後編 その美しさを永遠に

「おかえりなさい。外、あつかった?」 

 家に帰ると、汗だくになった僕を紗が出迎えてくれる。

 室内にいるとはいえ、汗ひとつかかずに涼しい顔をしている彼女に、本当に同じ人間なのかと疑いたくなる。

「うん……ちょっとね。それより見て、蝶をたくさんとってきたよ」

「わぁ、すごい……いっぱいいるね」

 汗をぬぐって蝶を見せると、紗はぱっと目を輝かせた。

「わたし、この子たちが飛んでるところが見てみたいな」

 せっかく捕まえたのに逃がすのか、と残念に思うものの、紗の要望には抗えない。

 庭に放してやると、紗はうっとりした表情で手を差し伸べる。

「……きれい」

 木の落す影や、吹き抜ける風、流れていく雲。

 そんな何気ない光景を、彼女は宝物でも発見したかのように慈しむ。

 はしゃぐわけではなく、ただ黙って見惚れるのだ。

 嬉しそうなのにどこか切なげなその表情が、僕はとても好きだった。

「見せてくれてありがとう、ハルキお兄ちゃん」

「晴葵でいいよ。呼び捨てで」

「……ハルキ?」

 そう口にして、紗はふふ、と口元を隠して笑みを漏らす。

「なんだか、へんな感じだね」

 縁側に腰を落ち着かせ、紗は足をぶらつかせる。

 薄い水色の地に白い小さな花が雪のように散着物。覗く襟と柔らかい帯は桃色だ。

 そうした淡い色合いも似合っているが、初めて出逢ったときの黒と青の印象が強い。

 美しく気品あふれるあの姿は、脳裏にこびりついて離れなかった。

「そういえば。もう一つお土産があるんだ」

 僕はそう言って、背中に隠していた花を差し出した。

「お花だ。これ、もらっていいの?」

「もちろんだよ。紗のためにとってきたんだから」

「ありがとう。入れ物、どこにあるのかな」

「あ……」

 髪に挿した姿を見たかったのだが、紗はとたとたと花瓶を探しにいってしまう。

 ……まあ、飾った花を眺めている姿も絵になりそうだしな。

 蝶も花も、僕の意図とは違う形で受け取られてしまったけれど、紗が喜んでくれたなら、それでもいいかと思える。

 彼女の素直の反応を、僕の勝手で捻じ曲げるような真似は、したくなかった。


   ◇


 僕はプールや釣りの誘いも断わり、午前中は山に出かけ、午後は紗と共に過ごした。

 狭い田舎のことだから、そんな噂はすぐに広まってしまう。

 付き合いを悪くさせる少女の正体に興味が集まり、友人たちが家に押し寄せてきた。

「へぇ、ほんとに着物きてる」

「なんか、人形が動いてみたいだな」

 取り囲まれて好奇な視線にさらされた紗は、怯えて僕の背中に隠れた。

 頼られたのは嬉しいし、僕自身も彼女を見世物にしたくはない。

「紗。さっき咳をしてたし、ちょっと熱っぽくない? 部屋で休んだほうがいいよ」

「……うん、そうする」

 僕が促すと、紗はこくりとうなずいて奥の客間に向かう。

「なんだよ、妙に優しいじゃん。まさか本気で惚れてんじゃないだろうな」

「ばーか、相手の子、六歳だぞ。ロリコンじゃあるまいし」

 友人たちのからかいの言葉に、僕は何も答えなかった。

「だよねぇ。いくら何でも、それじ変態だもんね」

「……何だよ、奈津美。お前まで来たのか」

「何よ、来ちゃ悪いの?」

 僕の言葉に、奈津実はむっと顔をしかめた。

「悪いに決まってるだろ。他の標本まで壊されちゃ、たまらないからな」

「あれは……ちゃんと謝ったじゃない。わざとじゃないんだから、いつまでも根にもたなくたって……!」

「うるさいな。奥の部屋で休んでるやつがいるんだから、わめくなよ」

 ――まったく、面倒なことになった。

 僕は友人を居間に押し込んでから、紗のいる客間に布団を敷きに行く。

 そして彼女が暇にならないよう、何冊かの絵本を横に置いてやる。

「なるべく早く戻るから、おとなしくしてるんだよ」

「うん、だいじょうぶ」

 にっこりと微笑む紗に後ろ髪をひかれながらも、友人たちのところに戻った。

 本当なら連中を今すぐ追い返して彼女のところに戻りたかったが、下手な態度をとれば余計に好奇心を刺激して、面倒なことになるだけだ。

 ――それでも、頭の中は紗のことでいっぱいだった。

 友人の一人がトイレに立ち、戻ってくる頃には何か理由をつけて帰ってもらおうか、なんて思っていたときだった。

 きゃっ、と小さな悲鳴が聞こえ、僕は慌てて部屋を飛び出した。

 紗の部屋に駆けつけると、彼女は蒲団に入ったまま、縮こまっていた。

 そこに、トイレに行ったはずの友人がいた。

「悪い。脅かすつもりはなかったんだ。ちょっとどんな子なのかと思って……」

 言いかける相手を、気がついたら殴りつけていた。

 遠くで紗の悲鳴が遠くで聞こえる。それでも止まることなく、僕はそいつを殴り続ける。

 ――宝物に、無断で触れられた気がした。

 壊れてしまったルリタテハが、頭の中をぐるぐるとまわる。

駆けつけた友人連中に取り押さえられる頃には相手はぐったりとして、悪態をつく気力も残っていなかった。


   ◇


 僕は両親にこっぴどく叱られ、友人たちからは白い目で見られるはめになった。

「ハルキ、いたい?」

 むちゃくちゃに殴りつけたため傷を負った手に触れて、心配そうに尋ねてくる。

 幸いなことに、紗は僕に対して怯えたり、嫌悪の目を向けずにいてくれるらしい。

 暮れかけた夕陽が部屋の中に赤い光を投げ込んでいる。

 蝉の声はいつしか、ひぐらしの鳴き声に変わっていた。

「うん。でも、紗がキスしてくれたら治るよ」

 冗談半分に答えると、彼女は少し首を傾げてから、そっと、傷口に唇をつける。

 僕は柔らかな唇の感触に、息を呑む。

 深い意味はない。前にガラスケースにしたのと同じだ。

 わかっていても、何か悪いことをしているような後ろめたさがあった。

「……なおらないね」

 残念そうにつぶやく紗は愛らしかった。

 膝をついて、紗の顔を覗き込み、黒い髪をそっと撫でる。絹糸のようなすべすべした感触が心地いい。

「ありがとう。紗のおかげでもう、痛くなくなった」

「ほんと? よかった」

 紗は無邪気な笑顔で、僕に抱きついてくる。

 少し迷ったものの、僕も彼女をそっと、包むように抱きしめ返した。

 ――汚れのない、僕の宝物。彼女さえいてくれれば、何も怖くない。

 そう思ったとき、窓のほうから物音が聞こえた。

 驚いて目を向けると、そこには見慣れた人物の姿があった。

「奈津美!」

 背を向けて走り出す奈津美の後を、僕は窓から飛び降り、追いかけた。

 裸足なので、砂利が突き刺さるが、構ってはいられない。

 赤かった空が見る間に藍色に変化してゆき、辺りは闇に包まれていく。

「待てよ、奈津美!」

 ようやくのことで追いついて腕をつかむと、勢いよく振り払われた。

「信じられない……あんた、おかしいわよ! どうかしてる。六歳の子供相手に、あんなことして……っ」

 吐き捨てられた言葉に、怒りは覚えず、傷つくこともなかった。

 ただ妙に冷めた気持ちで思う。

 ――わからないんだ、奈津美には。

 蝶の美しさも、半永久的に保存していたい願いも。誰にも触れさせたくないという想いさえも。

「おかしくなんかない。僕は、紗が好きだ。傍において、大事にしたいだけなんだ。ただ純粋に……」

「何言ってんのよ! 何もわからない小さな子を変な真似しておいて、正当化しないで。私、おばさんに言うからね。それで、あの子をよそにやってもらう。そうでないと……っ」

 ――ああ、うるさい。耐えきれず、僕は耳をふさいだ。

 いつもそうだ。奈津美は人の宝物を壊しておいて、平然と文句ばかり並べるんだ。

 ようやく見つけた、ようやく出逢えた奇跡のような少女でさえ。僕から奪い取ろうとしてくる。

 ――冗談じゃない。紗と離れ離れになるなんて……そんなこと、耐えられるはずがない。


   ◇


 家に帰ると、自分の部屋をメチャクチャに荒らした。

 大事にしていた標本のケースさえ投げつけて、壊してしまった。

 ――こんなもの、もうどうだっていい。

 欲しいものは一つだ。僕は、紗さえいればそれでいいんだ。

「つ……っ」

 割れたガラスに触れ、指先から血が流れる。

 それを目にして、紗を想った。

 本当に、彼女のキスで傷が治るなら。いや、そうでなければ治らないのなら。彼女の傍にいるために、僕は何度だって怪我をしてみせるのに。

 そんなことを考えながら、部屋の隅にへたり込む。

 電気もつけていない真っ暗な部屋で、浮かぶのは色鮮やかな彼女の幻影ばかりだった。

 ――いっそ蝶のように標本にして、ガラスケースに閉じ込めてしまえたらいいのに。

 飽きることなく眺め続け、他の人間の目には触れないように、隠してしまいたい。

 とりとめのない考えが、頭の中を支配していく。

「……ハルキ?」

 一瞬、幻聴かと思った。

 だけど僕の部屋のドアが開けられ、差し込む光の中に、小さな少女の影がハッキリと映る。

「ハルキ、どうかしたの?」

「あ……待って。今そっちに行くから……」

 部屋に足を踏み入れると紗が怪我をすると思って電気をつけたが、失敗だった。

 紗は部屋の惨状を目にして、息を呑む。

 ――怖がらせてしまっただろうか、嫌われてしまっただろうか。

 紗にそんな目を向けられてしまうくらいなら、いっそ――。

「ハルキ、ケガしてる」

 近くにあったガラスを手にしたとき、紗は驚いて駆け寄ってくる。

 僕も慌てて紗に駆け寄り、両手を伸ばして抱き上げた。

「危ないよ。ガラスの破片が散らかってるから」

「……ごめんなさい」

 きょとんとした顔で謝ってくる紗に、胸がいっぱいになる。

 よかった。まだ、嫌われていない。怖がられてもいない。

 僕の紗は、僕を否定なんてせずに、ここにいる――。

「ハルキ、いたいよ……」

 抱き締める腕に力が入りすぎたらしく、紗は苦しげな声をあげた。

 彼女の身体は小さすぎて、加減するのは難しい。

 ――紗を傷つけたくない。

 芸術的な美しさを損ないたくないだけではなく、悲しむ顔を見たくはなかった。

「……好きだよ」

 僕は腕を緩めてぽつりと呟いた。

「紗は、僕のこと好き?」

「うん」

 彼女は当たり前のように答える。

 多分、意味はわかっていないだろうけど……少しだけ、救われた気がした。

「――ハルキは、チョウみたいね」

 突然、彼女は不思議なことを口にした。

「僕が?」

「うん。ヒラヒラと、自由に空を飛びまわるの。それを見ていると、すごくうれしいのよ。わたしにはできないから、うらやましいの」

 ――ずっと、蝶は紗のほうだと思っていた。

 美しい翅を持った、魅惑的な生き物。

 ――だけどもし、僕が蝶なのだとしたら。彼女は甘い芳香で僕を惹きつける、花だったのだ。

 僕が紗に贈った花は、花瓶に活けても、たった数日でしおれてしまった。

 蝶ならば、標本にしてその姿を保つことはできるけれど、花の美しさを損なわずに保つ方法なんて知らない。ドライフラワーは、花のミイラでしかない。

 花は、咲き誇るそのときこそが美しい。

 もし傷をつけず、苦しめることなく標本する手段があるならやっていただろう。

 だけど無邪気に笑う紗の姿を永遠にとどめておく方法なんて、ありはしない。

 ならばいっそ、僕が死んで紗の記憶だけを永遠にしようかとも思ったのに、彼女を前にすると、まだ見つめていたい、終わらせたくはないと足掻いてしまう。

 たとえこの先、彼女が成長して、全てが変わっていくことになるとしても――手折ることは、もうできない。

 その花を美しく思えば思うほどに――僕はただ、周囲を飛びまわるしかできなくなるのだ。

 


                                    終

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胡蝶幻想《こちょうげんそう》 青谷 圭 @aoyanosuke

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