放鳥

山田あとり

籠の鳥の望み


 皇帝スルタンに抱かれる時は子ができぬよう気をつけている。

 お渡りの報せがあれば、黒人の宦官などに気づかれぬよう、こっそりと薄い布を奥に詰める。皇帝の精を受けないように。


 子など宿しては、殺されてしまう。皇子の母ハセキ・スルタンは敵が増えるのを望まないから。

 そうなれば毒を盛られるか、ボスポラスの海に沈められるか。


 ろくな後ろ楯もなく、密偵となる宦官を養う伝もなく、身を守る知恵も力もない。

 東の果ての草原から買われてきた私などが成り上がる夢を見てはならない。


 そもそもお手付きギョズデになどなりたくなかった。

 皇帝を愛おしいとは思えない。

 故郷の剽悍な男達とは違う、むくつけき身体つき。薄い色の毛がモワモワと覆う肌。

 何もかもが私とは違う。


 気まぐれに私の肌理きめ細かくツルリとした身体を愛で、細い腰を貪る男。

 私の中は狭いと嗤いながらギチギチと私を責める男。

 私はただ、それが通り過ぎるのを待つしか許されていない。




 ここは文明の十字路。

 アジアとヨーロッパ、アラブ世界とスラブ世界の交わるところ。


 だから私のような、異国から来た奴隷女がハレムにはたくさんいる。

 代々の皇帝も、その奴隷女の腹から生まれた。皇帝には、あちこちの美しい女の血が混ざっている。


 もうここは誰の国なのかわからない。

 でも、私の国ではない。




 東の絹の国から来たという使者の謁見に引き出されたのは皇帝の気まぐれだ。

 東の民も自分のハレムに集っているのだと誇示するつもりだったのだろうが、私は全身に布をまとっている。皇帝以外の男に見せる姿をハレムの女は持っていない。


 彫りの浅い顔立ちと黒い瞳。華奢な身体つき。

 それで私の出自をうかがわせるには充分かもしれないが、残念なことに私は絹の国の者ではなかった。

 それより北の、草原の民だ。

 絹の国の言葉で話されても私にはわからない。


 幼い頃にこちらに参りましたので、もう言葉も忘れてしまいました。


 そう申し上げて、皇帝の庇護にすがる、か弱い女のふりをする。

 抱いた女の出自も知らぬ愚かな男の顔を立て、女など交易の品ぐらいに思っている使者の愛想笑いに頭を下げ、私はゆるゆると退出した。


 ハレムに戻されるその時にも、ヴェールに包んだ私の頬を、風は撫でない。

 目ばかりで空を見上げても、回廊に切り取られた狭い青は薄く、遠い。




 草原の天空テングリの青は近く、私を包んでいた。

 どこまでも風が駆ける空。それを忘れるわけがない。黄金の籠の鳥と成り果てても。


 この鳥籠ハレムの窓に嵌まる格子をすり抜けたなら、私は飛んでいけるだろうか。

 広い、あの青まで。


 その考えはあまりに魅惑的だった。

 私は瞳を見開き、ヴェールの下で笑った。

 そうだ。もういい。

 もう、還ろう。あの深い青い空へ。




 私室の窓の飾り格子は、取れなかった。私は本当は小鳥ではないので、すり抜けることもできない。

 あらためて見てみると、そんな窓ばかり。大きな窓は高く、届かない所にしかない。

 ここは厳重に女達を捕える鳥籠だった。


 私は飛びたいのだ。

 毒を呷るのではなく、海に沈むでもなく。

 飛ばなくてはならない。


 高い建物には行かせてもらえない。

 庭を歩くにも周囲から覗かれぬように幕が引かれてどこにも逃げられない。その幕の向こうにも壁があるというのに。

 遠くに建つ尖塔ミナレをこんなに恨めしく眺めたことはない。あそこに登れればいいのに。




 絶望し消沈する私を救ったのは、意外にも皇帝だった。

 哀しみにとらわれた顔の私を、次の行幸に連れて行ってくれた。海に向かって開けた離宮だ。


 何故?

 人も少なにして、フワリと私をそこに放つ。


 スルリ。

 ヴェールを脱ぎ捨てて歩き出した私を、皇帝は見送った。

 少し行って振り返る私を、皇帝は静かに見つめていた。




 行けと、言ってくれるのですね。

 ありがとう。

 私を空へ逃がしてくれて。


 私は初めてあなたを解った気がした。あなたも囚われの身なのだ。


 ごめんなさい。

 ありがとう。

 私は行きます。



 微笑んだ私は駆けて、崖から空に飛んだ。懐かしい、あの天空テングリへ。






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放鳥 山田あとり @yamadatori

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