亡骸の夢 二

 岩や巨石で丁度いい具合に囲われた、広場のような場所を見つけた沙楽さらは、これまでと同じく一夜を越そうとした。が、いざ眠ろうと横になっても、さっぱり眠れない。


「どうした、沙楽」


 何度も起き上がる少女を案じて、遼水とおみが声をかける。沙楽は額に手を当て、顔をしかめていた。


「……遼水さん、行こう」

「行く? 都へか? それはいかん。いくら音の導きがあるとて、夜の山道など歩くものではない」

「行かなきゃいけないの。琵琶の音が、ずっと」


 鳴り続けている。

 ざらん、ざらんと琵琶が鳴る。白昼の残響が、蝉の合唱が念仏に変じる。数多の音が頭蓋を揺らす。


「遼水さん、お願い。わたし、本当は分かってるの。これがわたしの未練なんだって」

「……あい分かった。ならば行こう」


 ただならない様子の懇願を受けて、遼水は重々しく承諾する。沙楽は何も言わず、髑髏どくろを抱えて立ち上がった。

 月明りが十分に届かず、獣の気配がうごめく闇の中を、少女は迷わず進んでいく。お守りを握り縋るように、髑髏をしっかりと抱きしめて。遼水は手が塞がると忠告しかけたが、沙楽の手から震えを感じ取り、口を閉ざしていた。


「……わたしね。村の人たちから嫌われてたの」


 しばらく歩くと、沙楽は歩調を緩めないまま話し出した。絶え間なくかかる木陰に隠れて、表情の詳細は窺えない。


「こんな髪と目だから、みんな、わたしのこと怖かったみたい。わたしを産んだからって、お母さんのことも怖がってた。お父さんのことも、みんな知らなかったから、妖怪の子どもなんだろうって」


 遼水の話し方と同じく、淡々として、滞りなく流れるような口調だった。


「お母さんは、風邪が治らなくて、起きてくれなくなったの。だからわたし、お墓を作って埋めて、あとは一人で暮らしてた。でも……」


 同じく滞りなかった歩調が、遅くなって、乱れる。けれども沙楽は止まらなかった。琵琶の音が今もなお、少女を揺すぶり、突き動かしている。


「知らない人たちが来て、首、斬られちゃったの」


 死した今でも、なお。


「お坊様の琵琶を聴いて、都にいらっしゃいって言ってもらえた、次の日だったの。わたし、お坊様に、お母さんのお墓に来てくださいって、一緒に連れて行ってくださいってお願いしてたから、お坊様が見つけてくれたんだ。それで、お母さんのお墓の隣に埋めて貰った」

「だが、眠れなかったと。その不届き者たちを恨んで、か?」


 黙していた遼水が、地を這うような声で問う。抑えていても、怒りがにじみ出た声だった。

 髑髏からそんな声が出ては、怨霊が呪詛を吐いていると恐れられそうだが、抱える少女は笑っていた。自分のために怒ってもらえたことが、ひたすらに嬉しかった。


「違うよ。怖かったけど、それだけだから。わたしは都に行きたくて……ううん、それより、お坊様の琵琶を聴きたいの」


 断言した途端、ひと際高い琵琶の音が、沙楽の中を突き抜けた。自分の中から龍が昇ったような心地に、淡い金の目が天を向く。

 いつの間にか、沙楽は開けた原っぱに出ていた。雲一つない夜空と、虫の声が転がる草原。濃紺に白光が降り注ぐ世界の中で、琵琶の調べが沙楽を呼んでいる。


「行こう、遼水さん」

「ああ、行こう」


 改めて髑髏を抱きしめ、月光を弾く薄金の目で、まっすぐ前を見据える。獣が潜み、何も見えない闇など恐れるに足らず。琵琶の調べが、沙楽を呼んでいる。

 未だ縛られたままの少女は、地を蹴って走り出した。


 ○○○


 夜通し、沙楽は山道などものともせず、ただひたすらに駆けた。何故あるかも分からない体が傷つくことはなく、しかも軽やかで、飛んでいるようですらあった。少女は一陣の風となって、いつ明けるとも知れぬ夜を駆け抜けた。

 行こうと遼水に語り掛けて以降を、沙楽はほとんど憶えていない。ただ、自分を導く音に集中し、ひた走っていた。我に返ったのは、琵琶の音が止んで、己が足も止まった時だ。


「あ、れ……」


 今まで聴こえていたはずの音が消え、沙楽は呆然と立ち尽くす。どういうことかと、焦りが浮かび始める少女を、遼水が呼んだ。


「見事だ、沙楽。そなたは辿り着いたのだぞ」

「え?」


 ――ざらん。

 空気を震わす琵琶の音が、耳朶じだを打った。続く読経の音声おんじょうが、あるはずのない臓腑を鷲掴みにした。

 沙楽は、丸い小石で埋め尽くされた川原に立っていた。音は対岸から、篝火かがりびを焚いた陣中から聴こえてくる。

 対岸に敷かれた陣は横に広く、整然と並べられた篝火は、ずらりと揃った僧侶たちを照らし出す。琵琶を弾く僧侶、合掌し経を唱える僧侶、尼僧の姿もちらほらと混ざっている。陣の外、後方にも人だかりがあるようだったが、完全に照らされてはいないため、どれほどの人が集まっているのか分からない。


「ふむ。そなたを呼んでおったのは、この合奏であろうが……はて。わしの生きていた頃に、川原で御坊が琵琶を奏でるもよおしなど無かったな」

「それはまあ、あなたは鎮魂される側ですから」


 唐突に、隣から知らない声がして、沙楽は弾かれたように体の向きを変えた。庇うように髑髏を抱きしめて。


「ご存じなくても仕方ありませんよ、高竪たかだて遼水さま」


 どこか気品すらある、若い男の声は、丁寧さを失わずに続いた。

 音もなく沙楽の隣に立っていたのは、全身黒ずくめの人物。顔は黒い布で隠され、僧服とは似て非なる、ゆったりとした装いをしている。柳を思わせる、ひょろりとした猫背が、不気味さに拍車をかけていた。


「わしの名を知っておるとは、何者か。……沙楽、腕をどけてくれぬか。相手が見えぬ」

「あっ、ごめんなさい」


 慌てて髑髏を抱え直す間に、黒ずくめの男は膝をついていた。衣擦れの音も、丸石だらけの地面に接しただろう音も立てず。

 視線を合わせてくれたらしいと察して、沙楽は警戒を緩めたが、遼水は「ふん」と鼻を鳴らした。


「面妖な。黄泉よみからの迎えか?」

「そういう者でもありますね。お初にお目にかかります、高竪遼水さま、沙楽さま。お二方の事情は把握しております」


 うやうやしく一礼すると、男はゆらり、片腕を持ち上げた。


「私は冥府に属する者。今はこちらの岸にて、死者の方々をお守りする役を担っております」


 広く大きな袖と、隠された腕が振るわれた途端、月光とは違う光が周囲を満たす。向こう岸の、厳かながらも温かな篝火とは異なる、青白い怪火の光が。

 空中に灯った怪火の群れは、こちら側に座る人々を照らし出す。楽器と音声の合奏を聴く、首のない数多の老若男女を。みな行儀よく正座をし、膝上に首を抱いていた。多くは自分の首を抱えているようだが、二つの首を一緒に抱いた者もいる。


「ここは処刑場でございます。咎人とがにんも、そうでなき者も、多くがここで斬首されました」

「何だ、今も変わっておらぬのか。……沙楽」

「なあに、遼水さん」


 川原に座る人々を眺めていた沙楽は、髑髏を自分の方へ向けた。相変わらずの動じなさを、声色と態度のどちらにも表して。


「都を好きではないという我が言葉、憶えておるか」

「うん。どっちかって言えば嫌いって言ってた」

「よく憶えておるではないか。その理由がこれよ。すぐ近くに人を殺す場を設けておきながら、手厚く弔うこともせず、生の享楽を謳歌する。それがたまらなく不快であった。今は弔いもしておるようで何よりだが」


 今さらだ、と。言葉はなくとも、遼水の声は語っていた。


「都は美しい。だが、目をくらませる。みな見てくればかり気にして、中身は見向きもせぬ。装飾ばかりが美しい無用の空箱だ。そればかり持てはやし、真に重んじるべきものを蔑ろにする」

遥通はるみちさまのことも?」


 過去を話していた時と同じものを察して、沙楽は静かに問いかけた。一瞬、上下していた髑髏の顎が閉じる。再び開いた時には、「そなたは鋭いな」と、苦笑が見える返事をした。


「左様、遥通さまも蔑ろにされた。真摯に務めを果たしていらしたのに。……黄泉の者よ、それは今でも変わらぬか」

「はい。先に言及された本質も含め、都は何も変わっておりませぬ」


 沙楽と遼水が話している間も、黒一色の男は膝をついたまま、微動だにしていなかった。沙楽は男を注視してみたが、周囲が明るくなっても、男の黒は薄まる様子すらない。


「完全に変わることは、残念ながらありません。この都と、治めておられる御方には、そういう呪いがかけられております。沙楽さまが亡くなられた原因も、この呪いのせいと言っても過言ではありませんし」

「えっ」


 急に自分の名前を出され、しかも死因に呪いが関わっていると言われ、沙楽は目を丸くした。


「沙楽さま。ご自分の首が狙われた理由までは、ご存知ないでしょう」

「……村の人たちが、わたしを怖がったからじゃないの?」

「それは、あなたの家に悪漢が押し入れたことの理由です。村人たちは、あなたを売ったのです。あなたの首を欲し、手を汚さぬよう人を雇って差し向けた方に」

「わたしの首を、欲しがってる人……?」


 繰り返したものの、あまり実感はわかない。首を傾げる沙楽に、男は「ええ」と続ける。


「あなたの首は、特別な首なのです。都を治める御方にかけられた呪い、白銀の髪に薄金の目を持つ首を欲する呪い故に、手に入れずにはいられない首。沙楽さまの首は輪都りんとの僧侶が埋めたため、献上を逃れ、死した今も残っておられる」

「すまぬ、輪都とは何のことだ?」


 流れるような説明に、遼水が竿を差した。


「僧侶たちの都ですよ。この都、朝都ちょうとも手出しできぬ地でございます。遼水さまの没後から百年近く経った頃にできましたので、存じ上げないのも致し方ないかと」

「なるほど。では、沙楽が目指していたのはそちらの都か。どうやらわしは勘違いしていたらしい……」


 笑い混じりに言いながら、しかし「む?」と呟いて、髑髏は自ら沙楽の方を向く。


「いや、そなたは琵琶の音に導かれたのだったな? では、目指していたのは朝都……いいや、そうか。そなたが目指しているのは御坊か。であれば、沙楽を助けた御坊は、あの中に居られるのか」

「はい、確かにいらっしゃいます」


 その答えを聞いた途端、沙楽は弾かれたように駆け出していた。首を抱いて座る亡者たちの間を器用にすり抜け、髑髏を落とさないようしっかり抱えて、川のすぐ傍まで駆け寄った。

 肩で息をしながら、赤々と照らされる向こう岸に視線を巡らせる。琵琶の音色に耳を澄ませる。見つけられるはずがないと分かっていても、そうせずにいられなかった。


「あちらにおいでですよ」


 またも無音で沙楽の隣に現れ、傍らにひざまずいた黒一色の男が、袖に隠れたままの手で示す。彼の指した先、琵琶を抱え経を唱える僧侶一人の上に、こちらを照らすのと同じ青白が弾けて散った。

 対岸には、怪火が見えていないらしい。そのことを察する間もなく、沙楽は僧侶を食い入るように見つめた。目を閉じた顔立ちも、僧衣も、抱く琵琶も。遠目ながらに目を凝らして。


「……お坊様だ」

「何、分かるのか」

「分かるよ、遼水さん。本当はね、ちゃんと見えてないんだけどね、でも分かるよ。わたしを埋めてくれたお坊様」


 ぎゅっと髑髏を抱きしめて、沙楽は短い言葉を繰り返す。じわじわと歪み始める視界の中でも、あの僧侶の姿かたちだけは崩れない。


「川を渡って、向こうへ行くことはできませんよ」


 膝をついたまま、男が釘を刺した。けれど沙楽は嫌な顔をしないどころか、にっこりと微笑む。


「大丈夫。わたしはお坊様の琵琶を聴きたかっただけだから」


 ○○○


 輪都の僧侶たちは、春夏秋冬一回ずつこの川原へ赴き、七日をかけて読経を上げて琵琶を弾く。まだ十年の歴史もないこの行事は、朝都との軋轢あつれきが緩和してから実現したという。


「輪都が造営されるに至ったのは、この供養を実現させる理由もありました。朝都が繁栄するために犠牲となった人々、陰に追いやられた人々……沙楽さまのように首を奪われた人々。そういった方々を救わねばならぬと、この一帯に開かれております寺院が全て、朝都と対立したのでございます」


 亡者たちに倣って沙楽は正座し、遼水は沙楽の膝上に収まって、男の話を聴いていた。


外邑守とむらのかみ遥通さまに関する一件から、そういった動きは見られていたのです。とある尼公が、いつか供養が実現するよう奔走していたこともあって」

「尼公が先導したとは。いやはや、強い女人がいらしたものだ」

「何をおっしゃいます。尼君はあなたのご息女ですよ、遼水さま」


 かぱ、と髑髏の口が大きく開く。下顎が上顎ごと頭蓋を倒してしまうという、何とも珍妙な状態になってしまっていた。


「今までに散っていった方々を忘れてはならぬと、八十を超す生涯をかけて、各地の寺に語りかけておられたのです。彼女の意志は途絶えることなく、数百年の時をかけて、花開いたのでございます」


 沙楽もまた目を丸くして、遼水を見下ろした。何とか口を閉じた髑髏は、ふるふると小刻みに震えている。


「そうか……ははは、あれは強く、長く生きていたのか……はっはっは、はっはっはっ! さすがは我が娘、天晴なり!!」


 遼水の声が、天高く響き渡った。止まらない笑い声は、いつしか雄叫びへと変わり、やがて読経と琵琶の合奏に消えた。


「ああ……ならば、やはり。沙楽は天からの遣いであったか。我が娘の成した偉業に、立ち会わせてくれたのだから」

「わたし、そんなんじゃ……ううん。遼水さんにとってはそうだよ。わたしは遼水さんに遣わされたの」

「それも憶えておったか、何よりだ」


 くくく、と笑い揺れる髑髏につられて、沙楽も笑う。違うことなど重々承知だが、遼水にとっては間違いなくそうなのだから、気にしないことにした。

 少女と髑髏は、冥府の男としばらく会話を交わした。遼水の死後から沙楽が生まれるまでの、数百年の間に起こった出来事から、他愛無い日常の懐古まで。琵琶と読経の荘厳な合奏をよそに、この場一時の面々と、何でもない平穏な話を。

 取り留めのない空気は、やがて終止符を打たれた。聴こえ続けていた合奏が、突如止まったのだ。合わせるように黒ずくめの男が立ち上がり、周囲の亡者たちも、首を抱えたまま立ち上がり始めている。


「お二方、じきに夜明けが来ます。ご起立を」

「夜明けが来るとどうなるのだ」

「最後の読経と演奏が始まります。それを以って、皆さまはちりとなって消えるのです。冥府はそれまでの時間を過ごす場所にすぎません」


 促されるまま立ち上がった沙楽は、思わず髑髏を強く抱きしめた。黒ずくめの男を見上げていた金色の目が、不安に揺れながら遼水を見つめる。


「遼水さん……」

「ははは、そんな顔をしてくれるな。我らはまた会えるとも。巡り会える。雨がいつか海となるように、風が巡り来たるように」


 ずりずり動いて、髑髏も少女を見上げた。骨だけの顔に浮かべられるものは無いが、沙楽は彼の表情を何度も見ている。今もしっかり見えている。優しく笑う遼水の顔が。


「奇縁の友、導きの友よ。亡骸となった後の、摩訶不思議な夢にて出会えた友よ。名残惜しくも別れの時だ」


 遼水の言葉を前口上だったかのように、最後の合奏が始まる。川原を照らす怪火は徐々に薄まり消え、東の空もまた白み始めていた。


「遼水さん。もっとお坊様のこと、見える場所に行っていい?」

「もちろんだとも」

「ありがとう。……お兄さんも、お話してくれて、ありがとうございました」


 深々としたお辞儀と共に、沙楽が感謝を告げると、黒ずくめの男は一瞬固まったようだった。一拍おいた「どういたしまして」を聞いてから、沙楽は僧侶がよく見える場所へと駆けて行った。

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