第104話 予感㊽

 とさっと、ひどく軽い音がして、男の肩越しに銀華が膝から折れるようにして崩れ落ちるのが見えた。

 頭の隅の、いやに冷静な部分が「だから山を降りるのは嫌だと言ったろう」と力なく呟いた。

 今日は銀華の月のものが重くなる日だった。

 岩穴はただでさえ冷える。いつの頃からかそのような日は、陽が落ちてから銀華と共に山を降りるようになった。森の外れに建てられた社に銀華を連れて行き、暖を取らせ夜を明かすようになると、銀華の顔色は目に見えて良くなった。

 社を出る際には人気の無い頃合いを見計らい、日が昇る前には岩穴へ帰るようにしていたのだが、銀華が思うように起き上がれない日がしばしばあった。

 油断をしていなかったといえば嘘になる。

 山へと帰る姿を人に見られたのは、年が変わって数日経った、ぼたん雪が降りしきる早朝のことだった。

 日を追うごとに寒さが増して雪が深くなり、ムラに雪女の噂が立つようになってからは山はもちろんのこと、森や社への人の出入りはほとんど無かった。


「ゆ、雪女」


 後ろでひきつった声がして、弾かれるようにして銀華と振り返る。

 そこには笠を目深に被り、獣の皮を身に纏った一人の男がいた。

 手には長い槍のようなものを携え、足には藁のようなものを巻き付けて山歩きに慣れた出立ちをしていた。見知ったムラの人間ではなかった。

 あの獣の皮はアオシシだろう。

 微かに残った同族の匂いと、銀華の血の匂いで感覚が鈍っていた。

 隣で時が止まったかのような銀華に向かって急いで角を下げ触れさせる。

 銀華はびくっと体を震わせたが、すぐに慣れた手つきで角を掴み俺に跨った。

 銀華の重みを背に感じるやいなや、俺はすぐに駆け出した。一瞬にして男が、社が遠くなり、過ぎ去っていく。

 何かまずいことになる。

 銀華も俺も黙り込んだままだったが、そうお互い思っているのは分かっていた。

 俺たちの別れが迫っていた。

 そう、予感はあったのだ。

 あの時から。

 いや、きっと、銀華と出会ったあの夜から。

 ずっと、俺は、こんな日が来るのではないかと。

 その予感が。


「銀華……!」


 身体に流れる血が熱くたぎり、首の毛が逆立った。

 目の前の光景は到底受け入れられるものではなくて、でも容赦なくただそこに現実は在って、俺は抑えきれずに咆哮をあげた。周りの木々がびりびりと震え、揺れた。


「山神」


 倒れた銀華に駆け寄ろうとする俺を目の前の男が制した。


退け。さもなくば」


 目の端に、身体からゆらりと炎のようなものが立ち昇った。またあれだ、と思ったが今日は止められなかった。それはどす黒く濁っていて、降りしきる雪は澱んだ光の中に次々と飲み込まれていく。

 男は臆することなく俺を見上げた。


「俺を見ろ」


 小柄な男だったが、有無を言わせぬものがあった。男の眼差しに身体から登る黒い炎はたじろいだかのように揺れ、ぶすぶすとくすぶった。足元が微かに揺れ、人の耳には届かぬほどの地鳴りが聞こえた。

 

「……この化け物が、悪いんですよ」


 ぼたんの花びらのような雪片が降り落ちるなかで聞こえた声は、か細く震えながらも怒りに満ちていた。再び首の毛が逆立つ俺を目で制しながら、男が後ろを振り返る。


「山神さんをたぶらかしやがって。お山を荒らして」


 声を震わせ、うつろな目つきでぶつぶつと呟く男の手には弓矢が握られている。

 その前に、銀華がうつぶせに倒れていた。

こちらに向いた顔は血の気がなく真っ青で、まぶたはぎゅっと閉じられていた。背中に刺さった矢と、そこからじわじわとにじみ始めた血が痛々しかった。

 銀華を手にかけたあの男。

 よく知っていた。あれの家族は、曽祖父の代から山で俺の群れや獣を追いかけていた狩猟の民だった。

 あの男が子供の頃、ひな鳥のように祖父の後に付いてよく山に入っていたのを覚えている。

父親に似て狩りは嫌いなようだったが興味はあったようで、祖父が仕留めた獣を捌くのを恐々ながらもじっと見ていた子どもだった。

 男が握る古い弓は、男の祖父が好んで使っていたそれだった。


「烏丸の旦那。あなた様は一体何者なんです。あんなに良い米をこのご時世にどこから。いや、そんなことはもうどうでもいい……あなた様のそれは、まるで」


 烏丸。

 どこかで聞き覚えのある名だった。あれは、確か。

 男がずずっと後退り、怒りから怯えと変わった目で烏丸の足元に視線を落とした。

 烏丸の下半身は黒い袴に覆われていたが、膝から下の部分は大きく裂け、足が剥き出しになっていた。

 烏丸の足は、空を行き交う大鷲のそれとよく似ていた。

 黒々とした硬い鱗で覆われた太い足。指先には濡羽色の鋭い鉤爪が雪の中で滑らかに光っている。

 鷲と異なるのはその数だった。いや、どのいきものとも違うといえる。烏丸の袴から覗く足は二本ではなく、三本だった。

 烏丸は難儀そうに前に屈む。細身の上半身と大きく武骨な足元が不釣り合いだった。

 一つの足を持ち上げ指を開いていくと、鉤爪の中に握られていたのは一本の矢だった。

男はそれを手で持ちかえると、近くの藪の中に放った。


「その娘が雪女なぞではないこと、あんたも分かっていただろう」

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