第105話 予感㊾
烏丸は俺に背を向けて、かたかたと震え始めた男にゆっくり歩を進め始めた。
一歩踏み出すごとに、烏丸の足元から白い
男は背中の矢筒から矢を抜いて再び射る素振りをしていたが思うように力が入らないのか、矢は虚しく滑り落ちるばかりだった。
「あんたの矢は俺には当たらない」
烏丸は今や手を伸ばせばもう銀華に触れられるというところまで歩み寄っていた。銀華の背中から流れた血は、辺りの雪を真っ赤に染め上げていた。
男はうつむきがちに首を横に振って「いやだ、違う」と繰り返していた。今や弓を雪に突き刺さし、両手で縋るようにしてやっと立てているようだった。
「弓矢を置いて、店へ戻れ」
烏丸は少しずつ姿勢を低くしながら、低く落ち着きを払った声で男に話しかけていた。男と俺の双方に両の手を伸ばし、動くなと訴えていた。
「店に戻り、体を清め、床に入れ」
烏丸は男にゆっくり話しかけ続けながら少しずつ身を屈め、銀華の衣に手を触れた。男はぶつぶつと何事かを繰り返し呟き、目の焦点が定まっていない。
「何人が来ようとも、戸を開けてはいけない。明日の日が昇るまで」
不穏な男から目を離さず、烏丸は静かに銀華の衣の袖を手繰り寄せていく。銀華の指先に烏丸の手が触れた。固く閉じられていた銀華のまぶたがうっすらと開かれる。
「……私は、違う。私は、間違っていない……」
血で汚れた左手が微かに動き、銀華は頭を動かさずに烏丸を見上げた。烏丸が銀華の手を握った。
「……女は山神様を穢した忌むべきもののはず。だからこのようにお山がお荒れなのだ。……なのになぜ、山神様は私を」
男の震えた声が再び怒りを帯びてきたのを感じ、冷たい緊張が走った。烏丸の目が鋭く細められ、銀華の左手を強く掴む。
うつむいた男から涙がこぼれ落ちた。肩が激しく上下に揺れ始めたかと思うと、突然男は大声をあげて泣き叫んだ。
「なぜ、分かってはくれないのですか。私は間違っていないでしょう。子どもの頃からずっと、祖父と父と共に山神様を祀り、お慕い申し上げてきた。
だのに、なぜこのような仕打ちをなさるのです。私はただ山神様を、お山を清めようとしただけなのに、なぜ。なぜ、その私にお角を向けるのですか!」
男が嗚咽しながら
顔は涙と鼻水で濡れ、口からはよだれを垂らしている。俺を恨めしげに睨み、弓を握る手がぶるぶると震えていた。
隙を突いて烏丸が銀華を抱き寄せた。そのまま銀華を抱いて少しずつ男から遠ざかる。男は気づいていないわけではなかろうに、それでも俺から目を離さなさった。
「今年の初めに麓に降りてきたマタギから聞きました。雪女かと思ったが、あれは遊里から逃げ出した件の
男は頭を横に激しく振って、弓を雪原に叩きつけた。雪が舞い上がり、男は頭を掻きむしった。
「なんと汚らわしい! いやらしい女だろう! それか山神様の元にいるなど……許せない。不届きな、不浄な者は消さねばならない」
男は光を失ったうつろな目で、烏丸の腕の中の銀華を見下ろした。
「お前は皆の、私の……山神様を穢した。私は褒められこそすれ、咎められる筋合いはないはずだ。そうでしょう、山神様。神にとって、穢れは何より忌むべきもの」
男は銀華から俺に視線を戻した。
男の目に映し出された俺は、再びあの冷たく黒き炎を纏い始めていた。男は見えているのかいないのか、構わず喋り続ける。
「病は罪の表れでもありましょう。なにゆえ梅毒持ちの女に情けをおかけなさるのです。
まさか……本当にこの白子に血迷いなさったか。この汚い、淫乱な、醜い◯△×……!」
途中から男の放つ言葉は、言葉として耳に届かなくなっていた。
「山神」と叫んだ烏丸の声が聞こえたが、やけに遠くに感じた。
穢れとは何だ。
俺にはよく分からなかった。
この世に生まれ落ちた生きものは皆死ぬ。
病で死ぬこともあれば、喰われて死ぬこともあり、歳月を重ね衰えて死ぬこともある。
なぜ病が、死が、穢れなのか。
女の流す血が、穢れなのか。
銀華の、お前の、俺の中に流れる血に違いなどあるのか。
血は、生きる力そのものではないのか。
だとすれば、それは穢れなどではなく。
数多の情動が全身を駆け巡った。
もうそれ以上口をきいてくれるなと願ったのと、黒い炎が目の前で燃え盛り、角まで覆い尽くしたのは同時だった。
「與土!」
大きな黒い塊が地吹雪を上げながら、男に襲い掛かろうとした俺に全身で激しくぶつかってきた。
吹き上げられた雪と巻き起こった風から、烏丸が銀華の頭を腕で庇うようにしてかがみこむのが目の端に映った。
勢いよく雪が高く舞い上がる中で、黒い大きな羽のようなものが見えた気がした。
思いっきり突き飛ばされた俺は近くの木にしたたか身体を打ったが、怒りのせいなのか炎のせいなのか痛みは鈍かった。すぐに体勢を整えて角を構え直す。小山ほどの塊はぶるりと身体を震わし雪を払った。
「……貴様は、鹿島の」
目の前に現れたのは、巨大ななまずだった。
陶磁器のように滑らかな魚皮は、よく見ると黒一色ではなく緑がかった褐色がまだらに入っている。
長く太い四本の口ひげが別の生きもののようにゆらゆらと四方に揺れていた。
なまずは頭のわりに小さすぎる目をぎょろりと動かすと、ばくりと大きく口を開けた。俺を横目で睨みながら勢いをつけて男に向かって大きく跳ぶ。
頭から雪を被り、半身を雪原に埋めた男は、もはや払うこともせずに呆けたように突っ立っていた。
現実離れした展開についていけないのか、逃げ出そうともせずに棒立ちのまま、なす術もなく大なまずの口に飲まれていく。
なまずは男を飲み込むと、勢いよく雪中深く潜っていった。
ごごごごご、と地が震えたかと思うと、地響きが次第に小さくなっていく。
地面の震えが収まっていくのと入れ替わるようにして大きな羽音が聞こえて、白い雪原が黒くかげった。
烏丸が、近くまで来ていた。
大きな烏はその三ツ足に銀華を抱いていた。
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