ヒジリ編
「オニイサン」
「ああああぁぁぁぁぁああああ!もうッうるさいうるさいうるさいうるさい!」
冬の始まりは白くて、丸く冷たい牡丹雪になって地元の空を覆い尽くしていた。
白と灰色が蠢く水玉模様になった朝の空は非常に気味が悪くて、おれの不機嫌を加速させる。
窓越しに見えたナンテンは乾いた幹の片方にだけ白く湿った雪をつけて、真っ赤な実はたっぷり積もらせた雪を落としそうになりながら風に吹かれて震えていた。
鮮やかなナンテンを背にしながら、病院の一階にある個室の窓に座るおれの婚約者。
違う、婚約者の、幻覚だ、本人じゃない。
おれの婚約者と瓜二つの外見をした天使のような幻覚はヒジリと名乗った。
派手なツートーンの髪をツーサイドアップにまとめて、まろ眉のおっとりとした顔つきは婚約者の姿そのものだ。
違いは、頭上に輝く金色の輪と背中から生える同色の羽と同心円状の双眸であり、彼女が人ならざるものである証明に他ならないだろう。
おれがこの病室に入院してからというものの、ヒジリは常に視界のどこかにいて、じっと座り込んで微笑んでいる。
「幻覚じゃないですよ。ワタクシは天使です」
「嘘だ。あなたはおれが作った幻覚なんだ」
「偽りじゃないです。何ならアナタが知りえないこともワタクシは知っていますよ」
「うるさい……」
幻覚のくせに、おれが何も知らないと思い込んでる婚約者の真似をするなんて憎たらしい。
本当にもう嫌になるくらいそっくりだ、おれに。
「彼女はそんなこと言わない」
「そうでしょうね」
「ああ、彼女は救いようのない馬鹿だから、おれが絵を描くのを辞めたのは自分が嘘をついたせいだとか思ってるんだよ」
「……地上の世界に救いなんてないですが、ワタクシはアナタを助けたいのです。我が父の敬虔な信者であった彼女の最期の願いでもあります」
彼女の何が一番嫌いかって、優れた才能があるにも関わらず、自ら制限をつけてそれを発揮しようともしない。
好きなことをしてるだけで疎まれる事実に傷ついているにも関わらず、一人で傷つくことが罪滅ぼしになると思っている。
彼女はひどく傲慢で、他人の能力を信じていないから背負った重荷を分け合おうともしない。
絵画コンクールの結果を隠すことで、おれの作家としての価値を守った気になっている。
「オニイサン。暇でしょう」
「うるせえな。ちょっと静かにしてろよ」
「入院生活なんて二度としたくないでしょう。もう死にたがるのなんて辞めてしまいなさい。人間の都合なんかで我が父の定めた寿命は書き変わらない。そう簡単に死ねないってそろそろ分かったでしょう」
「うるさい。おれは悪くない」
「いいえ、アナタのせいです」
「黙れよ!彼女はそういうことは言わねえんだよ!」
とっさに投げつけた備え付けの枕は、当たり前のようにヒジリの身体をすり抜けて窓にぶつかって床にぽとりと落ちた。
「物に当たるのは良くないですよ。彼女もアナタによく話していたでしょう」
「……うるさい」
ああ、騒がしい幻覚だ、本当に幻覚なんだろう。
うるさくて敵わない、下手したら本物よりうるさい。
当たり前か、ヒジリはおれの願望が作り出した妄想なんだから。
大きく息を吸って、吐いた。
空気と一緒におれの中からヒジリの存在も出て行ってしまえばいいと思う。
ああ、本当に、一思いに、おれを殺してやりたい。
でも無理だ、おれはまだ死ねないのだろう。
「彼女は嬉しいと思いますよ」
「うるせえ、黙れよ」
「オニイサンが生きてくれたらそれだけで」
「おれは彼女が死んでくれて嬉しいね」
「彼女はまだ死んでないですよ」
「はは、嘘だな」
「嘘じゃないですって」
「おれの中で生きてるとか抜かしやがったらぶっ殺してやるからな」
「だって本当のことじゃないですか。そうでもなければ、信仰心の欠けらも無いアナタの前にワタクシが現れることはないですよ」
びゅうびゅうと北風が吹く度に病室の窓が揺れて、牡丹雪が舞い落ちる。
目の前の病院の庭を通ったおれと同い年くらいのサラリーマンは分厚いコートを着込んで、今にも凍りそうな新聞紙を脇に抱えて歩いていた。
「ちゃんと分かっているってば、ヒジリは彼女から臓器を移植されて呑気に生き延びてしまったおれの罪悪感が作り出した幻覚なんだろ。分かってる。でもなんで死んだりしたんだよ、クソ……おれなんかより彼女の方がずっと才能がある、生きる価値がある、人々から必要とされるべき、守られて愛されるべき存在なのに」
「……今更の話になりますが、アナタはアナタが思うよりずっと彼女に必要とされていたんですよ」
彼女が居ないと気づいたから、おれは死のうと思った。
罪悪感に駆られた善人として死にたいわけでも、婚約者への誠実さとして死にたいわけでもない。
ただ、彼女の内臓を譲り受ける形で生き残った自分という存在が酷く汚らわしくておぞましいものに感じられて、これから先の人生をこの肉体と連れ添って生きていかなくてはならないとを考えたら、急に恐ろしくなった。
自分の才能は見殺しにしたくせに、おれのことは助けるところが許せない。
恋愛なんていう自己満足におれを付き合わせるところが大嫌いだ。
そして何より、おれの憧れであった才能を殺した彼女との婚約を受け入れてしまったおれ自身が許せない。
おれと共にいる為に才能を殺した彼女に対して、自分だけを見て欲しいと願い、あまつさえセックスをしたいとまで思ってしまった。
「元気ですか。体調は大丈夫ですか」
「いきなりなんだよ……」
「アナタを救うことはできませんが、ワタクシは傍に居たいと思っています」
「あっそ」
ヒジリは目を細めて、窓から降りるとおれの近くまで歩いてきて、床にしゃがみ込んだ。
おれの顔を下から覗き込むようにすると、ヒジリの瞳には銃で撃たれたような顔をした男が反射する。
奥歯で噛み砕いて飲み込んだ呪詛は、他ならぬおれの肉体によって消化されて、もう心のどこにも見当たらない。
それに気づいた時、おれはやっと涙を流した。
勝手に死んでいった馬鹿で嘘つきな婚約者のことは嫌いだったけど、おれの一部として生きている婚約者になら、アイラブユーと言ってもいいかもしれない。
人間は必ず死んでしまうのだから、おれもいずれ死ぬだろう。
おれの最期の言葉はなんだろうか、分からない。
「本当に、彼女はアナタを愛していたのでしょうね」
愛してる、なんて遺言は迷惑だなと、つくづく思った。
▼ E N D
キミの泥梨は博愛に欠くか ハビィ(ハンネ変えた。) @okitasan
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