第103話 予感㊼

 年の瀬も迫った、朝から小雪が散らつくある日のことだった。

 山の中腹に立った、大きな赤い鳥居が西日に照らされ始めた午後、辺りには香ばしい匂いが立ち込めていた。

 参道沿いの店の主は軒下で、ちいさく切った餅を細く割った竹に刺し、炭火で炙っていた。

 炎の爆ぜる音が小気味よく響く中、店の前の腰掛けには二人の男が座っていた。

 一人は赤朽葉色の直垂ひたたれに、鮮やかな若草色の括り袴を合わせた年かさの男だった。男は背が高く、大きな体をやや窮屈そうに折り曲げながら人の良さそうな笑みを浮かべ、ちらちらと空に舞う雪を眺めている。


「……腹が減ったな」


 その隣でぼそりと呟いた男は年かさの男と比べると黒一色と地味な出立ちで、体格も細身で一回りほど小柄だった。歳の頃も若く見える。


「また今日も朝飯食いっぱぐれましたもんねえ」


 年かさの男がそう言って力なく笑ったところで、ちょうど店主が餅を皿に載せてやって来た。

 焦げ目がつくまで炙られた餅は白いみそだれが絡められ、つやつやと輝いて湯気を立てている。数はゆうに十本は超えているが、刺さっている餅は親指ほどの大きさで案外大きくはない。

 若い男はいただきます、と丁寧に手を合わせると、すぐに大きく口を開けて一口で食べた。

年かさの男はその様子を見て思わず目尻を下げる。

早くも二本目に手を伸ばしたの若い男にならって、年かさの男も餅を口に運ぶ。


「これは美味い」


 餅を齧った男は、一層柔らかく微笑んだ。


「だろう。この前見つけた。與土よどにも食わせたかった」


 若い男は満足そうに頷くと、親指で口の端についたたれを拭った。


「こちらは美味なるものばかりで、羨ましい限りですねえ」


 與土は串に刺さった食いかけの餅をしげしげと眺めた。


「おや、お二人さんはどこからいらしたんですか」


 会話を聞いていたのか、新たに餅を炙らせながら気さくに店主が話しかけてきた。


「……はい。ちょいと遠くから参りました」


 與土は笑みを浮かべながらゆっくりと答えた。


「今日はこの辺りにお泊まりで? ……ああ、そうなんですね。でしたら、今宵はお気をつけなすってください」


 麓で木賃宿きちんやどを取っているのだと與土が答えると、店主は何やら親切に忠告を授けようとしているらしかった。「と、いいますと」と、與土が先を促す。


「いやね、出るんですよ」


「出る? 幽霊でも出るんですかい?」


 もったいぶって話す店主に、與土も調子を合わせて返す。


「そんな優しいもんじゃない。雪女が、出るんです」


「雪女とはまた」


 店主は餅を焼く手を止めて大きく頷いた。


「それが昔話の通り、本当に頭の先から爪先まで真っ白だっていうもんで。それだけでも十分気味が悪いっていうのに、そいつは鹿の背に乗って、雪山を我が物顔で駆けているって話なんですよ」


「鹿? 雪女が?」


 火鉢の中でぱちっと炎が爆ぜて、炭が割れた。

 店主は火箸を取り上げると、炭の具合を確かめつつ首を縦に振った。


「その鹿っていうんが普通の奴と比べてもすこぶる大きくて、これまた真っ白。それが昔からこの辺の山を治めていると言われる山神様ときたもんだから、皆んな大騒ぎですよ。神さんが魔性の、もののけの類にたぶらかされて、乱心されたんじゃないかってね」


「乱心とは、穏やかじゃないですね」


 二本目の竹串に手を伸ばしながら與土が応えると、店主は渋い顔で唸った。


「去年もそうでしたがね、今年もすごいんですよ。雪が」


 與土は「ああ」と声を漏らして店主から視線を外して辺りを見回した。

 かろうじて店の前と参道は雪かきがなされていたものの辺りは一面雪で閉ざされ、そこここに掃かれた雪がうず高く積み上げられていた。

 店の両隣にも向かいにも似たような茶店や商店が立ち並んでいたが、どこの店も固く扉を閉ざしていて人気はない。


「この雪で開けているのはうちくらいのもんですよ。降り続く雪のせいで、皆んな店を閉めて麓へ降りちまった。うちだっていつまで開けていられるか」


 店主は空を見上げた。


「去年もかなりの雪が降りましてね。雪の重みで家が潰れたり、雪崩が起きたりして死人も出た。今年は去年よりはまだましだが、それでも被害がちらほら出ています」


「それが雪女のせいだと言われているという訳ですか」


 與土の言葉に、店主はその通りと大きく頷いた。


「山神様はもう百年は生きていると言われている立派な大鹿でね。人目を避けるようになって久しいですが、それでも自分は何度かお見かけしたことがあって。

それはもう神々しくて、見事なお姿なんですよ。

神さんの鹿がいるお山だから、変な荒れ方はしないのだと猟師をしていた祖父が話していました」


 店主は在りし日を懐かしむように微笑んだ。


「……お山から吹く風が変わったのは、あの化け物が現れるようになってからなんです」


 山神を親しげに、愛おしむように語っていた店主の顔が暗くくもり、不穏な影がよぎる。


「そいつは息をのむほど美しい、うら若い女子おなごの姿を取っているらしい。私は見たことがありませんが、見た者は心を奪われてしまうだとか、男は連れて行かれてしまうだとか、妖しげな噂を耳にします。

きっと汚らわしい術を使い、神さんをも惑わして、取り憑いたのでしょう……。忌々しい、化け物が」


 店主は憎々しげに、最後は吐き捨てるように呟くと鳥居の向こう、神社の背後に鎮座する冠雪の大山を見上げた。


「先ほど今宵と言われたのは、今日が満月の晩だからですか」


 しばらくの間、黙りこくって餅を食んでいた若い男が口を開いた。

 店主はそこで彼の存在を思い出したかのようにはっとした顔で山から男へと視線を移した。はたしてもう何本目になるのか、若い男はまた串に手を伸ばしている。


「左様で。満月の日になると、化け物が山の上から降りてくると言われているんですわ。そこの鎮守の森でも化け物を見かけたという人が多くてね……。さあて、まだ早いが今日はうちもお客さん方を最後にすることにしましょう」


 店主はそう言うとちらりと店の中へと目を走らせた。

中はぼんやりと薄暗かったが思いの外広く、座敷の席や床の間もあるようだった。やかんが掛けられた囲炉裏にはか細い火がちろちろと燃えていた。


「客足も減りに減ったもんで。最近は表だけで、中は開けてないんですわ」


 つられて中を見やった與土に、店主は「だから明かりも絞ってまして」と言い訳するように早口で言うと、そそくさと片付けに入ろうとした。


「あの、店仕舞いする前にそれを」


 若い男は、店主が今の今まで焼いていた餅を指差した。

 最初に出した皿には食べ終わった後の串が十数本、涼しい顔をした若い男の隣で、二本だけ串を持った與土が苦笑いしている。


「若い旦那はまあ、よく食べますねえ」 


 店主は強張っていた表情をようやく和らげると、また皿に景気良く盛って寄越した。

 若い男は持っていた包み布を解くと、中に入っていたものを取り出し店主に差し出す。


「こんなに。いいんですか」


 中を見て仰天した店主に、若い男は「お代です」と言ってまた餅を食べ始めた。


「ありがたい。この雪で、食べる分の米を手に入れるだけでもひと苦労だったもんで。いやいや助かりました、本当にありがとうございます」


 しきりに拝む仕草をしてみせる店主に、若い男はいやいやとちいさく首を振った。


「礼よりも、まだ火を落とさずにいてもらいたいのですが」


 男はそう言うと、餅を口に咥えたまま腰掛けから立ち上がって火鉢に手をかざした。

 米にすっかり気を良くしたのか、店主は「もちろんです」と言うと、店の中から炭を持ってきて火を大きくしてくれた。うちわで仰がれた火がぱちぱちと音を立てて燃え上がるのを見て、若い男の口許が緩む。

 それを見ていた與土は微笑むと、店主に向かって丁寧に頭を下げた。


「ありがとうございます。烏丸さんは、何より寒いのが苦手でして」

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