書ききれぬ、思い
フウト
植木屋にて
慶応4年4月。ある男は、
ある男──新撰組一番隊組長、
その沖田が療養先の植木屋で、文机に手を伸ばした。
文を書こうとしているのである。
しかし、労咳による病魔は刻々と体を蝕みはじめ、沖田は動くのも精一杯だ。
「仲間が今も戦っているのに、どうして動かない……この体は」
誰に聞かせるでもなく、独り言ちた。
「土方さんも近藤先生も、どうしていらっしゃるやら」
途端、咳が込み上げてくる。
口を覆った手のひらを開くと、血を伴っていた。
──もう永くはない。
沖田は確信していた。
志を共にした仲間と出会ったが、実際に活動できたのはおよそ5年。
特に道場時代からの仲間である
この病気さえなければ、沖田は運命共同体として今頃二人と行動を共にしていただろう。
体を引きずりながらも、沖田はやっとの思いで
(さて、何を書こう……)
まっさらな紙に、筆の墨がぽたりと落ちる。
墨をつけすぎていたのだ。
ぽたり、ぽたり。
紙の上にじわりと滲んでいく。
それを見つめて沖田は思った。
ああ──まるで血のようだ、と。
筆が刀として、滴り落ちる墨は血。
さらに、考えを巡らせた。
(私は今まで、何人斬ってきたかな)
後悔は無論、していない。
やらなければ、やられる。そういう世界だ。
しかし──いざ、自分が死の淵に立ってみるとどうだ。
斬り伏せた人達に顔向けできる生を送られてきただろうか。
沖田は顔を振った。
(いけないなぁ。体が弱っているからといって、心まで弱ってきてしまったかな)
ふと、庭の方に視線を移すと影が動いた。
黒い猫がやって来て、庭でじっと沖田の方を見ているのだ。
沖田がこの植木屋で療養してからというもの、黒猫が何度も訪れている。
その度に、沖田は刀の菊一文字を手にし、斬り掛かっていた。
しかし、斬れないのである。
猫は身軽に、ひらりひらりと刀を躱す。
いや、沖田の刀を振る力がなくなっていた。それくらい体が弱くなっていたと言える。
情けのない話だと、沖田は鼻で笑った。
(この猫の話も文に書こうか。そうしたら、近藤先生も笑ってくれるだろうか)
沖田は、文の相手に近藤勇を選んでいた。
昔から実の兄のように慕っていたため、必然とどんな話も近藤に話すようになっていた。
書いたからといって、送るかどうかは決めかねているが。
また、咳が込み上げてきた。今度は激しく。
しばらく止まらなかった。
(苦しい……このまま死ぬのか?)
沖田は、そこではたと思い返し、
土方が持ってきた家伝の薬「
即効性があるわけではないが、あの土方が「よく効く」と言って渡すのだからそれを信じて飲んでいる。
そして、本当に飲んでしばらくは体が少し楽になる。
沖田にとっては、医者の
沖田は薬を飲んで、布団へ戻った。
もう今日はこのまま寝ることにしたのだ。
(文は明日にしよう)
ゆっくりと目を閉じた。
翌朝。目が覚めた。
しかし、体が鉛のように重い。
(今日は一日ここで終わるなぁ)
そう思っていたが、来客があった。
沖田の姉のお光である。
「総司さん。体はどうです」
「ええ、大分良いです」
沖田は体調が悪くとも、決して悪いとは言わない。そういう性分なのである。
お光は、沖田の体を見て少し目を見開いた。
(……また、ひどく痩せた)
布団の中の骨と皮になった手を取り、握った。
「きっと良くなります。薬もしっかり飲んでいるようだし」
昨日、沖田が虚労散を行李から取り出して、そのままにしていたのをお光が見つけてそう言った。
「そうでしょうとも。近藤先生たちの元へ助太刀せねばなりませんし」
沖田は微笑した。
──皮肉にも、この日、慶応4年4月25日に近藤勇は江戸板橋で斬首刑に処された。
沖田はそのことを知る由もなく、毎日のように近藤のことを気にかけていた。
しばらく談笑して、やがて沈黙が訪れた。
その口火をお光が先に切った。
「総司さん。私、ここへはもう来られません。庄内の方へ行かないといけないから」
お光は真っ直ぐ沖田の目を見ていった。
内心ざわついてはいるが、沖田の前では姉としての自覚がお光を冷静にさせた。
沖田は、やや間を置いて、
「……そうですか。いつなんです」
と言った。
沖田が病魔に倒れてからというもの、お光は頻繁に見舞いに来ていた。幼くして両親を亡くした沖田にとっては、姉が親代わりであった。だからこそ募る思いがある。
「もう明日には……。急な話で……」
お光が瞳に涙を浮かべる。
沖田とはこれが今生の別れになると意識した途端、お光は声を押し殺して泣いた。
姉のそんな姿を、沖田は枕の上でじっと見つめる。
「この病が癒れば、近藤先生と土方さんも連れて行きますよ。ああでも、あちらは寒そうだからなぁ。たくさん着こんで行かないとですかね」
沖田が冗談めかして言うと、お光の涙がぴたりと止んだ。
「ふふ、是非いらしてくださいね」
お光がやっと微笑わらった。
「ところで、なにか文でも出すのですか」
文机の上の紙を見て、お光が聞く。
「ああ。あれはですね、近藤先生に」
「あら、そうなの。きっと喜びますね」
沖田は送るかどうかさえも定かではないが、お光の前では出す、ということにしておいた。
二人は、お互い微笑ったまま別れた。最後に涙を流すのはこの姉弟には似合わない。
お光が帰ったあと、沖田は遠くを見つめた。天井より先のただ遠くを。
(これが最後)
お光の笑顔を沖田は反芻していた。
(もう二度と、会うことはない)
わかりきっていたことだが、やはりどこか胸が空く思いがした。
それから3日あまり経った。
沖田は、再び筆を持って、文机へ向かっていた。
(今日こそは、書く)
そう思うのだが、思いとは裏腹に、これも最後の文になると思うと、中々書けないものだった。
9歳の時、天然理心流道場・試衛館で内弟子になり、近藤周助(大先生)や近藤勇に可愛がってもらったこと。
19歳の時、浪士組結成のため道場仲間たちと上洛したこと。
そして始まる今では懐かしい日々──。
芹沢鴨の暗殺に始まり、池田屋騒動では功績が認められ「新撰組」と名を賜った。
山南敬助の介錯……。
(あれは身を切られる思いがするほどに、哀しかった)
散々、人を斬った。
仲間だったものも、斬った。
しかし──、近藤勇への忠義には誠でありたかった。
だから、斬った。それだけだ。
沖田は筆を置いた。
少しの間、放心していた。
(やはり、書けない)
書きたいこと、伝えたい思いがありすぎて書けないのである。
いや待てよ、と沖田は思案した。
(私が書こうとしているものは……遺書に近いものになりそうだ。それではまるで、この生に後悔しているみたいではないか)
沖田がそう実感した瞬間、紙をくしゃくしゃに丸めて投げ捨てた。
(やめだ。今更書いて何になる)
文机に沖田は突っ伏した。
そして、はははっと声を上げて笑う。
植木屋に来てからの自分が可笑しく思えた。
(きっと、私は寂しかったんだ。大勢に囲まれていたから、急に一人きりになって、ただ死を待つこの身が哀しくて……だから文を書いて気を紛らわしたかったんだな)
ひとしきり笑った後、ゆっくりと縁側へと移動した。
庭には、いつもの黒猫が、暖かな陽だまりの中であくびをしていた。
もう、猫を切ろうとは思わなかった。
あれが、死の使いの者だとしたら──
別にもう恐れはなかった。
そもそも、沖田はそこまで死に対して恐怖心はない。
ただ、寂しさなどは少なからずあった、ということである。
一月ほどが過ぎた。慶応4年5月30日。
縁側で沖田は倒れていた。
看取るものもなく、生き絶えていた。
その日は、いつか着た浅葱色の羽織のような色をした空が広がっていた。
それを沖田が最後に目にできたかはわからないが、ただ、微笑むような顔をしていたという。
書ききれぬ、思い フウト @Tohuwa
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