亡骸の夢 三

 美しい色を持っている、と。そう言ってもらえて、どんなに嬉しかったか。お坊様も遼水とおみも分からないだろう。

 最後の読経を唱え、琵琶をかき鳴らす僧侶を見つめながら。沙楽さら悪戯いたずらが成功した時のような、密かな満足を得ていた。一人ぼっちになってから、良いことは何もなかったけれど、好きだった色への褒め言葉という宝物を手に入れた。


「遼水さん、あのね。わたし、髪と目の色を褒めてもらって、とっても嬉しかったの」

「そうか」


 返ってきた遼水の声は眠たげだった。沙楽も何だか眠たい気がしていたが、言葉を連ねていたかった。


「わたし、お坊様に会って、琵琶を聴けて、都に連れて行ってほしいってお願いしたら、聞いてもらえて。それだけでも、とっても嬉しかったの。死んでもいいなって、あの時思ったの」


 正確に言うなら、もうじき死んでしまうから、天がくれた最後のご褒美だったのかもしれないと思っていた。それくらい、僧侶の弾く琵琶は美しくて、向けられた優しさは温かかった。


「それで、本当に死んじゃったけど。遼水さんに会えたことも、嬉しかったの。わたし、お友達なんていなかったから、遼水さんがお友達になってくれて嬉しかった。髪の色も目の色も、名前も、褒めてくれて嬉しかった。わたしの大好きなもの、美しいって言ってくれて、ありがとう」

「当然だ。わしは風雅を嗜む男ゆえ」


 安らかな声で、遼水は誇らしげに答えた。

 空の端に滲んだ白が、どんどん黒を青に変えていく。先んじて山間から溢れ出す朝日に、夜闇が追いやられていく。既に塵となって崩れ、風に乗り散っていく亡者の姿が、視界に映り込んでいた。


「ああ……沙楽、すまぬ。どうやらわしは、先に行かねばならぬようだ」

「うん」


 沙楽はもう、髑髏を抱きしめなかった。両手に挟んで、真正面から遼水を見た。


「また会おう、沙楽。長き時を経ても、わしが娘に会えたように、我らもまた巡り会える」


 髑髏は笑い、少女も笑った。清澄な朝、晴れやかな門出を迎える友に、笑顔以外は相応しくない。


「いざ、さらば。我が友よ」


 ――パキン。

 玻璃はりが割れるような、綺麗な音がして。髑髏は粉々の塵となって、きらめきながら風にさらわれていった。見送って東を見上げれば、もう太陽がこちらを覗いている。

 川原に残っている死者は、もう手で数えられる程度。沙楽は微睡むような心地良さを味わいながら、対岸に向き直った。


「……お坊様にも、また会えたらいいなぁ」


 願いを呟いて、薄金の目を閉じる。ずっと背負っていた荷を、ここで下ろす。首に巻いた布を解けば、両頬をふわりと包まれた感覚がした。きっと塵になったのだろうと思った。

 琵琶の音が聞こえる。たった一つ、沙楽を導いた琵琶の音が、頭を揺らさず耳朶を打つ。

 いつかまた、地に立つものとして戻ってくるのだろう。そうしてまた、出会えるのだ。風に乗って、縁を辿って。途方もない時が流れても、風は世界を駆けているのだから。


 清風に散った塵は、想いを馳せる。また辿り着ける場所に。縁を辿った先にある、再会の日に。


 ○○○


 七日に及ぶ一大供養を経て、僧侶たちは途轍とてつもない疲労に見舞われた。誰も彼もが声を出せず、水を飲むくらいしか動けない。

 狂気の沙汰だと、僧侶たちを指して言う人がいた。けれども、狂気とも言える供養をしなければならないほど、あの川原で多くの人が命を奪われたのだ。朝都ちょうとと、朝都を治める一族によって。


 各地を巡り、その足で朝都へやって来たある僧侶は、未だこの都を治める者が呪われていると実感した。白銀の髪に金色の目をした、天翔ける人々の血を引く子どもが殺され、首だけを持って行かれそうになった光景を見て。何とか取り返して埋葬したが、自らの琵琶に目を輝かせてくれた子の死は、ひどく堪えた。

 まだ若輩の彼は、あの少女にも届くよう琵琶を弾いた。通常は休む日も、この陣に座り琵琶を奏で、経を読み上げた。止められても構わず弾き続け、声を上げ続けたため、指ものどもじんじん痛んでいた。


 ――あの子に、聴こえただろうか。


 座り込んだまま、僧侶はただそれだけを考えていた。強まる朝日に、瞼の上からじんわりと目が温められるのを感じながら、少女の姿を思い起こしていた。


 ふと、夜の残滓をまとった冷風が吹いて、僧侶は顔を上げた。まばゆいほど白く照らし出された川原に、何かが落ちていた。

 琵琶を置き、固まって痛む体を引きずるように動かし、歩き出す。彼の頭はおぼろで、かすみに満たされていた。それなのに、落ちている何かを拾わなければならないという使命感があった。

 落ちている物は向こう岸にあったため、僧衣ごと太腿ふとももまで水に浸かりながら、川をざぶざぶ渡って行った。お陰で目が覚めたが、頭の霞はまだ晴れない。


 川を上がってすぐの場所に、目当ての物は落ちていた。継ぎ接ぎだらけな襤褸布ぼろぬのの包み。誰かが背負っていたようだが、ここに落としてしまったか、置いたままにしてしまったらしい。

 拾い上げると、布がはらり開いてしまい、中身がこぼれた。僧侶は咄嗟に手を伸ばしたが、落ちたものを見た瞬間、その場に崩れ落ちてしまった。


 ――わたしの名前ね、もう一個、付けてもらった理由があるの。


 嬉しそうに話す少女の声がよみがえる。若き僧侶は顔を覆って、ほとんど出ない声を絞り出すように泣いていた。


 ――わたしの家にも、お母さんのお墓にも、この花が咲いてるの。だからすぐ分かるよ。


 手の隙間から伝い滴った涙の欠片が、しおれた花ににじむ。包みの中に入っていたのは、夏椿の花。僧侶の琵琶に目を輝かせた少女と、同じ名を持つ木の花だった。

 仲間の僧侶たちが数人、泣き崩れた彼を案じて、ゆっくりながらも駆け寄ってくる。彼はぐいと涙を拭うと、かすれて役に立たない声を振り絞り、包みを広げ見せた。


「これを、寺に植えたい」


 萎れた夏椿と、いくつかの種を。

 落ちてしまった花も丁寧に包み直し、懐に入れて、僧侶は仲間たちと共に歩き出す。川を渡る時には笑いながら、七日にわたる無茶を冗談交じりに咎められながら、笑って此岸に帰っていく。

 途中、ひんやりとした風に頬を撫でられ、彼は一人振り返った。清風は、澄んだ朝の空に消えていく。けれど、どこかへ旅をする。あの子は、天翔ける人々の血を引く彼女は、風になったのだと悟った。


「いつでもいらっしゃい。拙僧の琵琶で良ければ、いつでも。あなたのために奏でましょう」


 言葉を預かったように、また風が吹く。いつか沙楽に届くだろうと、微笑んで、僧侶は自らの場所へ戻っていった。

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清風は巡る 葉霜雁景 @skhb-3725

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