てくるであろう。その度にお前は思っていたのと違う。私の覚悟が無駄になった。そう文句を言い続けるのか?」

「あ……」


 自分の足元の地面が崩れるような思いがした。


「そんなワガママなお子様に、壮大な復讐を成し遂げさせられるほど、悪魔の力も万能ではない。残念ながらな」


 何も言い返せなかった。悔しいが、このクソ悪魔の言う通りだ。

 この数時間、ずっと自分の怒りは正当だと思っていた。でも一歩引いた視点で見れば、確かに自分の思う通りにならなくて癇癪を起こしているだけだ。


「で、でも私は……」


 それでも、あの鏡の前で抱いた想いを否定したくなかった。


「わかっている。その覚悟とやらを見定めるのも今夜の目的だった」

「え?」


 スキアは右手の指を3本立てて、つぐみに突き出した。


「3つだ。お前の疑問を解消するには、3つの理由を話す必要がある」


 悪魔は1本目の指を折り曲げる。


「まずひとつは、今言った通りお前の覚悟だ。別に私はそれを認めないわけではない。ただ、見定める必要はあった」

「どういう、こと?」

「あのバスルームで、お前の怒りと復讐心は、お前に残るその他の感情をひとつひとつねじ伏せていった。私が見たかったのはそれだ。もしあそこで、死者への想いや、性への嫌悪感が勝るのであれば、私はお前を見限っただろう」

「私を試してたの?」

「ああ」


 そういう事か。そもそも原島のような男に枕営業を持ちかけたこと自体、私に対するテストだったのか。

複雑な思いがした。そんなテストを仕掛けられた事自体は気に食わない。でも私の復讐心については、認めてくれたのだ。


「ふたつ目」


 つぐみが何かを言う間もなく、悪魔は2本目の指を折る仕草をした。


「これを見ろ」


 それからスーツのポケットからスマホを取り出し、つぐみに手渡す。


「なに、動画? ……ううっ⁉︎」


 そこに映っているものを見て、つぐみは吐き気を催した。


「なにこれ‼︎」


 スマホの中で一組の男女が交わっている。男はあの原島で、もう一方は……知らない顔の女性だった。

 けど誰かについては問題じゃない。つぐみが衝撃を受けたのはその行為の内容だ。それはあまりにもマニアックで、非道徳的で、おぞましいものだった。


「先程、あの部屋で私が撮影したものだ」

「えっ? じゃあこの女の人って……?」

「リリアだ。サキュバスは、男が望む美女の姿に変化し、男の欲望を極限まで引き出し、静液を搾り取る。ここに映っているのは、すべてこの男の望んだことというわけだ」

「え゛……?」


 凄惨な冒涜の宴の中で、原島は恍惚の表情を浮かべていた。


「危なかったなあ。もし私がお前を見限っていたら、この男とベッドインすることになってたわけだ」


 スキアが、ニタニタと腹立たしい笑みを浮かべてきた。

 このリリアという女は、最初は私に化けていた。その時の姿を、画面の中の苦悶の表情に重ねる。


「ひぁ……」


 その様子を想像した瞬間、全身を怖気が襲い、スマホを落としそうになった。


「まあ、もっともお前では、ここまで奴の欲望を引き出すことは出来んだろうがな」

「ムリ……絶対ムリ……」


 つぐみは激しく頭を振った。


「だからこそリリアに任せたのだ。この動画を撮るために」

「え?」

「もしこれが、奴の職場のメーリングリストや、社内SNSにでも流れたらどうなる?」

「まさかアンタ!」

「おめでとう。敵ばかりの芸能界の中で、お前は忠実な犬を手に入れたぞ。それも、地位の高い有能な犬だ」


 枕営業なんかじゃなかった。ハニートラップだ。最初からそのつもりでこの男に近づいていたのか。


「この悪魔……」

「そうだが、人間?」


 つぐみのつぶやきに、スキアはわざとらしくそう返した。


「そして最後の理由。私にとってはこれが一番大きい」


 スキアの顔から下衆めいた笑みが消え、真剣な面持ちになった。


「え……何?」


 その様子に、つぐみもわずかにたじろぐ。


「もしお前があのまま原島と寝れば……お前は処女ではなくなっていた」

「……は?」

「お前を試すために秘していてが……私と契約を結ぶ者は処女でなくてはならない。それは絶対条件だ」

「なに、言ってるの?」


 これだけエグい動画を撮っておきながら、次に出てくる言葉が処女? 訳がわからない。


「私は女が好きだが、それは人間の価値観で言うところの性欲を意味してはいない。真の芸術がもつ、至純の官能を知る者は、肉体などに溺れはしない。そんな者は芸術に関わる資格も無い」


 言いながらスキアは、つぐみが持つ画面の中の原島を見やった。この悪魔の感覚で言えば、ハニトラにかかった哀れな中年は、資格も無い者ということになるのだろうか。


「むしろ食欲。美食に近いな。芸術の官能を極めた最高の魂をこの身に取り込む。その習慣を心ゆくまで楽しみたいのだ! ……だが、その魂が穢らわしいホワイトソースで味付けされていたらどうだ? 台無しではないか‼︎」

「……」


 つぐみは半ば呆れながらスキアの高説を聞いていた。

 結局こいつも、原島と何も変わらない。望んでいるのが肉体か魂かの違いでしかない。


「ゆえに私は、契約相手であるお前に処女であることを求める。良いな?」


 最悪だし最低だ。そして最高に気持ち悪い。でも……。


「わかった」


 これは最強の力だ!

 つぐみは、原島が痴態を流し続けているスマホを一瞥した。私一人じゃ出来ない戦い方が、コイツとなら出来る!


「じゃあ、こちらからも追加の条件いい?」

「悪魔を相手に契約の見直しか。どこまでも面白いな、お前は」

「当然でしょ。そっちだって一つ追加してんだから」

「言ってみろ」

「私がトップに立つ時、必ずたけるの曲もセットであること。私の名前だけ売れて歌はおざなりとか、ありえないから」


 歌と演奏だけでトップに立てるなんて甘いことは考えていない。けど、それらが無視されるのは御免だ。これは私とたけるの復讐なのだから。


「クックック。もとより私もそのつもりだ。お前に近づいたのも、あの時のピアノに美の欠片を見出したからだしな」


 スキアはベンチを立つとつぐみに正対する。

 そして左手でずっと弄んでいた空き缶をつぐみの目の前に差し出した。さっき、つぐみが投げつけたものだ。


「この空き缶には程よくお前の激情が載っている。本契約の触媒とするのに丁度いい」


 そう言うと悪魔は、右手を缶の上にかざす。両手で包み込むように、それを握りつぶしていった。


「手を差し出せ。左だ」

「何……?」


 つぐみは恐る恐る、左手を差し出す。いつのまにか、潰れた缶があるはずのスキアの手のひらには二つの金属の輪が乗っていた。彼はそのひとつをつまむと、つぐみの親指に通す。

 何かで聞いたことがある。左手は人の精神と繋がっており、その親指に嵌める指輪は目的を達成するための信念を強固なものにするという。


「これで正式に契約は成立した」


 そう言いながら、スキアはもう一つの輪を自分の指に嵌める。右手の人差し指だった。


「私はお前の復讐を叶えてやる。お前は人生最高の瞬間に、私に魂を差し出せ」

「うん、OK!」


 悪魔は朝日を背にしていて、その顔は影に塗りつぶされている。だが、その両眼が不吉な輝きをたたえ、つぐみを見据えているのがはっきりとわかった。


「契約成立おめでとうございます。スキア様、つぐみ様」


 そのスキアの背中から別の声がした。朝日を浴びながら、声の主人は歩み出る。すぐにわかった。あの女だ。自分と同じ姿でも、動画で原島とまぐわっていた女性の姿でもなかったが、直感的にそう理解した。


「我ら一堂、つぐみ様を歓迎しましょう」

「何なり、お申し付けを」


 さらにつぐみの右側から老人が、左から少年が現れる。


「紹介しよう。我が使い魔たちだ」

「使い魔?」

「うむ。我が手足となり、お前の願望を叶えるために働く」


 コイツが使役する下級の悪魔といったところか。


「一の魔、淫魔サキュバスリリア。もう説明の必要はあるまい」

「先程は失礼しました、つぐみ様。あらゆる悦楽を極めし我が技で、あなたをお助けしますわ。もちろん、必要とあらばお慰めも♡」


 リリアは豊満な身体をくねらせながら、甘ったるい声で言った。それを聞いてつぐみは改めて思う。この女とは絶対に仲良くはなれない、と。


「二の魔、強欲霊マモンシャイロックⅢ世。資金面でお前を助けるだろう」

「財を蓄え幾百年。無駄遣いは不本意なれど、主人の命とあらばいくらでも用立てましょう」


 右から現れた老人が一礼した。背中がひどく曲がっていて小柄な体がより一層小さく見える。シャイロックという名前に何か聞き覚えがある気がしたけど、それが何かつぐみはすぐに思い出せなかった。後でスマホで調べてみようか。


「三の魔、半吸血鬼ダンピールレヴル。お前のマネージャーにつける。便利使いするといい」

「ご主人様の命に従いどのようなこともいたします。つぐみ様、よろしくお願いします」


 左に立つ少年は深々と頭を下げた。悪魔とは思えない控えめな態度だった。スキアや他の二人から漂うふてぶてしさもない。外見の年恰好はつぐみと同年代に見える。線も細くどこか気弱そうな雰囲気の少年だ。


「さて、正式に契約を交わしスタッフとの顔合わせも済んだ。もう後には戻れぬ。二度と心に平穏は訪れぬと思ってもらおう」

「上等、元々そんなもの私にはなかったし!」


 たけるの死から三年。心が平穏だったことなんて一瞬だってない。私がそれを手に入れるのは、コイツに魂を与える時だろう。


 始めよう。私とたけるの復讐を。

 悪魔が用意した十三階段。雲梯つぐみはこの日、その一段目に足をかけた。









 

 

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①悪魔とのし上がるスターダム ~芸能界へ復讐を誓う少女が仕掛ける72個の罠~ 九十九髪茄子 @99gami_yutorifortress

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