最終章 紅き約款

「動くな!」

 わたしの首にはジョキタの太い腕が巻かれ、目元には白刃が冷たく光っていた。

「いろは!おい、てめー!」

「なにしやがる、このくされげどう!ふぁふやっちまえ!」

「……ふぁふも、こあも、おちついて」

「どうしよう……」

 竜たちの様子をみて、わたしは自分が人質に取られたことを、確信した。

「ジョキタ!貴様!!!血迷ったか!!!」

 ハリスさんの眼に、怒りの光がギラついた。こんなに怖い顔をしたハリスさんは初めて見た。

「恥を知りなさい、ジョキタ卿。騎士としての誇りは残っていないのですか?」

 ジュケイヌの威圧をものともせずに、ジョキタが低くせせら笑った。

「知れたこと。戦場では生き残ったものこそが全てであり、誉れであろう?」

 整ったジュケイヌの表情に、嫌悪の色がありありと浮かぶ。

「野獣に成り下がったか、痴れ者め。このまま、逃げ切れるとお思いですか」

「逃げ切れるとも。竜を欲しがる者は数多い。手土産にぶら下げていけば、喜んで迎えてくれるだろうさ。おい、そこの赤いチビ。この女に怪我をさせたくなれば、こっちにこい」

「ダメよ、ファフ!」

「黙れ!」

 ジョキタの腕がきつく喰いこみ、わたしは思わず苦悶の声を上げた。

「やめろ!いろは、いじめるな!」

 お願い、ファフ。

 こいつの言うことを聞いてはダメ……。

「わかった。いく」 

 ファフが、トコトコとこちらに近づいてくる。

 ダメだよ、ファフ。こっちに来ては……。

 どうすれば……。

 そうだ。

 何も難しいことじゃない。

 ずっと、今までやってきたことじゃないの。

「ねえ、青瓢箪のゲロ野郎」

 わたしの言葉に、ジョキタは無言で刃を突きつける。

「猫と心を交わしたい時、どうするか、知ってる?」

 手を伸ばすのよ。

 ざくり。

 わたしの顔に鮮血が乱れ飛ぶ。

 わたしは、自らの右手を、ジョキタが手にした短刀に突き刺した。

 怯える猫。怖がる猫。怒る猫。

 彼らと親しくなるためには、わたしたちは手を伸ばさなければならない。

 傷つくことを恐れてはダメ。

 人のぬくもりと優しさを知ってもらうためには、どれだけ傷つこうと、どれだけ痛もうと。

 手を伸ばすしか、ないのだ。

 わたしたち人間と猫の。

 いいえ。

 わたしたち人間と竜との、新たな絆のために。

「きさ……」

 その言葉と短刀をわたしの手から引き抜く前に、赤い疾風がジョキタの顔面に叩きこまれた。ファフの渾身の一撃を受け、ジョキタが地面に崩れ落ちる。

 そして、ジョキタの腕から解放されたわたしもまた、地面に倒れ伏す。

 だが、わたしを受け止めたのは、固く乾いた土ではなく、冷たいものの、土よりは多少柔らかい身体たちだった。

「いろはー!いろはー!だいじょうぶかー!」

「へんじしてー!いろはー!ふぁふはもっとそっちあげろ!」

「……きずのてあてを、しないと」

「おねがい、しなないで、いろは!」

 四頭の竜たちが、わたしをクッションのようにかばっていてくれていた。

 続いて、柔らかくて、温かい身体が、わたしを抱き起した。

「すまない。いろは君。私がいながら、痛い思いをさせた」

 ハリスさんが、強く、優しく、わたしを抱きしめる。

 しばらく夢見心地だったが、傷を負った右手に、ずしりと重い痛みが走り、思わず目を向けた。ジュケイヌが包帯を巻いてくれている。よく見れば、それは白い布を細く裂いたものだった。

「応急処置ですが、当面はこれで大丈夫です」

 ジュケイヌが自分のドレスを破いて応急処置をしてくれているらしい。

 助かった。

「ありが……」

「うおおおおおおおおおおおおお!!!」

 え……!?

 わたしも、ハリスさん、ジュケイヌも、完全に油断しきっていた。

 わたしがハリスさんの腕の中で振り返った時、すでに、頭が半分つぶれたジョキタが大剣を振り下ろしていた。傍らのジュケイヌが腰を上げたのがわかったが、きっと間に合わない。

 終わった。

 わたしの異世界生活も、ここまでか。

 せっかく、新しい世界が始まったと思ったのに。

 異世界で死んだら、どうなるんだろう。元いた世界に戻れるのか、それとも、死んだままなのか。元の世界の親兄弟と友人知人、それから、この世界で新しくできた仲間たち。

 猫たち、そして、竜たち。

 次々と顔が浮かんでは消えていく。これが、走馬灯というやつらしい。

 目まぐるしく映ろう眩しい灯りに耐え切れず、わたしが眼を閉じ、冥府の闇に沈もうとした時だった。

 火花のような赤い色が、わたしの目の前で、弾けた。

 驚き、目を見開く。

 再び、わたしはこの世に戻ってきた。

「ファフ!!!」

 わたしを呼び戻した赤い子竜が、自分の身を盾にしてジョキタの大剣を受け止めていた。

 ファフの身体を伝い、赤く、冷たい血がわたしの頬に数粒、滴り落ちる。

 次の瞬間、ジョキタの懐に飛び込んだジュケイヌのタックルが炸裂した。ドミノ倒しのように何本もの骨が次々と折れる音がし、口から断末魔の叫びを上げつつ、ジョキタの身体は何度も地面に叩きつけられながら数十メートル先まで吹っ飛ばされていく。

 その様子を見届けたファフの身体が、重さを失い、ぐらりと揺らいだ。

 慌てて、ファフの身体を抱きしめる。

「ファフ!ファフ!大丈夫!?お願い!大丈夫と言って!!!」

「ふぁふ!しぬな!いきるっていえ!いきれ!」

「……ふぁふ、いきろ」

「しんじゃだめだよ、ふぁふ!」

 わたしの腕の中で、うっすらとファフが眼を開ける。

「おとーたん」

 おとう、さん?

 わたしがファフの言葉を理解するより前に、ふと、辺りが暗くなった。

 なんだ?

 世界が、暗い。別に陽が陰ったわけではない。まだ陽は高いし、空も抜けるような青空だ。だが、まるで太陽にフィルターがかかったかのように、周囲が薄暗くなっている。

 まるで、空の厚みが増したかのようだ。薄張りの透明なガラスが、分厚い青色のガラスに変わったかのように。

「……!」

 空を眺めていたジュケイヌが息を呑んだ。

 思わず見上げたわたしは、小さな悲鳴を上げて座り込んだ。

 竜だ。

 巨大な竜が、まるで優雅に泳いでいるかの如く、空の向こう側を飛んでいる。

 わたしは子供の時に行った水族館で、ジンベエザメを見た時を思い出していた。空全体が巨大水槽のガラス板になったかのようだ。

 その全長は百メートルどころの話ではない。頭はイーマの城館ほどもある。もはや、数キロレベルの大きさだ。

 体色は真紅。鱗のひとつひとつに稲妻を思わせるような金色の紋様が走っており、身体をひるがえすたびに、キラキラと美しく煌めいている。あたかも、焔の塊りが無数の雷をまとって飛んでいるかのようだ。

「ファフの、お父さん?」

「おとーたん!」

「でけー!」

「……おおきい、だよ。こあ」

「ちょっと、おこってない?」

 ティアの言うとおりだ。こちらを窺う巨竜の眼には、明らかに不審と敵意が見て取れる。

「竜は家族愛が強い。自分の子の血の匂いを嗅ぎつけて、現れたようだ。向こう側の世界から」

 わたしを地面に座らせたまま、ハリスさんが立ち上がった。

「向こう側の世界って、どういう意味ですか?」

「何故、大人の竜が姿を消したかという答えだよ。三百年前、後に勇者と呼ばれる男が魔王と戦った。ある竜は魔王に味方し、またある竜は男に味方をした。竜同士の戦いは、まるで神々の戦いでもあるかのごとく、天地は壊れ、崩れ落ちかけた」

「わたくしたちの伝承では、竜は魔王とまとめて倒されたとありますが……」

「それは誤った言い伝えだ。人間側が改変したのだろう。竜たちは、ある目的のために、この世界を去ったんだ」

「竜が去った目的って……いったい何ですか?」

 わたしの問いに、ハリスさんは何時もの朗々とした声で答えた。

「進退窮まった魔王は異世界からこの世界を滅ぼす究極の存在を呼び寄せようとした。それが何かは、わからない。この世界にまだ現れてはいないからね。だが、竜たちがその存在を退け、この世界を守るために総出で向かっていったことだけは確かだ。残されたのは子竜だけ。なぜ子竜たちを残していったかはわからないが……我が子を危険な場所に連れて行くような親はいないだろう」

 竜たちは、自分たちの子供と、この世界を守護していたんだ。

 竜は世界を去ったわけではない。ずっと傍らにいて、見守ってくれていた。

「となると、怒るのも無理ないですね。この世界のために我が子と離れたのに、傷つけられるなんて」

「ああ。下手したら、この近辺は数秒で燃え尽くされるな」

 軽く肩をすくめるハリスさんとは対照的に、ジュケイヌが重い溜息をつく。

「それだけは勘弁してほしいものですわね。なんとか、ならないものですか?」

「出来る限りのことはするつもりさ。私が取り次ぐ。後は、竜のご機嫌次第だ」

 ハリスさんが?竜と?

 驚くわたしとジュケイヌに背を向けると、ハリスさんは指からあの指輪を外し、天を泳ぐ竜に掲げた。指輪から、赤々と眩しい光が迸る。

「竜よ。話を聞いて欲しい。あなた方が我ら人間に耳を貸す義理はないかもしれないが、旧き約款やっかんは残っているはず。緋竜ひりゅうよ。あなたが人間に託した、この鱗がその証だ。どうか、怒りを鎮め、我らと話す場を設けてはくれまいか」

 あの指輪についていた鉱石のようなものは、この巨大な竜の鱗だったのか。ハリスさんの言葉と、指輪の光に反応したのか、竜は動くのを止め、じっくりとハリスさんを見下ろした。

 竜の眼が、すっと、細くなるのと同時に、わたしの耳に遠くから声が響いてきた。

「確かに我が鱗のようだ。すると、お前が現在の漂泊公か。ずいぶん、若い女だな」

 漂泊公!?あの、伝説の五番目の大公が!?

 わたし同様、驚きのあまり暫し固まっていたジュケイヌが、片膝をつき、畏まった。

「魔王を倒した勇者は、後の初代漂泊公。竜との約束の証として、漂泊公は竜の王である緋竜、つまり、貴方の鱗を代々受け継いできた。竜よ、今一度、人間とお話し願いたい」

 緋竜と呼ばれた赤色の竜が、大きく溜息をついた。口の周りに、業火が揺らめく。

「では、問おう。我が子を抱きし乙女よ。汝に問う。何故、己の身を犠牲にして、我が子を助けた」

「友だちだから、です」

 嘘偽りなく、わたしは正直に竜に返す。

「なるほど。では、もう一つ、我が子に問おう。我が子よ、お前にとって、人間とは、なんだ」

 わたしの腕から離れ、ファフがぷかぷかと宙に浮く。

「ファフ!もう、傷はいいの!?」

「だいじょぶ!ふぁふ、もう、げんき!」

 回復したファフの周りに、コア、ヨル、ティアが集まり、お互いに目くばせした。

「おとーたん。にんげんはね」

 四頭が、せーので声を合わせた。

「ともだち!!!」

 四頭の声が歌うように高らかに響き、美しいハーモニーを奏でた。

「ともだち!ともだち!」

「ともだち!ふぁふ、やっといえたな!」

「……ともだちだよ」

「ともだち、です」

 ファフたちの友だちの大攻勢に、竜はゆっくりと目を閉じた。

「ファフ、と名付けれられたのか。……良い名だ。ファフを抱いていた人間の少女よ。名前を聞かせてほしい」

 え?わたし!?

「あ、はい!いろはです!!!止来いろはといいます!!!」

 ガチガチに固まり直立不動で答えたわたしを見た緋竜が、わずかに目を細めた。

「かつて、我が血は初代漂泊公に注がれたが、今日、我が子の血は汝に流れ落ちた。新たな約款の時だ。我が子を頼む。止来いろは」

 大きく身を翻したかと思うと、緋竜は空の奥に消えて行った。

 周囲が、光と、午後の時間を取り戻した。

 そして、ようやく、わたしたちの日常も。


 あの出来事から、三日が過ぎた。

 その間、カンヘルは臨時休業せざるを得なかった。

 無理もない。わたしもハリスさんも、何より、竜たちの疲れはピークに達していたからだ。わたしの場合、右手の傷もあったし、満足に接客や竜の世話をできないという理由もあった。

 その間も、わたしの怪我のことを知ったイーマの人たちが代わる代わる差し入れを持ってきてくれたことはありがたかった。シヨちゃんも花束を手にお見舞いに来てくれた。本当に、いい子だ。

 三日目の晩。

「明日から、お店を開けようと思います。流石に、これ以上は休めません」

 ハリスさんにお粥を口に運んでもらいながら、わたしは開店の決意を打ち明けた。

「君がそういうのなら……。ところで、私は何時まで君に『あーん』をしてあげなければならないんだ?」

「うう、傷が、右手の傷が痛むぅ」

 わたしはオーバーな演技をしながら口を開けて、お粥の催促をする。

「やれやれ。仕方がないな、甘えん坊さんめ」

 笑顔でため息をつきながら、ハリスさんがお粥を口に運んでくれた。

 いいじゃないですか。ちょっとだけ甘えたって。

 優しく甘いお粥を口の中で堪能しながら、わたしは子竜たちの様子を窺った。

 よっぽど疲れたのか、竜たちはあれから殆ど寝たままだ。ファフの傷はジュケイヌが派遣してくれた腕利きの名医たちがしっかりと手当をしてくれた。誠意ある処置をしてくれていたので、たぶん、大丈夫だろう。

 ジョキタについては思い出したくもないが、ジュケイヌから届いた手紙によると、あの後、部下共々拘留され、再度ギエユーヴ大公から派遣されてきた部隊に連行されていったらしい。ジョキタは全身を複雑骨折、臓腑の幾つかも大破しており、生きてはいるものの、もはや半分死んだような人生を送らざるを得ないそうだ。ジョキタの末路など別に興味はないが、気になっていたのはスール家とギエユーヴ家との関係だ。だが、ギエユーヴ大公は今回の件について、スール家に咎は無く、今後も両家の同盟を継続すると決定したという。本当に、よかった。

 そういえば、ひとつ、気になったことがある。

「どうして、今頃になって子竜たちは目覚めたんでしょうね」

「そうだな。ひとつ、考えられるのは……」

 世界に危機が迫っているのかもしれない。

 ハリスさんはわたしの口にお粥を流し込むと、静かに、そうつぶやいた。

「この世界には、神にしろ自然にしろ、我々生物を越えた大いなる意志、存在があると私は信じている。竜たちが邪なるものを封じていることは先日説明したな。ひょっとしたら、今、向こう側の世界にいる竜たちでは不足していると、その何かが考えたのかもしれない」

「だから、眠っていた子竜たちもいずれ参戦させるために目覚めさせた……というわけですね」

 果たして、それが何時になるのか。できれば、来てほしくない。

「そういえば、ハリスさん、漂泊公だったんですね。びっくりしました。ジュケイヌさんの方がびっくりしてましたけど」

 一応、ハリスさんが漂泊公ではることはわたしとジュケイヌとの間だけで秘密にすることにした。そちらの方が、イーマの人たちも付き合いやすいだろう。

「別に隠すつもりはなかったんだがな。まあ、こんな私でも、何かの役に立ててよかったよ」

「とっても頼りになりました。だから、これからもこのお店にいてくださいね、漂泊公さん?」

「確約はできんぞ?私は旅人だからな」

 そう言うと、ハリスさんは子供みたいに快活な笑顔を浮かべた。


 その日の深夜。

 わたしはハリスさんから預かった屋上の鍵を使って扉を開けると、階段を登り、屋上に出た。

 思いの外、夜気は暖かい。空は満天の星空だ。この空の向こう側に竜たちがいると思うと、何だか感慨深い。

 ふと、夜風の音に混じって、羽音が四つ飛んできた。

「いろは!ほし、きれい!」

「おほしさまが、きらきらひかってる。ふぁふはことばがじょうずになったな」

「……ほしって、たべれる?」

「たべるよりも、みるほうがいいよ。きれいだから」

 ファフ。

 コア。

 ヨル。

 ティア。

 みんな、わたしの大切な友だちだ。

 四頭の頭を代わる代わる撫でながら、わたしは星空を見上げ、心の中で空の奥に語りかける。

 聞こえますか、竜の皆さん。

 人間を信じてくれて、ありがとう。

 この子たちは、わたしたちが大切に育てます。

 何時か、この子たちがあなたちと同じ選択を迫られた時、あなたたちと同じように、人間を信じられるように。

 まるでわたしの声を聞き届けたかのように、天空の星々が一斉に煌めいた。


 眩しい朝の光が、燦々とフロアに入り込んでいる。

 キッチンの奥からは、ハリスさんが淹れているお茶のいい香りが漂ってきた。

「さあ!ともだちが、やってくるぞ!」

「きょうも、げんきにあそぼう!ふぁふ、いくよ!」

「……おやつ、いっぱい、もらえるかな?」

「わたしのひるねのじゃま、しないでね?」

 竜たちの楽しい会話の中に。

 からん。

 ドアベルの軽やかな音が鳴った。

 ようこそ。カンヘルに。

 可愛い子竜たちが、あなたに新しい世界を、お届けします。


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可愛い子竜とお茶しませんか? ~保護猫カフェの店員だったわたしが異世界で竜とカフェをやってみます!~ 神田 るふ @nekonoturugi

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