鳴らない笛を、聴く。

篤永ぎゃ丸

篠竹一管は、正直と嘘を語る

「全ッ然、音が鳴らない……」


 窓から夕陽が差し込む、どこかの町内会館。横長十二畳の心做こころなしか狭い空間で、高校の制服を着た金城颯真きんじょうそうまが一生懸命、横笛を吹いている。——が、音が一切鳴らない。


 スーッ、スーッと不器用に風が抜ける音だけがその場で響く中、颯真の目の前に学生服の上から藍色の法被はっぴを羽織った、同級生の花幡彩里はなはたあんりが正座した。


「金城は、練習が足りぬのだ」

「そんなはずは……ネットでコツとか、上達方法を調べて毎日家で吹いてるんだ。それでも、音が出ない訳で」

「ふん。今時の若者は、すぐネットに頼ろうとする」

花幡はなはた先輩って、僕と同い年だよね……?」


 颯真そうまは呆れた顔で彩里あんりを見た。二人の両手に握られているのは、日本の木管楽器である篠笛しのぶえ。祭りの御囃子として活躍する古典調のもので、均等な間隔と大きさで七つの穴が開いている。


「笛自体は二千円くらいで買えるのに、吹ける様になるまで、こんなに苦労するんだね」

「我々が扱う篠笛は、雌竹めだけに漆を塗る以外、殆ど手を加えない。故に、『庶民の楽器』と言われているのだ。雅楽や歌舞伎で使われる『能管のうかん』と『龍笛りゅうてき』となれば、話は変わるがな」

「あのさ、篠笛ってなんたら調子とか……やたら種類があるけど、何が違うの?」

「寸法が短い程、音が高く、その逆であれば音が低くなる。当然、音階も一本調子から十二本調子まで全て違う」

「へぇ〜。ちなみに、僕が使っているこれは?」

「その篠笛は『古典調』の八本調子だ。金城のような素人には『ドレミ調』の八本調子が一番いいが、何も考えずに勢い任せで購入した結果、音程と音階が合わず面食らう者が非常に多い」

「聞けば聞くほど、稚児ややこしい楽器だ……」


 寸法の長さだけでなく、指孔ゆびあなの間隔や大きさが一本一本違う篠笛。その複雑な楽器の知識や技術に苦戦している颯真の目の前で、彩里は笛の歌口に唇を添えた。


「だから、篠笛はで美しい」


 彩里が息を吹き込むと、ピーヒョロロととんびが飛び立つが如く高音が、室内に響く。奏者の指運び、呼吸によって笛が息吹いぶくとは、正にこの事。颯真は高鳴る雌竹めたけから迫り来る和音に、耳が奪われ、息を吸う事すら躊躇った。


 自然と調和する音を奏でる彩里が羽織る法被の背には、竹をイメージした紋所と『花幡流はなはたりゅう』と書かれた襟字が白文字で記されている。篠笛の流派を受け継ぐ者としての素養を旋律として証明した後、ゆっくりと歌口から唇を離す。


「やっぱ上手いなあ、花幡はなはた先輩は」

「当たり前だろう。私は、金城の篠笛講師を任された者だぞ」

「任された……って言ってもさ、花幡はなはた流で篠笛吹いてる人って、花幡はなはた先輩のお爺ちゃんくらいしかいないよね」

「私の両親は——花幡流を継ぐ気が無いからな」

花幡はなはた流って、石見神楽いわみかぐらで五百年以上も前から祭囃子まつりばやしを演奏してる社中しゃちゅうの専属流派なんだっけ? すごいよね〜」

「そうだ。この笛の音は、何としても後世に受け継がなければ」


 彩里はギュッと、篠笛を握った。笛の両端にある籐巻とまききは、長きに渡り竹の割れを防いできた。歴史を重ね塗りしてきたうるしは、色褪せない『伝統』の輝きを放つ。


「ご立派な歴史ある花幡はなはた流を、僕も吹いてみたいけどな〜」

「ふん。金城も、吹き始めてまだ三ヶ月程度だろう。私は三歳から稽古を積み、六歳でやっと祭囃子が吹ける様になったのだ。篠笛はそう簡単に吹けるものではない」

「いやさあ、今年のお祭りで花幡はなはた先輩の演奏聴いて、篠笛でアニソン吹いてみたいなーって稽古つけて貰ったはいいけど、まだ音出なくてびっくりだよね」

「何が『あにそん』だ。花幡流は、元々雅楽ががくを吹く為の流派なのだぞ。だが、気楽な目標があるのは……正直、羨ましい」


 鳴らない篠笛を眺めていた颯真は、彩里の言葉に反応して、彼女を見た。花幡はなはた流を習う理由としては少々ふざけたものだが、それを羨むのは疑問だろう。


「羨ましいって?」

「私は……物心が付く前から、祖父によって篠笛を握らされていた。毎日何十時間も、息を吹き込み……過酷なあまり、何度も胃液を吐くほどだった」

「……すごい苦労を、してるんだね」

「何よりも稽古が優先で友と遊ぶ事も出来ず、スマホとやらも、持たせて貰えない。花幡流の後継者を育てる為に、祖父も必死なのだろう」


 彩里は持っていた篠笛を膝に置いた。それを見た颯真は、鼻で息を吐く。綺麗な和音を鳴らす横笛も、流派を象徴する法被も、その話の後では重苦しく見える。


「まあ……花幡はなはた先輩は僕と違って、とても立派だと思いますよ。色々なプレッシャー背負って、篠笛を吹いてるんだから」

「……すまない。こんな話をするつもりは無かった。しかし、正直言って私は——好きで篠笛を始めた訳ではないのだ」

「嫌なら、やめちゃえば……なんて、簡単には言えないだろうけどさ」

「積み上げられた歴史の重圧、名家に生まれた期待。両親が逃げ出すのも、祖父が私に執着するのも、今となってはよく分かる」

「好きでやってないのって、しんどくない?」

「だが、金城よ。最近は篠笛を吹くのが、苦ではないぞ」


 膝に置いた篠笛を、彩里は軽そうに持ち上げる。壮絶な苦労話を聞いた颯真は、彼女にとって救いになる言葉を思い付く事が出来なかった。


「金城が私の演奏で興味を持ってくれたのが、厳格な祖父がの面倒を任せてくれたのが、嬉しかったのだ。やっと……私が納得出来るような篠笛を吹く役割を、意味を、与えられたような気がして」

花幡はなはた先輩……」

「だから今は、この練習時間が楽しいのだ。放課後、友と寄り道したり……遊びに行くというのは、きっとこういう感じなのだろう」


 義務付けられたような堅苦しい口調の彩里から、年相応の微笑みが浮かんだ。彼女にとって篠笛は、歴史の重圧や責任転嫁の権化だった。しかし今は、学生らしい青春を過ごす為の契機けいきとなっている。


「金城が吹ける様になるまで、私がしっかり面倒を見てやろう」

「僕は不器用なんで……、めちゃくちゃ苦労かけると思いますけど」

「一向に構わん。実際、『先輩』と呼ばれるのも悪い気がしないものでな」


 彩里が得意気に言うと、後ろの襖がスッと開いた。和室に入って来たのは、花幡はなはた流の法被を着た、角刈りの高齢男性——彩里の祖父、花幡茂はなはたしげるだ。


「取込み中に悪いな。来月、石見神楽伝承館での定期公演、彩里に篠笛を吹いてもらうぞ」

「私が——神楽の笛を?」

「最近彩里の篠笛は、音色に活気があって質が良い。公演で聴かせるには、十分と判断して任せる事にした。少し打ち合わせをしたい、一旦席を外せるか? 伝承館まで車で送ってやろう」

「分かりました、直ぐ準備します」


 条件反射で彩里は立ち上がり、学生カバンに手を伸ばして、出かける準備を進める。キョトンと篠笛を握って正座する颯真を見た茂は腰を下ろさず、彼を見下げて言った。


「金城君、篠笛の練習は捗っているか?」

「は、はい。僕って肺活量が無いから……なかなか息が続かなくて、未だに音が出ないんですよね」

「はは、そう焦る事はない。普通、初心者は胸式で吹こうとするのだが、見た所、金城君は腹式呼吸を心得てるようだ」

「そ、そうなんですか? 腹式とか、胸式とかよく分からないです……」

「呼吸の仕方を見れば分かる。君には、篠笛の素質があるかもしれない」

「お待たせしました、行きましょう」


 肩に学生カバンをかけて、彩里がバタバタと寄ってきた。茂は後ろポケットにある車のキーを探しながら、颯真に話しかけ続ける。


「音が出たら、是非教えてくれ。伸び代があるようなら、花幡流の門下生として迎えよう」

「いやいや、僕には才能無いんで……」

「そうですよ。御祖父様おじいさま。金城は不器用なんです。音が出るまで、何年かかるか分かりませんよ」

「それも、彩里の教え方次第だろう。金城君、三十分程で戻るから、それまで自主練習に励んでくれ」


 少し意地悪な言い方を彩里に投げかけ、颯真に期待の言葉を置くと、茂は先に町内会館の外へ向かっていく。


「では金城、私は出かける。くれぐれも怠けるんじゃないぞ」

「スマホゲーして、待ってまーす」


 やる気の無い颯真の姿に呆れて、ため息を和室に吐いてから彩里は茂の後を追って、外に停めてある車に向かった。


 車の扉が閉まる音、エンジン音を聞いた颯真は立ち上がり、窓から二人を見送ろうと顔を覗かせる。視線に気付いたのか、車の窓から彩里が軽く手を振った。それと同時に発車し、町内会館から離れていく。


「三十分……自主練ね」


 颯真は畳に正座すると、言われた通りに練習を始めるのか歌口に唇を添えた。そして、腹部の運動を利用して息を吸うと、その空気を篠笛に送り込む。


 スーッと、息が抜ける筈の颯真の篠笛から、彩里のものと全く同じ音色が、和室内に響き渡る。ピーヒョロロという高音は、飛び立つとんびから抜け落ちる羽や、風切り音、自由な大空すら、表現してしまう程の丁寧なものであった。


 期待で人々を振り返らせる祭囃子の旋律を繋げ終わると、颯真はゆっくりと唇を歌口から離した。誰もいない静けさが、彼の真実を物語る。


「呼吸だけで、素質を見抜くなんて。流石、花幡はなはた先輩のお爺ちゃんって感じだね。ちょっと焦ったよ」


 颯真はふぅ……と、余裕のある肩呼吸した。彩里に聴かせていた不器用な笛は、なんと『嘘』だったのだ。元々出来ていたのか、短期間で会得してしまったのかは定かではないが、孤立する彼は手元の篠笛を静かに見つめる。


「お祭りで聴いた君の篠笛は、嘘の音がしていた。……窒息しそうなを助けたくて、弟子入りしたけど。僕の笛は……きっと、君を傷付ける」


 ギュッと篠笛を握りしめ、颯真は嘘を篠笛に押し込めた。彼の下手な音色は苦痛の努力を積み重ねた彩里を救い、本来の音色は、才能という凶器によって彼女を追い詰めてしまうだろう。颯真が出来る事はただ一つ、弟子で在り続ける事なのだ。


「僕は君より上手く吹かないよ……絶対に」

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鳴らない笛を、聴く。 篤永ぎゃ丸 @TKNG_GMR

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