闇に潜む女

大窟凱人

闇に潜む女

 このオフィスには幽霊がいる。



 加藤友介には昔から霊感があり、この世ならざるものが見えた。はじめてそれがわかったのは、小学3年生の頃。なんとなしに友達に首のない女が見えるという話をしたところドン引きされ、危うくいじめられてしまうところだった。それ以来、幽霊が見えるということはひた隠しに生きてきたが、22歳になった今現在まで、特に問題という問題はなかった。


 ひとつだけ注意点があるとすれば、それは、幽霊と目を合わせないことだ。

 彼らの大半はこの世に恨みや後悔を残して死んでいて、もし見えていることが向こうにバレれば、助けを求めてくる。小学6年生の時、興味本位で目を合わせてしまったために数週間追い回されたことがあり、それだけは大変だった。幽霊のお悩み相談なんてごめんだ。と友介は常々思っていた。


 だが、大学を卒業し、新卒で入った会社の初出勤日。彼は大失敗を犯した。

 自分の配属された部署で新入社員の挨拶を順調に終えたあと、上司の付き添いの元他の部署へあいさつ回りに行った時のことである。


 いくつかの部署を回った後、急にトイレに行きたくなった。

 用を済ませ、手を洗って上司の元に戻る。その途中、友介は声を掛けられた。

 

「あら、あなた新入社員の子?」


 見ると、若い女性社員がいた。年齢は友介よりも少し高い、20代後半といったところだろうか。綺麗な人だった。


「はい。今日からお世話になります」


「やっぱり! そう思ったの。初々しいわね。これからよろしくね」


「こちらこそよろしくお願いします」


「おい、誰と話してんだ?」


 背後から、上司の声が聞こえた。


「え……この方とですけど……」


「誰もいねえぞ。ははーん。まさかお前、緊張してんな。そんで思わず独り言ってか。しっかりしてそうに見えて、意外とそういうとこもあるんだな」


 しまった。

 もう一度振り返ると、その女性社員の姿は消えていた。

 友介は、女性社員の霊による霊感テストに合格してしまったのだ。


 翌日から、毎日のようにその女性社員の幽霊が現われるようになった。

 声を掛けてきたのは最初だけで、幽霊と分かってからはただひたすら、友介の行く先々にやってきて無言で立ち尽くし、何かを訴えるようにこちらを見ていた。


「先輩、聞いていいですか?」


「なんだ?」


「あの……この会社、なんかいわくつきな話とかってあります?」


「いわくつき? どういう意味だ?」


「つまりその、誰かが自殺したとか、殺人事件があったとか……」


「なるほどな。なんだ。ネットでそんな噂でも見つけたか?」


「いえ、そんなんじゃないんですけど……なんか気になって」


「……あるぞ」


「え」


「6年くらい前かな。課長のパワハラとセクハラに耐え兼ねて、女の社員が1人自殺したんだよ」


「そんな話、聞いたことないですけど」


「課長が遺族に大金はらって示談に持ち込んだから、ニュースにはならなかったんだよ。会社も上手い事立ち回って、なんとか大事にならずに済んだ。今ならもっと大騒ぎだろうけど、一昔前だからな」


 あの女の霊の正体はこれか。

 ふと、女性社員の霊の方を見る。彼女は変わらず、無言で友介を見つめていた。よく見るとクビの周りに紫に変色したひも状の跡があった。死因は、首吊り自殺なんだろうな。


 そんなに憎い相手ならなんで自分で復讐しないんだ? と、友介は子供の頃から疑問だったが、ある程度年齢を重ねるとわかってきた。それは、ほとんどの幽霊にとって、復讐相手に霊感がないかぎり、どんな心霊現象を起こしたところでほとんどが無視されてしまうからだ。


 パワハラをするような横暴な男ならなおさら効き目は薄いだろう。彼らは野生動物のように生きる力に満ち満ちている。だから、霊感のある俺みたいな奴に付き纏ってくるんだ。中には物を動かしたり、相手を呪い殺せるくらい強い力を持った幽霊もいるらしいけど、それは稀なんだろうな。映画とか小説ではよく出てくる。でも、少なくとも俺は見たことがない。


 ま、俺にはどうすることもできないよ。やっとの思いで、そこそこの大企業に入社することができたんだ。ここに入るために何十社も落ちてきた。俺はこの会社で出世していきたいんだ。見ず知らずのあんたのために問題なんか起こせない。あんたを自殺に追い込んだ課長がどんな奴でも、しがみつくつもりだぜ。悪いけど、早いとこ諦めて成仏してくれ。

 

 友介は、これまで通り女性社員の霊のことを徹底的に無視することに決め、仕事に戻った。




 それから1年の月日が流れた。

 この会社の慣例で、最初のうちはいくつもの部署を1年置きにまわされる。そして残念なことに、友介は女性社員の霊を自殺に追いやった課長のいる部署に異動になってしまった。


 課長は自殺の事件があったあと、わずかな期間で復職。現在も課長の職に居座っていた。


 噂通り横暴な人間で、些細なミスがあれば怒鳴り散らし、何時間でも説教するような時代錯誤の人間だった。

 それに、彼は社長と一緒に会社を立ち上げた創業時に入ったメンバーの1人なので会社の幹部からはずいぶんと気に入られている。そのため、彼に文句を言える人間は少ない。


 友介もさっそく目をつけられてしまい、課長の洗礼を浴びる羽目になった。

 

 新入社員、そして新しい部署である以上、最初は不慣れな仕事をミスしながら覚えていくしかない。だが、課長は常に他人に厳しい姿勢をとっており、完璧を求める。そのくせ、ミスが起きないような体制づくりやフォローアップはおざなりだった。「仕事舐めんな!」が口癖で、当然、部署内の連携はギクシャクし、まだ仕事が不慣れな友介は 毎日のように説教され、小突かれ、怒鳴られる。挙句の果てには、上司のミスまでもが彼のせいということになり、部署内の安定を図るための生贄と化してしまっていた。


 きっと課長の脳内ではドーパミンが大量に出ているんだろう。そのせいで怒るのがクセになってやめられないでいるんだ。


 友介はそう思った。新人で無能な自分自身を守るのに必死だった。それと比例して、彼の仕事のパフォーマンスはどんどん低下していった。


 トイレに行き、顔を洗う。顔を上げて鏡を見ると、やつれた自分の顔が映りはっとする。

 これじゃいけない。また課長に怒られる。もっとシャキッっとしなくては。

 友介は鏡に向かって無理やり笑顔を作った。引きつった口角が、プルプルと小刻み震えている。


 トイレの外に出ると、窓際に女性社員の霊が立っていた。彼女は相も変わらず、ただ黙って友介を見つめていた。


 ……お前も、こんな気持ちだったのかよ。


 友介は、生まれて初めて幽霊に共感していた。





 さらに月日が流れた。

 友介のはつらつとした笑顔は消え、声は小さくなり、あんなに大きかった希望はすっかりしぼんでしまった。


 課長からの罵声や叱咤は一向に止むことはなかった。家に帰れば吐き、いつも「死にたい」と思うようになっていた。残業時間も仕事のミスも日増しに増えていく。おまけに相談できる人もいなかった。


 彼は今まで、学校でもバイトでもそこそこの評価を得てきた。親からの期待もあり、自分のことを要領の良い人間だと信じていた。そんな彼の心はぽっきりと折れ、今や見る影もない。


 友介は、会社を辞めたいとさえ思うようになっていた。だが、辞めたところで次が上手くかなんてわからない。誰も責任なんてとってくれやしない。そうやすやすと新卒カードを捨てるわけにはいかないし、入社時に立てた自分との誓いが邪魔をする。しかも、パワハラ現場を録音して訴えるなんて度胸も、訴えて上手く事を運ぶ自信や知識も、金も、友介にはなかった。そもそも、仕事ができないという罪悪感に苛まされすぎて、そんな発想すら生まれてこなかった。仕事自体は好きだというのもあった。周囲には恵まれていなかったが、夢見た業種だった。まだ、自分も成長できるかもしれないという微かに残された希望も、今の友介にとっては毒だった。


 友介は、徐々に精神を病んでいった。




「殺せ」

 

 ある日、トイレに行くとあの女性幽霊に後ろから話しかけられた。

 

「殺せ。殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ」


「うるさい!」


 振り返りながら友介が言った。近くにいた他の社員たちが、ビクっと驚いていた。

 友介はすみませんと一言謝ってから自分の席に戻ると、仕事に戻った。


「おい加藤、大丈夫か? すげえ顔してるぞ」


「そうですか? はは。平気ですよ」


「ならいいんだけどよ。無理するなよ」


「はい」


 先輩は心配しているそぶりをみせた。しかし、彼はいつも理不尽な扱いをされている友介に、何の助け舟を出さないどころか、見て見ぬふりをしている。

 無理をするな? どの口で言ってんだよ。


「加藤ー! ちょっと来い!」


 課長の怒声が飛んできた。友介の心臓は高鳴り、冷や汗が出る。それはパブロフの犬のような、度重なる叱咤による条件反射だった。課長の声を聞いただけで、彼はこうなってしまうような、そんな体になってしまった。もう、友介には自分を憐れむ余裕すらなかった。


 課長の席の前に立つ。課長はじろりと友介を睨んだ。


「お前、舐めてんのか? なんだこの雑な資料は。これで顧客のこと考えられてるって言えるのか? え? これで何度目だ? やる気がないなら辞めちまえよ。学生気分なのもいい加減にしろ!!」


 心無い言葉が、友介の脳をつんざく。


「俺が若い頃はな、こんなこと何回もやってたらクビだぞクビ」


 課長席の上に、ペン立てが置いてあるのが目に入った。ボールペンだ。銀色に光る、尖ったペン先。


「なんだ急に黙りやがって。文句でもあんのか? 言ってもらえるうちが花だぞ?」


 殺せ。


 女性社員の霊が、耳元で囁く。

 ぐにゃりと、目の前の景色が歪む。課長の顏も歪む。聞こえてくる声も歪む。何もかも歪む。

 うっ……く……。


「こら。なんか言ったらどうだ? この資料、いつまでに作り直してくるんだ? 徹夜してでもやれよ」


 殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ

 殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ

 友介の意識は、そこで途絶えた。




 気が付くと、叫び声が飛び交う喧騒の中にいた。何人もの社員たちが、慌ただしく動き回っていた。


 うるさいな。ここ、会社だぞ? 大事件か?


 しかし、社員たちは、一斉に友介の方を向いていた。


 な、なんだ? 俺が何かしたのか? 訳がわからん。


 ヌル。


 その時、自分の手にぬめっとした感触が伝わってきた。


 手を目の前に持ってくると、ペンを握ったまま、真っ赤な血で染まっていた。


「ひっ」


 思わず悲鳴をあげ、立ち上がるが、なにか水たまりのようなものにすべって転んでしまった。


 ゆっくりと、景色が戻ってきた。


 友介の視線の先には、男が倒れている。課長だ。その周囲には深紅の花びらのような血だまりが出来ていた。


 そうか。俺は……。


 友介はすべてを悟った。課長の首をペンでめった刺しにして殺したこと。今この時点をもって、まともな人生を失ってしまったこと。そしてそれは、あの女性社員の幽霊に憑りつかれて行われたということ。


 だが、どういうわけか友介の心は晴れやかだった。

 一向に収まらない喧騒の中でただひとり、友介だけが笑っていた。

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