胡蝶幻想《こちょうげんそう》

青谷 圭

前編 奥にしまった宝物

 僕の宝物は、父さんが買ってくれた蝶の標本だ。

 部屋に飾っていたけど、一度他のやつに壊されてからは、引き出しの奥にしまって鍵をかけることにした。

 もう二度と、壊されたりしないように。

 誰の目にも、触れることのないように――。


   ◇◇◇


 蝉が競うように合唱する中、僕は虫かごと虫取り網を手に、立ち尽くした。

 じりじりと照りつける日が、木の陰を濃く地面に描き出している。

 麦わら帽子の下から流れ落ちる汗が、肩口を濡らしてゆく。

「ちょっと晴葵(はるき)、突っ立ってないで、挨拶くらいしたらどうなの」  

 家の中から、母に声をかけられる。

 それでも僕は、玄関先に立つ少女から目を離すことができなかった。

 青と白の花が咲き誇る黒地の着物に、金魚のヒレのようにふわふわした黄色の帯。

 下駄は黒で鼻緒は水色。手にした巾着も黒と水色に白い絵柄が入ったものだ。

 漆黒の髪の毛をまとめる簪(かんざし)には、青い花がぶら下がっていた。黒と青の二色の中、黄色の帯と、雪のように真っ白な肌が強く目を惹く。

 母は、無言で突っ立ったままの僕にしびれを切らせたらしい。

「紗(すず)ちゃんよ。今日からこの家で暮らすんだから、仲良くしてあげてね」

 つっかけで外に出てきた母が、間を取り持つように紹介してくれる。

 名前は知ってる。来ることも、聞いていたはずだった。だけど実際に逢ってその名を耳にすると、胸の奥が痺れるような感覚になる。

「……こんにちは」

 頭を下げたついでに、背の低い彼女の顔をちらりと覗きみる。

 柔らかそうな頬に影を落とす長い睫毛に、大きな黒い瞳。

 形のいい鼻に小さくて厚みのある、さくらんぼ色の唇。

 人形のように整ったその顔には、幼いながらも凛とした印象があった。

 ――今まで、小さい子供なんてうるさくて汚くて、嫌いだと思っていたけど。

 彼女の細い手足も低い背丈も、全てが完成された芸術品のようだった。

 表情も仕草も落ち着いていて、どこか神秘的な雰囲気を感じる。

「こんにちは」

 僕を軽く見上げて、彼女は答えた。

 鈴の音のような幼い少女の声で。大人びた品のある口ぶりで。

 十五歳の夏。生まれて初めて見惚れた彼女は、まだ六歳の女の子だった。


   ◇

 

 紗は父の従妹の娘で、僕にとっては『はとこ』に当たる。

 彼女は四年前に両親を事故で亡くし、有名な染織家の祖父に引き取られた。

 年に似合わぬ見事な着物も、祖父が染めた布で仕立てたものらしい。

 近くに同じ年ごろの子はおらず、病弱で寝込みがちな紗の話し相手は祖父一人。

 だからどこか浮世離れしているだろうと、両親が話していた。

 紗の祖父――父の叔父が倒れて入院し、この家で預かる流れになったそうだ。

 最初は、なんでうちなんだ、子供の相手なんか面倒だ、と思っていたけど……。

「あら、寝巻きまで浴衣なのね。着付けって、どうしたらいいのかしら」

「だいじょうぶ……私、一人でできます」

 母の声に続いて、細く柔らかな声が答えるのが聞こえた。

 板張りの廊下に顔を覗かせると、スリッパで歩いていく母の後ろに、裸足の紗がしずしずと従う。

 紗は、祖父に厳しくしつけられたのか、着物姿の所作も食事の仕方も丁寧で、六歳とは思えないほど様になっていた。

 慌ただしく雑然とした生活感がないというか、流れている時間が違うみたいに、ゆったりしている。

 食事のときも他の家族が食べ終えてからも、彼女はまだ半分も食べていなかった。

 それでも焦ることはなく、一口一口、ゆっくりと口に運んでいく。

 ただ腹を満たすだけではなく、味わう時間を楽しむ姿は、思わず見惚れるほどの美しさがあった。

「――紗のおじいさんの家って、古かったの?」

 脱衣所に入っていくところまで見送ってから、扇風機の前で寝転ぶ父に尋ねた。 

「それはもう。まさに日本家屋って感じの木造で、玄関も土間だったからな。風呂は五右衛門風呂、便所ももちろん、ボットン式だ」

「……うちの家も、そうだったらよかったのに」

「古い家で暮らすってのは、大変なんだぞ。隙間風はひどいし、便所は臭いし。風呂だって火の番をしなくちゃいけない。薪割りをしたり、火を起こしたりと面倒なことがたくさんあるんだからな」

 扇風機だけでは足りず、うちわでバタバタあおぎながら、父が呆れた声をあげる。

 僕だって別に、そんな暮らしをしたいわけじゃない。

 だけど、便所はとにかく、彼女には古い時代のもののほうが似合う気がした。

 彼女をつくりあげたのが、そうした環境なのだとしたら、できるだけ変えたくないし、変わってほしくもない。

 どこにでもいるような、ただの子供になんてならないでほしかった。


   ◇


 いつもは家にいる間はできるだけ、自室で宝物の蝶の標本を眺めて過ごすことが多いけど、今日はそんな気は起きなかった。

「部屋に僕の宝物があるんだ。見せてあげるよ」

 お風呂あがりの紗を誘うと、彼女はうなずき、ぺたぺたと後をついてきた。

 ほんのりと湿った髪の毛を垂らし、藍色の浴衣には白いラインでふち取られた青やピンクの蝶が舞っていた。

 机の引き出しの鍵を開け、誰の目にも触れさせないと誓った宝物を取り出す。

「わぁ……きれい」

 大きな瞳を輝かせ、感嘆の声をあげる。

 標本用のガラスケースに入った、大きな翅を広げたアドニスモルフォだ。光沢のあるブルーの翅が、キラキラと輝いている。

 紗の目の前に持っていくと、紅葉のような手で、なぞるようにケースに触れる。

「これ、動かないの?」

「動かないよ」

「どうして?」

 紗は無邪気に首を傾げて、僕の顔を覗き込んでくる。

 もう死んでいると伝えれば、彼女を悲しませてしまうだろうか。

 迷った末に、嘘でごまかすことにした。

「……眠ってるんだ。お姫様のキスがないと、目を覚ますことができないんだよ」

 紗は目を丸くして、じっとガラスケースを眺める。

「わたしじゃ、ダメかなぁ」

 そういって、ガラスケースにそっと唇をつける。

 真剣なその姿は、まるで絵画のように美しく見えた。

「他にはいないの? もっと見てみたいな」

「自分でつくったやつは、いくつかあるけど……僕が持ってる中で一番きれいなのはこの子かな」

「そうなんだ……きれいじゃなくてもいいから、生きてるチョウも見てみたいなぁ。あまりお外に行けないから、本物って見たことないの」

 ――紗が見たいなら、いくらでも見せてあげたい。

 彼女のような子供は中々いないだろうけど、彼女みたいな大人だっていやしない。

 絶滅危惧種か、知られざる新種か。どちらにしても、とてつもなく貴重な存在なのだ。

 ――惹かれてしまうのは、無理もない。

 僕は世界一とも謳われるモルフォ蝶よりもルリタテハのほうが好きだった。  

 濃い黒褐色に鮮やかな青のラインが入り、白い斑点が見られるあの美しい翅。

 不思議な凹凸を持つ神秘的な形。

 壊れてしまった、僕の一番大切にしていた宝物。

 だけど、それよりも美しい蝶を、僕は見つけることができたのだ。


   ◇ 


 次の日の朝。一人で山にいって蝶を探した。

 夏休みの日課だ。

 本当なら、今日くらい家で紗の傍にいたい気もするが――昨夜の紗の願いを叶えることで、また愛らしい笑顔を見せてくれるかもしれないと、はりきっていた。

「晴葵。また蝶を捕まえにいってたの? 高校生にもなって、子供みたいなことしてるのね」

 土の地面からビーチサンダルが溶けそうなアスファルトに踏み込んだ途端、幼なじみの奈津美が声をかけてきた。

 日に焼けた小麦色の肌に、短く整えられた明るい茶髪。

 派手な色のTシャツに、デニムのショートパンツで、ヒールの高いサンダルを履いている。

 籠みたいなバックを振り回すようにしながら、僕のところに駆け寄ってきた。

「へぇ。今日は大量じゃない。いつもこれはダメ、あれは違う、って。結局ほとんど逃がしちゃうくせに」

「いいんだよ。これは別に、標本にするわけじゃないから」

 僕は自分でも蝶の標本をつくっているが、やるのは捕まえた記念でもなければ、種類を増やすためでもない。

 目を見張るほどに美しいその姿を、半永久的にとどめておきたいからだ。

 だから蝶は厳選するし、標本にする途中で触覚が折れでもしたら、修復は諦め、捨ててしまうくらいだ。

「じゃあ、どうするの?」

 どこかに出かけるわけではなかったか、奈津美は家に帰る僕の後をついてくる。

 この辺りは住宅街とはいっても、都会の高層マンションなんかとは程遠い。

 一軒家や二階建てのアパートがほとんどで、田んぼに囲まれたのどかな光景が広がっている。

 歩いていると異臭の漂うドブ川では自転車が逆さに立っているのが見えた、のら犬はチラシやシールの跡がこびりついた電柱に小便をひっかけている。

 隣にいるのが紗でなくてよかったと、今だけ思った。

 紗にはこんな景色は似合わないし、できれば目にしてほしくはない。

「ちょっと、無視しないでよ」

 答えずに歩いていく僕の袖を、奈津美はぐっと引っ張り、答えを促す。

 僕はそれを振り払い、仕方なく答えてやることにした。

「――生きた蝶が見たい、って言ってたから」

「見たいって、誰が? そういえばあんたのところに、小さい女の子が来てるって聞いたけど……もしかして、その子のため? 嘘でしょ、だってあんた、子供なんて嫌いじゃなかった?」

 ――彼女は特別なんだよ。

 そう思ったけど、口には出さずにおいた。

 口数が多くてお節介な奈津美が、僕は苦手だった。宝物のルリタテハを台無しにしたのは何を隠そう、こいつなのだ。

 その上、虫の屍骸を飾るなんて悪趣味だの根暗だのと、散々なことを言われた恨みは、今でも忘れていない。

 せっかくのいい気分をぶち壊しにするように、文句をつけてくるのだ。

「――その花も、その子にあげるつもり?」

 手に握りしめた花を目にして、奈津美は更に尋ねてきた。

「そうだよ」

 真っ白な花をあの髪に飾ればどんなに綺麗だろう。

 いや、赤でも青でも黄色でもいい。彼女ならばきっと、どんな花でも似合うはずだ。

「変なの。会ったばかりなのに、なんでそこまでするの?」

「うるさいな、別にいいだろ」

 僕はむっとして、奈津実から逃れるように足を速めた。

 これだから嫌なんだ。何かというとケチをつけてきて、うっとうしいったらない。

 口出しするな、邪魔をするな。

 頼むから、僕の大切なものを、土足で踏み荒らそうとしないでくれ。

 逃げるように駆けだしながら、心の底からそう願った。





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