第106話 予感㊿

「白角様」


 銀華は烏丸の足の隙間から俺に向かって手を伸ばした。烏丸がゆっくり降りてきて、俺の前に銀華を降ろした。背中の矢はいつの間にか抜かれていた。


「ごめんなさい。白角様を穢してしまって」


「馬鹿を言うな。それよりも手当を」


 銀華はゆるゆると首を横に振った。 


「私はもう持ちませぬ。ここで白角様にお別れを」


 俺は横たわる銀華に顔を寄せた。


「許さぬ。彼岸に連れていくのは私の役目だと言った」


 銀華はふっと微笑んだ。


「最後までお優しい方。私が病でそう永くはないのは知っておいでだったのに。ずっと私を励まし、共にいてくださった」


 銀華はためらいがちに俺の顔に手を触れた。

めくり落ちた袖からのぞいた白い腕には、赤い花びらのような湿疹が点々と浮かんでいた。


「穢れた私が触れるのは、お側にいるのはいけないことと分かっておりました。それでも最後はあなた様の温もりを感じて逝きたいのです。わがままをどうかお赦しください」


 銀華は俺の首の辺りに手を伸ばし、抱き抱えるように腕を回した。

 どうして俺は最後まで銀華を抱きしめられないのか。思いのままかき抱けば、角が、蹄が、銀華を傷つける。銀華に身を寄せるだけで精一杯だった。


「山神」


 いつのまにか人形に戻った烏丸が側に立っていた。


「力を貸してやる」


 何を、と思った瞬間、辺りが眩しく輝いて反射的に目を閉じた。今日は曇天のはずなのに、昼間の強い陽の光を感じさせる眩しさだった。

 しばらくして光が止み目を開くと、俺は角と蹄を失っていた。代わりに銀華や人形の烏丸のそれとよく似た柔らかで滑らかな肌と、細く脆い手足を得ていた。


「銀華」


 目を見開き、信じられないというように俺を見つめる銀華をぎこちない手つきで抱き上げる。銀華が「ああ」と溜め息ともつかない声を漏らした。


「これはまぎれもなく、白角様の温もり」


 閉じられた銀華の目の端から、静かに雫がこぼれ落ちた。


「あたたかな、白角様の」


「いけない、目を閉じては」


 銀華はうなずいてから、ゆっくりと目を開いた。


「だから、あの冷たい炎は白角様にはご不要なもの。私があちらに持ってゆきます」


 銀華はそっと俺の頬に手を当て自分に引き寄せた。星空を溶かして注ぎ込んだような瞳で俺を覗き込む。


「山神に巣喰う邪な者。取り憑くならば私に取り憑きなさい。そこからお前もずっと見ていただろう。人の内に秘めたるものの方が美味かろうぞ」


 銀華のものとは思えぬ、太く、力強い声だった。

俺を白角ではなく初めて『山神』と呼んだ。思わず視線を外して身を引こうとする俺の顔を、両手で押し留める。


「私を見続けて。決して目をそらさないでください」


 腹の底から絞り出されたような強い声に引き込まれ、俺は再び銀華を覗き込んだ。

 吸い込まれるような銀華の瞳。

 星空が、俺を満たしていく。

 それは、そう時を置かずやって来た。

 自分の目の、頭の、身体の底の奥の方からぐるぐると渦を描くようにして、迫り来るもの。

 俺は、それをよく知っている。

 俺の中の悲しみと怒りと憎しみを糧にして、次第に大きくなっていったもの。

 不思議なことにそれは確かに俺の内側にあるのに、奥底から上がってくる様をもう一人の自分が眺めているような感覚があった。

 迫り来るそれは、大蛇のように大きく身体をうねらせ、しならせながら這い上ってくる。


「離せ、銀華。これを抑え込まねばならぬ」


 銀華は首を振ってますます俺を強く引き寄せた。


「いたずらに崇められていた頃、巫女の真似事をしていたことがありました。どこまでうまくいくか分かりませぬが、器として……いえ、餌として、私は十分なはずです」


 そう言うと銀華は側に立つ烏丸を見上げた。


「そうですよね、烏丸様。後はよろしくお頼み申し上げます」


「何を」と烏丸を咎めようとした俺の口に銀華が指を当て、静かに首を横に振った。

 烏丸は奥歯を噛み締めるようにして、口を固く閉ざしていた。それは既に何かを悔やんでいるように思えたが、彼は無言のままうなずいた。

 烏丸が応えたのを見届け、銀華は俺に視線を戻して微笑んでみせた。微笑みの理由も聞かせてはくれないまま、すぐに何事かを唱え始める。

 俺の中の炎の蛇は、大きく波打つようにとぐろを巻いていた。口のようにぱっくりと割れた先端からはどす黒い炎を吹いている。

 銀華の声に気がつくと頭を上げる。そのまま誘われるようにしてさらにずるずると這い上がってくる。銀華はうまくいったというように満足そうにうなずき、低く呟いた。


「これ以上、お前をのさばらせはせぬ」


 蛇は今にも俺の中から這い出でようとしていた。

ちろちろと舌のような細長い炎を口元からちらつかせ、銀華の方へと向かっていく。

 「待ってくれ」と口にした言葉をかき消すように、銀華は凛と言い放った。


「いざ給へ」


 銀華の言葉に呼応するように、炎の蛇は大きく膨らんだ。

 その瞬間全身が燃えるように熱くなったが、熱はすぐに去った。文字通り、憑き物が落ちたかのように身体が軽くなる。

 まるでまだ仲間と共に野山を駆けていた、ただの鹿にすぎなかった頃に戻ったかのようだった。頭と身体の感覚がうまく噛み合わず、強い目眩を感じて世界が二重にぶれたように感じられた。


「烏丸様!」


 俺の腕が緩んだ隙をついて、銀華が思い切り俺を突き飛ばした。

 一体どこにそんな力が残っていたのか、惚けたように力が抜けていた俺はあっけなく後ろへと倒された。

 倒れ込みながら烏丸が腰から何かを引き抜くのが見えた。今まで丸腰であったというのに奇妙なことだと、やけに目の前をゆっくりと過ぎていく景色の中で思った。

 息も絶え絶えだったはずの銀華が、ゆっくりと起き上がる。名を呼んだつもりだったが、くちびるが虚しく動いただけだった。


「銀華」


 代わりに烏丸が名を呼んだ。

 起き上がった銀華はがっくりとうなだれていたが、少しずつ顔を上げる。烏丸が身構える気配がした。


「……か、ラ……スま、さ……」


 銀華の鈴の音のような声に混じり、ひどく耳障りな雑音が走った。砂の上を強い力で引きずられたような、ざりざりという不快な音だった。


「わタ、シ……を、ハ、やく」


 真っ白な髪が面をあげた銀華の頬にさらりと掛かった。星空のような瞳は黒く濡れていた。


「……お、斬りニなッ……て、く」


 最後の言葉をかき消すかのように、銀華の下くちびるから黒い炎の花が咲いた。五枚の花弁を大きく燃え盛らせながら、炎が銀華を包み込んだ。


「……銀華!」


 力の入らなかった手足を何とか動かし、起き上がって手を伸ばす。目の前で烏丸が腰から刀を抜いた。


「……やめろ、烏丸。やめてくれ」


 身体を引きずるようにして烏丸に近づいて、烏丸のぼろぼろに裂けた袴にしがみつく。烏丸は刀を銀華に向けたまま、俺を見下ろした。


「あれは、俺の内に巣喰っていたものだ。銀華のものではない。斬るなら俺に戻してから斬ってくれ」


 烏丸が首を横に振る。


「できない。銀華はあれを引き受けた。そしてそれを勧めたのは」


 烏丸はそこで言葉を切った。

つかを強く握りしめ、目線を銀華に戻す。


「俺だ」


 感情の見えない、ひどく乾いた声だった。


「……何だと?」


 俺はよろよろと立ち上がりながら、烏丸に掴み掛かった。烏丸の黒い直垂の胸元が乱れる。烏丸は何も言わなかった。


「なぜだ。なぜだ、烏丸!」


 俺の怒号に呼応するように、銀華を包む炎が大きく燃え上がった。炎は花から形を変え、今やかいこの繭のような俵形となって銀華を覆い尽くしていた。


「離してくれ」


 烏丸が言い終えるか終えないうちに、俺は肩を掴まれ強い力で引き剥がされた。強引で力づくなそれとは裏腹に、穏やかな声が耳元で聞こえた。


「手荒なことをして、申し訳ありませんね」


 なまず、と思った瞬間に背中からはがいじめにされて身動きが取れなくなる。


「頼んだ」


 なまずが後ろで頷く気配がした。

 烏丸が銀華とゆっくりと間合いを詰め始める。今や大きな黒い炎の塊と化した銀華は、声にならない咆哮を上げながらいびつにその姿を変えていた。

 咆哮を上げる度に、炎は次第に人の形を取っていく。目と口の辺りからは赤い炎を燃え上がらせ、頭の部分からは二本の火柱が立ち昇ろうとしていた。


「あれでは……あれでは、まるでオニではないか。炎のオニだ」


 両の目が熱くなり、景色が滲んでぼやけた。銀華と烏丸の姿が降りしきる雪の中へと溶けていくようだった。


「……オニではありませぬ。あれは隠仁おにです」


 なまずは手を緩めぬまま、独り言のように呟いた。


「隠仁」


 自然と頭の中に浮かび上がった言葉を繰り返す。

 まばたきをして雫が頬に伝えば、それは人が流す涙なのだと気がついた。

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