清風は巡る
葉霜雁景
亡骸の夢 一
盛夏の名残が漂う、虫の声響く夜の中。深い場所から
琵琶の幻聴が聴こえるのは、これが初めてではなかった。少女は小さくため息を吐く。嫌いではないのだが、少しうんざりするくらいには何度も聴いている音。こうして眠りを妨げられるのも数回目になる。
「――もし、もし」
改めて眠ろうと身を横たえた直後、今度は人の声がした。低い男の声だ。あまりにもはっきりと聞こえたため、少女はまたも起き上がる。
「もし、誰ぞ居られるか。眠られてしもうたか」
「起きてるよ、誰?」
「おお、起きておいでか。申し訳ないが、わしはこの場から動けぬのだ。姿を見せられぬ無礼、何卒許されよ」
「動けないなら、助けようか?」
少女は全く怪しまず、どこにいるかも分からない声の持ち主に訊き返した。「なんと」と、分かりやすい驚嘆が響くも、次いで聞こえてきたのは苦悶の唸り。
「しかし……そなた、
「酷い怪我でもしてるの? じゃあ、なおさら助けなきゃ。大丈夫、わたし、酷い怪我をした人、見たことあるし、手当てしたこともあるから」
「そういうわけでは……いや、仕方あるまい、正直に申し上げよう。わしは亡霊だ、唯一残った我が
「そうなんだ。じゃあ、あなたの髑髏を動かせば、あなたも動けるのね。どこにあるのかな」
「うむ、そなたから見て右手の奥に……、……うん!?」
姿があれば振り返るだとか、飛び上がるといった奇態を晒していそうな声をよそに、少女は右側を手探り始めていた。亡霊の必死な言葉や問いを、まるで聞かずに探し回る。
ぺたぺた地面を触っていた手は、そう時間をかけず硬いものに辿り着いた。これかと少女が手繰り寄せると、「それだ」と疲労一色な返答があった。
「そなた肝が据わっておるな……さすがに驚いたぞ」
「動物の頭の骨を見たことあるから、人の頭の骨くらい怖くないよ。動けないなんて可哀想だし、動けるわたしが動かしてあげた方が良いでしょ」
当然と語りながら、少女は手に取ったものを洞穴の外、月光が当たる方へ持っていく。照らし出された小さな両手は、確かに髑髏を挟めていた。
「ちょっと汚れてるね、明日洗ってあげる。近くに川があったから」
「おお、嬉しや……いや本当に肝が据わっておる、な……」
カタカタと顎を上下して、髑髏は男の声を発したが、急に
少女は小柄で、簡素な身なりをしていた。着古し
けれど、男の声を萎ませたのは、彼女が持つ色彩。汚れていても純白を失わない髪と、淡い金色の双眸が原因だった。
「なんと……そなた、美しい色を持っておるのう」
感嘆の声に、金色の目が見開かれた。次いで、喜色満面の笑みが咲く。
「ありがとう。ところで、わたしに何か、頼み事でもあったの?」
「ああ、いや。大した用事ではない。話ができれば、それで良かったのだ。この通り何処へも行けず、一人きりであった故」
髑髏は自ずと傾いて、俯くような仕草を見せた。心なしか、
「じゃあ、わたしと都に行こう」
「都? そなた都へ行こうとしておるのか?」
今度は上に傾いた髑髏から、上ずった声が聞こえる。少女もまた、首を傾げていた。自分は何か、おかしなことを言ったのかと。
「都は嫌い?」
「どちらかと言えば嫌いだが、わしのことより、そなたのことだ。なにゆえ都へ向かう。その前に、そなたは都への道が分かっておるのか」
「道は知らないけど、琵琶の音が聴こえるから」
かぱ、と。髑髏の下顎が外れんばかりに開いて、中空に揺れた。唖然呆然といった様相に、少女は頬を膨らませる。
「信じてないのね。まあ、わたしにしか聴こえないみたいだけど……でも、本当だよ。都に近付くほど、琵琶の音もはっきり聴こえてくるの」
「都は都でも、別の都に招かれているのではないか? 死者の都とか」
「……。髑髏って、岩に投げつけたら割れるかなぁ」
「無体な! 恐ろしいことを言いおって! 申し訳ないこの通り!!」
ずりり、少女の手の内で、髑髏がまた下へ傾いていく。「こっちこそごめんなさい」と少女も頭を下げた。脅すにしても度が過ぎていたと。
「わたしもね、おかしいとは思うよ。だけど、本当にそうなの。琵琶の音はいつもじゃなくて、間を空けて聴こえてくるんだけどね。前に旅の人が、このまま行けば都だって話してたから、間違いないんだって思って」
「ふぅむ。ではそもそも、なにゆえ琵琶の音を頼りにしておるのだ。誰ぞ旅の者にでもついて行けば、まあ見る目を誤れば危険もあるが、その方が良かろう」
「お坊様の琵琶だから」
きっぱり、少女は断言した。
「前にね、わたしが住んでる村の近くに、琵琶を弾くお坊様がいらしたことがあったの。色んな所を巡って、その後は都に行って、たくさんのお坊様たちと琵琶を弾くんだって。わたしが聴きたいって言ったら、ぜひ聴きにいらっしゃいって言ってくれたから、琵琶の音を
「なるほど、そのような
「信じてくれるの?」
再び目を丸くして、食い気味に訊く少女に、「一応な」と髑髏は冷静に続ける。
「仮に、害あるものが
「本当だったらすごいことだね。あ、でも、それじゃあ亡霊さんを連れて行くのは駄目かな、消えちゃわない? 困らない?」
急に思い至って、少女の眉が八の字を作る。しかし、髑髏は調子を変えず「そうさなぁ」と静かに答える。
「御坊の琵琶を聴いたなら、確かに消える、死後の都へ行けるかもしれぬ。それで良い、そうなるべきだ。わしは怨霊ではなく、未練に縛られた霊ゆえな。行き着く先は何処でも構わぬ。早う消えてしまいたい」
髑髏がまた俯き、がぱりと口を開ける。何をしているのか、少女は一瞬分からなかったが、「はあぁ……」とため息の音が聞こえた。
「いや。そなたの旅路について行く身だ、ため息など無礼であった、相すまぬ。都へ行くならば休息も多く取らねばなるまい、もう眠られよ」
「うん。あ、その前に。亡霊さんってお名前はあるの?」
「おお、そうだ。まだ名乗っていなかったな。わしは
「じゃあ、遼水さんって呼ぶね。わたしは
「沙楽……さらさら流れる水の音から取った、という由来でも?」
「当たり! ふふふ、遼水さん鋭いのね」
「これでも風雅を
しみじみとした声に、沙楽は喜色で顔を染める。ところが、浮かぶ表情には淋しげな影が潜んでいた。
「さ、もう眠られよ。話はまた明日にしよう」
「うん」
髑髏を抱えて洞穴に戻り、沙楽はようやく身を横たえた。抱えられたままの髑髏から、「これ! せめてわしのことは離して……」とか何とか声が上がっていたが、構わず寝てしまった。
○○○
翌朝。約束通り川へ向かい、髑髏を洗い清めてから、沙楽は旅を再開した。時折、頭に弾け聴こえる琵琶の音を頼りながら、遼水と話しながら。
沙楽は道らしい道に出ることなく、けれど苦労する様子もなく山林を進んでいたが、遼水は何も言わなかった。痩せた背と小さな荷物に挟まれ、揺られながら、彼女だけに聴こえる琵琶の音を信じていた。
「沙楽、そろそろ休憩した方が良いぞ。息が上がっておる」
「うん、そうする」
素直に頷いて、沙楽は近くの木陰に身を寄せた。座り込むと、草木や土の匂いが濃くなる。くっきりとした蒼穹の下、
遼水の髑髏を膝に降ろして一息つくと、また琵琶の音が聴こえた。昨日よりもずいぶん大きく。
「不思議なものだ、暑さ寒さを感じぬというのは。感触ははっきりしているのだが」
カタカタ、髑髏はひとりでに口を上下させて話す。遼水は、触れられたり洗われたりといった感覚は分かり、快不快も感じるのだが、周囲の温冷を感じ取ることはできなかった。沙楽の手から、温かさを感じ取ることも。
「暑くないのも、寒くないのも良いことじゃないかな。今年はあんまり暑くないみたいだけど、すごく暑い夏もあるし」
「む、今年は冷夏の兆しでもあるのか。そなたが汗をかいておらぬのも、あまり暑くないからか」
「うん。でも、汗をかかなかったのは、遼水さんのお陰かも。亡霊……幽霊ってひんやりしてるんでしょ? だから暑さを感じなかったのかなぁって」
「そうだろうか」
倒れないよう傾いた髑髏に、沙楽は「たぶん」と笑った。
「ね、遼水さん。お話の続きが聞きたい。遼水さんたちは、えーっと、
「左様。外邑守
促されれば、遼水は静かに語り始めた。穏やかな話ではなかったが、沙楽は気にすることなく耳を傾ける。
「遥通さまは秀でた御方であられたが、優しい気質の御方でもあったゆえ、謀略の標的になってしまわれたのだ。そもそも、未だ支配の行き届かぬ地のすぐ傍を守る役に任命されたことも、誰ぞ悪意ある者の策略であったのだろう」
遼水の語り口調は淡々として、たまに哀愁が混じっている。流水のような話し方だなと、沙楽は何となくの印象を抱いていた。
「我ら臣下一団は、遥通さまの死を望まなかった。わしは都からついて行った身だったが、赴いた地で臣下となった者もいた。わしと連中は喧嘩をすることもあったが、みな遥通さまのために、心を一つにすることができた」
「仲良しだったんだね」
「そういうわけでは……まあ、それはいい。ともかくわしらは、遥通さまを逃がそうと決意し、説得して、未開の地へ向かうこととなったのだ。各々の一族も連れて。道中、追っ手が迫ってくると、何も持たぬ者から
「……その人たちは、死なないといけなかったの」
「みな、次第に減っていった。わしらは徐々に追い詰められて、このままでは全滅も濃厚だった。そこで、わしは一つ案を思い付いたのだ。わしが身代わりとなって、遥通さまを逃がす一団から追っ手を逸らすと」
「一人きりで?」
「いいや。ある程度は人が必要だったゆえ、わしと共に死んでもいいと言う物好きたちを連れて行った。……その中には、わしの娘もいた。一人娘だ」
苦渋で染め上げられた一言が、地に落ちて消えていった。途切れることのない、乱雑混合の大音声で作られた
「母を早くに
「……もしかして、娘さんは捕まっちゃったの?」
「かもしれぬ。その際、首を突いて自決したかもしれぬ。分らぬのだ。わしは娘を逃がした……騙す形で逃がしたゆえ」
髑髏に浮かぶ表情はない。けれど沙楽には、彼の悲しい顔がよく見える。
「別れ際の顔を、あれが驚き悲しんでいた顔を、忘れられぬのだ。わしの未練は、おそらくそれなのだろう。あの子がどうなったのか、それを知りたかったのだ。……だが、時が経ちすぎた。わしは去らねばならぬ」
でも、と言葉を継ごうとして、しかし沙楽は何も言えなかった。遼水はもう、諦めているのだ。
「何、気に病むな。そなたはわしを連れ出してくれただろう。そなたは、天がわしへと遣わした者なのかもしれぬ」
「わたし、そんなんじゃないよ」
「ふむ、違うかもしれぬ。だが、今のわしにとっては、そなたこそ遣いよ」
からから、ひとりでに音を立てる髑髏に、少女の笑い声も重なっていく。違うことなど重々承知だが、もしそうならと想像することも、内容も素敵だから、気にしないことにした。
「さて、もうそろそろ進もうか。少しでも都に近づいた方が良かろう」
「そうだね。……遼水さん、ありがとう」
「はて。大したことなど言っておらぬが」
「大したことだったの、わたしにとっては」
くすりと笑って、沙楽は髑髏を背負い直す。また、頭の中に琵琶の音が鳴り響いた。周囲の蝉の声をかき消すほど、大きな音だった。
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