第七章 力無き者の叫び

 翌朝。

 六時半ごろに、わたしは目を覚ました。

 身体の疲労は消え、頭もすっきりしている。心の中の不安とモヤモヤは消えず、四肢を重く引きずっているが、ぐずぐずしてはいられない。

 竜たちに餌をあげないと。

 部屋着に着替えて顔を洗おうと廊下に出たわたしの眼に、淡い光が飛び込んできた。

 屋上に上る階段の扉が開いている。鍵はハリスさんが持っていたはずだ。急いで顔を洗い、顔を整えると、わたしは屋上に駆け上がった。

 朝の気持ちのいい風を浴びながら、ハリスさんと、あの大鷲がいた

 こちらに背を向けたハリスさんはちょうど何かを書き終えた所で、手紙を封筒に入れ、印鑑を押して封をすると、大鷲に手渡した。ハリスさんから受け取った封筒を口にくわえ、大鷲は大空に飛び立っていく。早朝の空気が舞い上がり、ハリスさんの髪の毛とスカートを舞い上がらせた。スカートの浪間からハリスさんの黒い下着、そして、見事なラインを描くヒップと美脚が露わになる。見ちゃいけないと思いつつ、やっぱり凝視してしまった。女同士なのに、何故、こんなにドキドキしなくちゃならんのだ。そういえば、ハリスさんのスカート姿なんて初めて見た。

「いろは君。起きていたのか。昨日はよく眠れたかい?」 

 振り返ったハリスさんの姿に、さらにわたしの心臓が高鳴る。

 ハリスさんは身体のラインが嫌が応でも出まくるような、きわどいドレスに身を包んでいた。胸元は大きく開き、わたしのとは比べ物にならないような豊満な双丘がはちきれんばかりにはみ出そうとしている。軽くジャンプしただけで、お外にご挨拶してしまうに違いない。よく見ると、メイクも少し濃い。こんな女性らしいメイクができるなんてびっくりした。しかも、ある程度離れているのに、わたしの鼻孔にゾクゾクするような艶めかしい香りが入ってくる。おそらく、香水もふっているのだろう。

「あああああの、ハリスさん?その格好は?」

「夜の間、出かけていた。重ねて申し訳ないが、朝の食事の準備と掃除を頼みたい。殆ど寝てないんだ。悪いが、少し寝かせてくれないか」

 固まったわたしを残し、欠伸をしながら、ハリスさんは階段を下りて行った。

「ごはんー!あさめしー!」

「あさごはん!ふぁふはおぎょうぎおぼえろ」

「……おなか、へった」

「なにか、あったの?」

 待ちきれずに二階の階段まで登って来ていた竜たちをなだめながら、わたしは一階に降り、竜たちにご飯を準備すると、お店の掃除を始めた。その間中も、ハリスさんのおしりとおっぱいが眼と脳に焼き付き、離れなかった。わたしってこんなにスケベだったのか?いやいや、ハリスさんが魅力的すぎるのだ。わたしは悪くない。と言うか、こんな大事な日に、のぼせている場合じゃないぞ。でも、あんなに美しい身体をした美女とずっと暮らしていて、これからも暮らすとなると……いや、だから、そんなことを考えている場合では……。

 悶々としながら、わたしはお店の掃除を終えた。そういえば、今日の一大事への不安は完全に消えてしまっていた。頭の中はハリスさんへのえっちな妄想でいっぱいだったからだ。恐るべし、ハリスさんのおっぱい。でも、おかげで不安から逃れられて助かったような気がする。

 フロアに戻ると、時計の針は八時を示していた。わたしも朝食の時間だ。食事を終えて朝寝をする竜たちの間を抜けてキッチンに入る。昨夜、夜食の準備の時にハリスさんが仕掛けておいてくれた野菜とソーセージのスープを火にかけて温め、バゲットを切り、お茶を淹れてプレートに乗せてフロアの机に戻ると、わたしはもくもくと朝食をとった。今日は市内も休日である。何時もは慌ただしい生活音がお店の中にも入ってくるが、今日は至って静かだ。まさに、嵐の前の静けさである。そういえば、わたし、嵐に巻き込まれてこっちの世界に来たんだっけ。それからわずか二週間しか経っていない。怒涛のような日々だった。

 食事を片づけ、お手洗いに行こうと階段に向かおうとしたら、ちょうどハリスさんが降りてきた。髪を綺麗に結い上げ、メイクは薄め、パンツスタイルの何時もの営業スタイルだ。お風呂に入ったのか、身体からは香水ではなく石鹸の香りがする。昨晩からの色気ムンムンな雰囲気は欠片も無いく、気品と凛々しさに満ちた何時も通りのハリスさんだ。だが、身体のラインを覆い隠すこの男装の下には、あの美しいボディが隠れている……そう思うだけで、わたしの頬が赤くなる。

「すまなかったね。食事は自分で取るから気にしないで。それまでは、いろは君もゆっくりしていてくれ。どうした?顔が赤いぞ?」

「い、いえ!だだだだだだだ大丈夫です!」

 このままでは妄想で頭が大火事を起こしそうだ。この場を一刻でも早く離れるため、階段をダッシュで駆け上る。トイレに行く前に、まずは洗面所で顔を洗って顔を冷やそう。メイクする前で、本当に良かった。

 ドキドキする気持ちを押さえながら、自室に戻って着替えを済ませ、椅子に座る。着替える途中、鏡に映った自分の貧相な身体とハリスさんの身体を比べてしまい、げんなりしてしまった。

気分のアップダウンが激しすぎる。こんなので、正午を迎えられるのか、わたし。

 しかし、時間は正確に、刻一刻と過ぎて行った。

 十時半。

 わたしが準備を整え、階下に降りると、ちょうどハリスさんが竜たちにおやつを与えているところだった。

「わたしはジュケイヌの所に立ち寄ってから向かう。いろは君は先に城門で待っていてくれ」

「わかりました。では、わたしたちは十一時に出発します」

「そうしてくれ。大丈夫だ、必ずうまくいく」

 ハリスさんがわたしの方に手をかけ、にっこりとほほ笑む。

 今朝の女性的なハリスさんとは違うイケメンな美しさに、わたしの胸がときめいた。また顔を冷やそうかと思ったが、メイクを終えた後だから、そうもいかない。

 ハリスさんを見送ると、顔と心を火照らせたまま、わたしは椅子に腰を下ろし、出発の時間を待った。


 とうとう、運命の時がやってきた。

 正午の数分前。

わたしとファフ、コア、ヨル、ティアはイーマの城外に歩み出た。

 待つこと、暫し。

 遠くから、土煙が近づいてくる。おそらく、ジョキタたちだろう。

 身を強張らせるわたしの背後で、城門が開く音がした。

 ジュケイヌが来てくれた!

 期待を持って振り返ったわたしの視線の先から歩いてきたのは、ハリスさんだけだった。

「すまない。待たせてしまった」

 ハリスさんの表情は固く、何時ものクールな様子は感じられない。

 胸の中に嫌な気持ちが広がっていくのを感じながら、わたしは恐る恐る問いかけた。

「あの、ジュケイヌは……?」 

 ハリスさんが、残念そうに首を振る。

「ジュケイヌは、来れない」

 そ、そんな……!

 愕然とするわたしに、ハリスさんは大きなため息をついた。

「スール候をはじめ、重臣たちの一部が納得しないようだ。ジュケイヌは頑張っているが、協議は割れている。結果はどうあれ、ジュケイヌは間に合わないだろう」

 最悪だ。

 だとしたら、もうジョキタの強要を断る術はない。

 暗い気持ちで下がった視線の先に、黒い影が重なった。

「時刻通りに参上した。で、スール家はどうした?姿が見えんようだが?」

 馬上からジョキタの勝ち誇った声が、わたしの後頭部の上から響いてくる。

「いないようだな?あれだけの大見得を切っておきながら、いざとなったら怖気づいたと見える。世に名高い金剛令嬢が聞いて飽きれるわ。ギエユーヴ大公の威徳の前では、惨めな子ウサギに過ぎんようだ」

「ジュケイヌさんを馬鹿にしないで!今、みんなを説得しているところよ!」

「だが、現にこの場にはいないではないか。それが現実だ」

 わたしの絞りきるような叫びは、ジョキタの余裕に満ちた冷笑に無残にもかき消された。流石のハリスさんも押し黙ったままだ。

「もはやお前たちを守る者はない。味方となってくれる者もない。無様な負け犬だということがわかったか?身の程がわかったか?わかったら、さっさと……」

「いやよ!」

 流れる涙を止めることなく、私は叫ぶ。

「ファフたちは……この子竜たちはきっと世界を変えてくれる!あんたなんかには、渡さない!」

 睨みあげたわたしの視線の先で、ジョキタがゲラゲラと爆笑した。

「教えてやろう、小娘!無力な弱者の叫びほど、虚しいものはない!力無き貴様がどれほど叫ぼうが無駄だ!必要なのは……」

「力か?ならば、それをお前に見せてやろう」

 沈黙したままだったハリスさんが、すっと、右手を天に伸ばした。

 怪訝な顔をしたジョキタの上から、吹き荒ぶ風の音がする。

 大鷲だ。

 大きく旋回した大鷲が、口にくわえていた何かを、ハリスさんの手元に落とした。過たず、ハリスさんはその何かを右手でキャッチする。

 ハリスさんの右手に握られていたのは、丁寧に丸められた書簡だった。

 封を解いたハリスさんが、朗々とした声で書簡を読み上げる。

「今回の議、委細承知に候。全くもって、義はスールの側にあり。仮にギエユーヴ大公が義を掲げられたくば、我、自らの刃を持って我が義を示したく候。一戦まことにありがたし。武人の誉に候。我が旧知の友に、この文を預けたるもの也。以上……」

 ズシマ公拝。

 ずい、と。

 ハリスさんが、書簡をジョキタに突き付けた。ズシマ大公。昨日、話題に出ていた四大公の一人で南方の太守だ。

 嘲笑を浮かべていたジョキタの青白い顔が、みるみるうちに蒼白さを増していく。

「ば、ば、ば、バカな!ズシマ大公だと!?た、た、たたた、確かにその公印はズシマ大公の印ではないか!ななななぜ、何故、ズシマ大公が!?」

「知らないのか。ズシマ大公は三千の兵を伴い、中央政府と軍議を図っている。大鷲の翼を使えば、ここスール領から中央まで片道二時間とかからない」

「そんなことは聞いておらん!何故、貴様のような下賤の者が大公と!」

「友人なんだよ。書いてある通りだ。竜の調査の件についても、ズシマ大公から依頼されたんだ。まさか、こんな展開になるとは予想もつかなかったがな」

 さらりと答えたハリスさんの前で、ジョキタの顎が外れんばかりに垂れ下がっていく。

「ジョキタ。先ほど、力がどうかと言っていたな。この力を見て、何とする。ギエユーヴ大公に、この件を報告してみたらどうだ?」

 ジョキタの後退気味の額から、ダラダラと脂汗が滝のように流れ始めた。明らかに、狼狽していることが、わかる。

「お前の悪行はお見通しだ、ジョキタ。お越し下さい、ジュケイヌ嬢!」

 え……!?

 再び城門が開く音がし、何かをズルズルと引きずるような音を伴いながら足音が近づいてきた。

「ジュケイヌさん!」

 わたしの涙交じりの歓声に、ジュケイヌが晴れやかに微笑んだ。

「淑女たる者、遅れましたことを心よりお詫び申し上げます。なにぶん、荷物が重かったので」

 まるでボールでも投げるかのような軽い感じで、ジュケイヌが手にしていた何かをジョキタに放り投げた。

 土煙を上げながら転がっていったのは、昨日、イーマの騎士を店の外に放り投げた、あの大男だった。あの時の鎧姿は何処へやら、下着姿の惨めな身体をロープでぐるぐる巻きにされている。

「気になったので、昨日、猫に頼んで後をつけさせてもらった。そいつが場末の酒場で気を吐いていたので、身体を押し付けて甘い息を吹きかけたら、何の疑いもなくベッドの中までついてきたよ。まあ、その後、縛り上げて全部吐かせたんだが」

「じゃ、じゃあ。今朝のあのドレス姿は……」

「そういうことだ。男は色気に弱いものだな」

 すいません。女のわたしもやられてました。

「当初、女神の猟犬は一頭だけのはずだったが、現地にて二頭の猟犬が発見された。ジョキタ、お前は大公の歓心を買おうと、二頭とも捕獲し献上しようと画策したようだな。だが、当然、麻酔薬は一頭分しか準備していなかった。それを二頭に使ったのだから、途中で猟犬が目を覚ますのは当たり前だ」

「驚き慌てたあなたは、変わりのものを献上しようと計画したのですね。そこで、竜に目を付けた。答えなさい、ジョキタ卿。あなたは、何時、大公に竜の件を話したのですか?」

 ジョキタは蒼白どころか、今や真っ白になった表情で固まってしまっている。先ほどまでの居丈高な表情が嘘みたいだ。

「お前の足元に転がっている紐に巻かれた荷物によれば、一週間前に大公領を出た後は一度も引き返していないようだな。ジョキタ、お前は大公に無断で事を進めたんだ。自分の過失を揉み消すために」

「そ、そんなことは……」

「ほう。ギエユーヴ大公はご存知なのか。ならば、ズシマ大公のこの書状を、即刻ギエユーヴ大公にお送りしよう。さて、大公はどう判断されるかな?ズシマ大公は一戦止む無しの覚悟だ。場合によっては戦争になるぞ?」

 わたしにも、わかる。

 詰んだ。どう、動いてもジョキタが逃れる術は無い。格下の侯爵なら押し通せるはずだったのだろうが、同格の公爵が動くとは想定外だったに違いない。

 ジョキタもそれがわかったのだろう。ずるずると馬を下りると、地面にうずくまった。配下たちも、もはやこれまでと思ったのか、下馬してジュケイヌに跪く。

 勝った……!流石はハリスさんとジュケイヌだ!

 最初に現れた時のハリスさんの表情を見て、もうダメだと思ったけど、そういえば、ハリスさんは役者だった。まんまとわたしも騙されたわけだ。

 カフェに帰ったら、思いっきりいじり倒してやるんだから。

 ようやく顔に柔らかさが戻るのを感じながら、わたしがハリスさんに向き直った時だった。

 わたしの視界が、ぐらりと揺れた。

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