第107話 予感51

 烏丸が刀を振り上げた。

「待ってくれ」と腕を伸ばした俺をなまずが有無を言わさぬ力で引き戻す。

 炎の隠仁と化した銀華は、俺の中にいた蛇のように黒い炎を吐き出していた。

細身の身体とは不釣り合いな程に太く燃え上がらせた腕を大きく降り、握りしめた拳で烏丸を叩き潰そうとしている。

 烏丸は素早い身のこなしで巧みに避けつつも、斬り込む機会を伺っているようだった。拳が振り下ろされる度に、しぶきを上げるように雪が舞った。

 銀華が拳を振り下ろした幾度めかの時だった。

あおーん、という獣の遠吠えが響き、びりびりと空気が震え木々が揺れた。

 俺の山に狼はいなかったはず。

 そう思った瞬間、烏丸が銀華に斬り込んで太刀を振るった。狼の声にひるんだように、ほんの一瞬身体をこわばらせた銀華を烏丸は見逃さなかった。

 銀華は「ギャッ」という叫び声を上げてから、胸の辺りを庇うようにして膝をついた。大きく上下に揺れる身体とは裏腹に、炎の勢いが次第に弱くなっていく。

 二本の角のように燃え上がっていた火柱はぶすぶすと黒い煙を上げながら煤となって雪に混じり、消えていった。

少しずつ、炎の下から白い髪と額があらわになっていく。


「銀華」と俺が呼ぶと、炎の中のちいさな頭が揺れた。


「與土。もういい」


 烏丸が刀を鞘に戻した。

縛りを解いたなまずを振り切るようにして、銀華の元へと駆け寄る。


「銀華。なぜだ。銀華」


 勢いは衰えたとはいえ、黒い炎は依然として銀華を包み込み、迂闊に近づくことはできなかった。うつむいていた銀華がゆっくりと顔を上げる。


「……白角様。良かった、ご無事で」


 銀華が微笑んだ。右頬とこめかみからは黒い炎が細く上がったままだった。


「なぜこんなことを。これは俺の……私の中のものだった。私が斬られるべきだった。なぜだ、なぜあれを取り込んだ」


「なぜとは」


 銀華は微笑んだまま、不思議そうに首をかしげてみせた。


「あなた様をお慕い申し上げているからに決まっているでしょう」


「慕う……?」


 そう聞き返した時、銀華の頬からくちびるに小さな炎が燃え移った。「今度こそお別れでございます」と銀華が呟いた。炎がまた少しずつ大きくなっていく。


「最後に、あれから自分に戻ることができて良かった。どうか、烏丸様を責められませぬよう。烏丸様の刀は、人の命を奪うことはありません。烏丸様は人ならぬもの……魔性のものやあやかし、そして神に近いものしか斬れぬのだとお聞きしました」


 俺の背後に立っていた烏丸がいつの間にか隣に並んでいた。なまずも烏丸の後ろに控えるように立っている。


「魔物が憑いた人を斬ったとしても、斬られるのは魔物だけ。人の生き死にには影響しないのだと。

けれど人ならぬものを斬れば、魔物もろとも道連れにしてしまう。

人ならぬものと魔物は似たような道理の下にいて、互いに近しい存在でもあるから」


 銀華のくちびるの炎が丸く形作られていき、五つの切れ込みが入り始めた。それでも銀華は穏やかに言葉を続ける。


「あれと共に白角様が斬られてしまうだなんて、私には到底受け入れられませんでした。

私の運命はあの男に射抜かれた時に決まっていた。あなた様をお守りできるのであれば、これ以上のことはございません」


 微笑んだ銀華のくちびるに炎の花が返り咲いた。

 小さな梅の花のような慎ましさを感じさせたのはほんの一瞬で、花びらはめらめらと猛々しく燃え広がり、銀華の顔を覆い始める。


「人の世を呪い、憎しみ、逃げ捨てた私が言えたものではないと承知の上で、お願い申し上げます。愛しい白角様。どうか」


「銀華」


 俺が手を伸ばすと、銀華は頭を横に振って身を引いた。


「……どうか、恨まず。あれの炎に、二度と御身を焼かせてはなりませぬ。忘れないでください、私はずっと、あなた様の」


 声が聞こえたのはそこまでだった。

 炎は再び銀華を覆い尽くした。最後の力を振り絞るようにしてごおっと大きく音を立て、燃え盛る。後ろから烏丸に強く腕を引かれ、引きずられるようにして下がった。

 炎の梅花がこぼれ落ちる。

 絶え間なく降りしきる真白な雪が、黒い花を跡形もなく消し去っていく。

 残ったのは銀華を射ぬいた弓矢と、人ならぬ俺たちだけだった。


「烏丸」


 後ろを振り返る。

 無言で立つ烏丸はもう帯刀しておらず、丸腰だった。なまずはその隣で控えるように佇んでいたが、注意深く様子を伺っているのが分かった。


「これは、なんだ」


 烏丸は何も言わずに、じっと俺を見ている。


「銀華を失った悲しみ。あの男に対する憎しみ。銀華を唆したお前への怒り。それは手に取るように分かるが……」


 言葉にしてふと気づき、自分の手を眺めた。蹄を失い、毛皮に覆われていない無防備で、無力な自分の手。これは。


「……そういうことか」


 冷ややかな笑みを浮かべても、烏丸は表情を変えなかった。


「人形にしたのは、俺の力を最大限削ぐためだったのか。なるほどこの身体では、つわものがなければお前達には勝てぬな。策士めが」


 否定も肯定もせずに佇む烏丸に、言いようのない怒りが溢れ出した。


「思い出したぞ、三ツ足の烏の噂を。冥府の者どもと手を組み、あやかしの類を次々に手の内にしていると。俺のことも得意の謀ごとで懐柔し、配下にでもするつもりか。そこのなまずのように」


 なまずは何かを言いたげな顔をしたが、それでも烏丸が黙っているのを見て口をつぐんだままだった。


「お前の言いなりになるなどもってのほか。最早、山を治める気などもない。どこぞで朽ち果てこの身を終えよう」


 俺は烏丸に背を向けると、のろのろと歩き出す。いつどこで生き絶えても良いと思った。


「これは、とは、何を指す」


 後ろから烏丸の声が聞こえた。人の歩幅は思ったよりも狭く、深い雪の中ではもたついて思うように進めない。思わず舌打ちをする。


「お前の中で生まれた、初めてのものだったんじゃないのか」


 振り返らない俺に構わず、烏丸が言葉を続ける。


「それは、あの娘が身をもってお前に気づかせたものだろう」


 もう我慢がならなかった。


「お前が言うな!」


 身を翻し、拳を振りかざして烏丸に向かって大きく跳ねた。獣の時よりは劣るものの、人としては大分優れた身体のようだった。

 間に割って入ろうとしたなまずを烏丸が制した。

黒い衣の胸ぐらを掴み引き寄せる。目と鼻の先に烏丸の顔が迫る。


「随分と余裕だな」


 烏丸はじっと俺を見ている。


「下に見られたものだ。お前など、この身体でも……」


 烏丸の瞳が俺を見つめる。

どくん、と心の臓が鳴った。


「やれ」


 抵抗の素振りは一切なかった。

 投げやりでもなく諦めでもない目で、烏丸は俺を見ていた。

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