土中記

つくお

土中記

 男が公園のベンチで一人お昼を食べていると、突如背後の地面がぼこぼこと盛り上がり、地中から何かが這い出てきた。指が五本はえた手、黒々とした毛におおわれた頭。人だった。人間の男だ。

 その人物は穴から完全に抜け出ると、頭を振って土を落とし、両手で体中についた泥を払い落した。裸で何もつけていなかった。男と目が合うと、その瞳にわずかに怯えが宿った。その人物はくるりと背を向けて立ち去ろうとした。

「あんた、一体どこから」

 男は声をかけたが相手は振り返らず、足を早めて行ってしまった。

 穴だけが残された。男は食べかけのおにぎりを持ったまま立ち上がり、縁に立って中を覗き込んだ。深そうだった。大人が通れるほどの径があるが、少し潜ったところで影になって奥まで見通せなかった。先ほどの人物が自ら掘り進んだものなのか、それとも何者かによって掘られたものなのかはわからなかった。

 男は、好奇心に駆られて食べかけのおにぎりを穴に落としてみた。おにぎりは内壁に当たりながら転がり落ちていき、すぐに見えなくなった。穴の奥からは何も聞こえなかった。中がどうなっているか気になったが、それは自分の目で確かめるしかなさそうだった。男は地面に膝をつくと頭から潜り込んでいった。

 長い穴だった。それは地中何メートルかから地上を目指して掘られた垂直方向の穴ではなく、どこかへ続くトンネルのようだった。男は、先ほどの人物は何かの卵のように地中に埋められていたのではなく、このトンネルを通ってどこかから来たのではないかと推測した。だが、一体どこから。

 男は謎を解き明かすべく闇雲に先へと進んでいった。トンネルは地中深く潜り込み、日の光は一切届かなかった。あまりに暗いので、自分の目が開いているのか閉じているのかもわからなくなるほどだった。

 出口はいつまで経っても現れなかった。方向感覚はとうに失われ、地上に向かっているのか、地下に降りていっているのかさえわからなくなった。体中を土壁にこすりつけながらでないと進めないので、着ていたものは次第に擦り切れていった。気がついたときには裸に近いような状態になっていた。

 穴に入ってからどれくらいの時間が経った頃だろうか、ふいに壁に突き当たった。行き止まりだ。ここまでずっと脇道のない一本道だった。この穴はどこにも通じていなかったのか。だが、戻る選択肢などなかった。男は自らの手で掘り進むことにした。

 男は不思議と労なく土を掘ったが、まるでそうできて当然のように疑問に思うことはなかった。

 しばらく掘り進んでいくと、壁の向こうが薄くなってきている感覚があった。止まらずに掘っていくと、ふいに壁が崩れ、まばゆい光が射した。と思った途端、何かに掴みとられるようにして体が宙を浮いた。

「かかったな」

 男が手足をじたばたさせると、淡白な枯れた瞳に顔を覗き込まれた。浅黒い肌をした染みだらけの老人だった。男は何が起きているのかわからないままに、この老人が自分を始末するつもりだということに直観的に気がついた。逃げ出そうとしたが、手足はただ宙をかくばかりだった。

 弁解する余地もなかった。老人はまるでごみ屑のように軽々と男を網カゴに放り投げた。そして、それきり関心を失ってしまったかのように背を向けて去っていった。

「待て! おい、待ってくれ!」

 男の声はまるで届いてないようだった。

 地面に無造作に置かれた網カゴに一人きりだった。カゴは上は開いていたが背が高く、とても乗り越えられそうになかった。男の手は穴を掘ることは苦もなくできても、網を掴むのには役立ちそうになかった。

 なぜこんな目に遭わなければならないのか見当もつかなかった。男は狭く不快な空間でただうずくまっているしかなかった。なぜか、土の中にいたときの方がよほど快適に思えた。やがて、カラスが一羽、また一羽とやってきて、近くの木にとまるのが見えた。男は本能で危機を感じ取ったが、打開策を考えるだけの気力はなかった。

 ふいに影が射したかと思うと、男は抗う間もなく、またしても首根っこを捕まれて体をひょいと持ち上げられた。

「かわいいー」

 見たことのない少女だった。男を見てかわいいと口にするその少女自身はというと、脂ぎった丸い鼻に大きな吹き出物が二つくっついたようにできていて、ひどく醜かった。男はされるがままにエコバックのようなものに詰め込まれると、激しく揺られながらどこかへ連れていかれた。

 どこか閉ざされた空間に来たようだった。突然逆さにされて袋から転げ出されると、そこは毒々しい桃色とアロマの香りに満たされたファンシーな部屋だった。少女の自室らしい。男は吐き気をもよおしたが、少女は気づくこともなく男を飼育カゴに押し込んだ。

 つい先日までトカゲを三匹飼っていたカゴだった。トカゲたちは餌やりのあとに閉め損なった上部の蓋から逃げ出したのだ。その爬虫類たちは今もこの部屋の中にいたが、少女はそのことに気づいてなかった。一匹は机の下で死に、干からびつつあった。少女が椅子を動かしたときに、運悪く下敷きになったのだ。

 男はここから出せ、なぜこんなことをするのだと声を荒げたが、少女の耳には届かないようだった。少女はただ楽し気に男の世話をした。本人は世話をしているつもりだったが、実のところ男のような生き物をどう飼うべきかなど、一つも分かってなかった。

 カゴは男には狭く、中の土は少なすぎた。与えられる食べ物は口に合わず、量もやはり少なすぎた。部屋のおぞましい香りはカゴの中にまで侵食してきて、照明は目も眩むほど強かった。少女が太く短い手足でK-POPに合わせて踊る様子や、夜な夜なベッドの枠木に股間をこすりつける様を見せつけられるのにも、言い知れない絶望的な気持ちにさせられた。そこにいること自体が拷問だった。

 男はほとんど見えなくなった目で、戯れに土を掻いて時間をやり過ごした。まずい食べ物を無理やり腹に詰め込んではカゴの隅に吐いたり、下痢をしたりしたが、少女が気づく様子はなかった。何とか脱出しようとカゴの側面をよじ登ろうとしたが、つるつるで手をかける場所が見つからなかった。そうしていると、外に逃げ出したトカゲがやってきてちろちろ舌を出して男を眺めるのだった。言いたいことが通じないという点では、トカゲも少女も同じだった。

 トカゲは今や一匹になっていた。もう一匹はわずかに開いていた窓から外へ逃げようとしたところを、タイミング悪く少女に思い切り閉められて頭を潰されてしまったのだ。トカゲは日の光で熱せられたサッシで焼かれ、乾燥してぺしゃんこになっていた。

 男はずんぐりした胴体で懸命に伸びあがり、何とか蓋に手をかけようとした。あと少しで届くような気がした。それは決して届かないのだが本人にはそれがわからず、いつまでも手を伸ばし続けるのだった。その様をトカゲが飼育カゴの外からじっと見ていた。


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土中記 つくお @tsukuo

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