第108話 予感52完結

「煮るなり、焼くなり、お前の好きにしろ」


 烏丸の顔に雪が落ちてはとけて、まるで涙のように頬を伝っていく。


「俺は、それだけのことをした」


「……やめてくれ」


「気の済むままで、どうにでも」


「やめてくれ!」


 烏丸の胸元から手を離した。後ろによろめくように後ずさる。膝に手をつき、荒く息を吸い込み吐き出した。


「……なぜお前が」


 のろのろと頭を上げる。烏丸は変わらず俺を見つめている。


「なぜお前が、それを。その瞳を、持っている!」


 銀華の星空がよみがえる。

炎に焼き尽くされた、俺の星空。


「その目で、俺を見るな」


 やめてくれ、と心の中で祈った。


「……銀華と契りを交わした。願いを叶えた」


 烏丸は呟くように言って、頭を下げた。


「お前を守りたかった。俺も、銀華も」


 銀華の声が降りしきる雪の合間を縫って聞こえた気がした。


「……お前の瞳に宿り、見ているということか。俺がどこぞで野垂れ死ぬことも、許さないということか」


 どこまでも、俺を振り回す娘だ。

ふっと笑みがこぼれた。そしてどこまでも……。


「山神。いや、白角。お前も分かっているはずだ」


 顔を上げた烏丸の瞳と、銀華の瞳が重なる。

俺は口を開いた。


「銀華は俺を……私を、恋い慕っていた。そして私も」


 俺は空を見上げた。今も雪は止まずに降り続いて、どこまでも仄白い。


「いつしか、想っていた。あの娘を。それは今も変わらず、おそらく、これからもずっと」


 烏丸がうなずいた。

 銀華のまなざし、鈴を転がしたような声が甦る。俺の背に乗った時の重みと温もり。

共に過ごした日々が駆け巡り、胸の奥から震えるようなあたたかさが滲み出て、全身へと伝わっていく。

 俺は目を閉じ、両手で両腕を固く握った。

 身体が軽くなるような、甘く柔らかなあたたかさに包まれたのは一瞬だった。


「……人という生きものは、かような痛みを抱えて生きているのか」


 愛おしさに気がつけは気がつくほど、重ねた時を思い出せば思い出すほど、冷たい現実が我が身を幾度も突き刺すかのようだった。

まぶたを開くと、目の前の烏丸がゆがんだ。


「けして結ばれることのない、この先実ることのない思いでさえも、身の内に置こうというのか。獣よりも脆く儚いこの身体で、よくもまあ壊れもせずに生きていける」


 うつむくと、目の端から流れ落ちた雫が雪の中に消えていった。


「……私には耐えきれぬ。今のいままで、獣であった私には」


 烏丸が膝をついて俺を覗き込んだ。


「預かろう」


 顔を上げた先の烏丸の顔はとても穏やかだった。


「その痛みを、お前が良いと思えるまで」


「……そんなことができるのか?」


 烏丸がうなずく。


「俺に預けて、今は眠れ」


 烏丸が立ち上がって俺の頭を両腕で抱きかかえるように手を伸ばした。そのまま素直に肩に頭を預け、目を閉じる。

 ゆっくり息を吐き出し、深く息を吸う。

 自分が巣で母鳥に抱かれる卵になったように思えた。「烏丸」と呼ぶと彼が腕をゆるめ、頭を動かす気配がした。


「……まぶたの内でも、ずっと雪が舞っている」


 烏丸は「そうか」と言って片方の腕を頭から外し、俺の背中に置いた。


「銀の花が。雪の花びらが。まぶたの内でも降り止まぬ」


 烏丸がそのまま俺の背中を静かに叩く。まるで赤子をあやし、寝かしつけるかのような優しさだった。


「花びらが。……ああ、あれは春の……薄桃色で、すぐに散ってしまう」


 烏丸は何も言わなかった。まどろみの中で、景色がどんどん霞んでいく。


「待ってくれ。いつのまにか、雪が、あれが、桜に。桜の花びらになってしまった。私はまだ忘れたくないのに」


 必死に叫ぶ俺を、烏丸が、誰かが抱きしめる。

今は忘れても良いのだと、誰かの声が俺を包む。それでも俺が、私が覚えているからと。私はずっと、あなたの中にいるのだと。

 花びらが、散っていく。

 待ってくれ。

 そう願っても桜は散ることをやめてはくれない。

 穏やかな声が身体の中で響く。


 『大丈夫だ。ずっとお前の中に』


 いつか。

 俺の中にまた雪が降れば。

 きっと手のひらに、頬に舞い落ちた花びらを慈しむのだろう。

 温もりのために消えてしまう透明な花弁の儚さを憂いながら、けして消えることのない思いを幾度も咲かせるのだろう。

 今はかなしみとしか思えぬこの痛みも、違う呼び方ができるのかもしれない。

 烏丸が、誰かがうなずいたのが見えたような気がした。

 俺はゆっくりと息を吸った。もう、抗えない。泥のように重く、深い眠りの中に落ちていく。

 誰かが、俺のことを信じてくれている。

 それだけが、ただあたたかく感じられた。

 だからきっと、その日は来るのだと分かった。

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烏の三ツ足は水母の骨を攫む 根來久野 @negoro11611

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