366 唐辛子のソフトクリーム
炎天下、蝉時雨。
僕は区役所の玄関前に茫然と立っている。
向こうから女性が手を振りながら走ってくる。
「山翔さーん」
…あ、いた。
「ごめんごめん。私、本籍、間違えとったじゃろ。外に出て、おばちゃまに電話で聞きよった」
「え、あ、そうなん。区役所の人に、戸籍が見当たらんとか言われて、振り返ったら消えとるんじゃもん。一年間、幻を見よったんかと思うたよ」
「幻でも現実でもええじゃん。さ、婚姻届を書き直しに行こ」
窓口でそれぞれの戸籍謄本を出してもらう。彼女は一人戸籍になっていると思っていたらしいが、亡くなったお母さんの籍にそのまま残っていたようだ。僕も僕の戸籍を初めて見た。父さんを筆頭に、母さん、僕、そして、弟の名前。
二枚の謄本を婚姻届に付けて提出、受理してもらった。
区役所を出る。
「今夜は、お店で結婚パーティじゃけんね。おばちゃまが全部、やってくれるとは言ったけど、ちょっと心配」
「もう、任せちゃえば。母さんもグエンさんたちも手伝ってくれとるし。今夜は僕らが主役、アゲハとサヌなんじゃけん」
グエンさんたち四人は、間もなく帰国するらしい。その前に、恩返しをしたいと言ってくれている。
「そか。じゃあ、国道沿いのスイーツ屋さんで、あの唐辛子のソフトクリームが新発売になったんよ」
「なんなん、唐辛子のソフトクリームって」
「言ってなかったっけ? お母さんからも聞いてない? お母さんたちのグループが開墾した農地で取れた唐辛子が原料なんよ」
「そうなん。そういえば、家に帰ったら、いっぱいタカノツメが干してあったわ」
「日本中の農地でイノシシやシカの獣害が問題になっとるじゃろ。それで、そいつらが食べん作物として、唐辛子栽培が流行ってるんよ」
「なるほど。イノシシやシカは唐辛子嫌いなんじゃ。辛いもんね」
「鳥には食われるらしいけどね。で、もう、あちこちに産地ができとるけん、なんか面白いことをせんと、特産品にならんじゃん」
「特産品、作ろうとしとるん」
「あれ、それも言うとらんかった。お母さんのアイデアよ。こないだ初めてまとまった収穫があったんよ。お母さんは、全部ソフトクリームにすることにしたんよ」
「なんで、ソフトクリームなん?」
「ソフトクリームは持って帰れんじゃろ。そこに行って食べるしかないけん、評判になると、遠くからでも人が来るようになるんよ」
「ふーん。よその店でやるん?」
「もちろん、お母さんはうちの店で出してほしいって言うてくれちゃったよ。でも、これは地域活性化じゃけん。うちの店は場所が分かりにくいし、駐車場が少ない。遠くから来る人を想定したら、私はあの店がいいなと思って、交渉したんよ」
「地域のために。えらいね」
「『純喫茶ぎふまふ共同開発』、『ぎふまふ農場の唐辛子』とは書いてもらっとるけど。ちゃっかり」
「へえ。唐辛子のソフトクリームって、辛いん?」
「実はカレー味。私が調合したんよ」
「カレー味のソフトクリーム…ますます、イメージできん。美味しいん?」
「私が作るものに不味いもんがあったか?」
「くさや…」
「あれはただの失敗」
二人は笑った。
「あのさ、切りのいいところで、広島に帰るよ」
「え、警察は?」
「辞める。一緒に喫茶店とハーブ畑やらせて」
「一緒に暮らせるん? ずっと一緒におれるん?」
「うん」
…ずっと一緒におるよ。
…私も離れんけんね。
祝福するように、二人の上を黄色い蝶々が飛ぶ。
この幸せが夢ならば、僕は眠り続けたい。
目を閉じると、エンドロールに「草原の乙女」のイントロが流れ始めた。
―風に吹かれて 揺れるメリッサの 花のような
君の笑顔に 出会えた喜びを 神様に感謝して
小さな魔法をかける 君の背中に
この気持ちが終わらないように
夢で見ていた 君との口づけに ときめきを解き放つ
地平に消える長い道 緑の草原に
透明な風 青い空 真っ白なメリッサの花
君が好き 君が好き
溢れる思いをもう止めない―
この未完の奇譚には、いったいどんな結末が用意されているのだろう。
●登場人物紹介
●伊藤山翔(いとう・やまと)
「僕」という一人称で、物語の話者となっている。岡山県警刑事部の巡査長二十七歳。愛称はヤマショウ。メンタルを病んで休職し、郷里の広島に戻る。立ち寄った喫茶店で気分が悪くなり、休ませてもらい、そこで不思議な夢を見る。休職中、店を手伝うことになり、店主・美沙子に惹かれていく。
●林田美沙子(はやしだ・みさこ)
純喫茶ぎふまふの店主、三十歳。愛称はリンダ。調理師に加え、薬剤師と管理栄養士の資格を持つ。以前から山翔を知っていて、好意を抱いていたらしい。
●君島三佐子(きみじま・みさこ)
美沙子の親友で、菊池塾出身。愛称はサンザ。フォトグラファーとして世界を飛び回っていた。高校の頃から、山翔のことが好きで好きで堪らなかったが、数年前に死亡。
●菊池時彦(きくち・ときひこ)
純喫茶ぎふまふのオーナーで、先代の店主。小説家でもある。喫茶店をやる前はその建物で、中学生専門の塾を経営していた。山翔も美沙子もその塾の卒業生であるため、塾長と呼ばれる。遷延性意識障害で寝たきりとなっている。
●母さん
伊藤裕子(いとう・ゆうこ)。山翔の母親。五十代らしい。夫は心筋梗塞で亡くなっている。地域のお年寄りと一緒に、地域活動をしている。料理の話で美沙子と意気投合。
●弟
伊藤武瑠(いとう・たける)。十二歳で病死した、山翔の弟。サンザのファンだった。ある夜、山翔と美沙子と母さんが、同時に同じ夢を見る。その夢では、亡くなったサンザと武瑠は、異世界に行き、結ばれて幸せに暮らしており、間もなく子どもが生まれると言う。
●工場長
村上真也(むらかみ・しんや)。純喫茶ぎふまふの朝の常連客。毎朝、山翔を激励してくれる。
●おばちゃま
君島小夜子(きみじま・さよこ)。昼下がりの常連客。サンザの叔母で、スナックを経営している。身寄りのない同士、姪の親友である美沙子にも心を砕く。
●郷土史会の会長
畠山庄司(はたけやま・しょうじ)。占いママと同じ時間にいる常連客。塾長の友人で、町の生き字引と呼ばれている。
●グエンさんたち
東南アジアからの技能実習生。店には紺色の服のグエン・ヴァン・ダットさん、緑色の服のグエン・ヴァン・タインさんが来る。二人のガールフレンドであるホー・ティ・マイさんとレー・ティ・ランさんは、工場長の工場で自動車部品を作っている。
378 カレーおはぎ
七月十三日日曜日。
武瑠との約束の日だ。
ちょうど一年前、夢で見たとおり、現実に武瑠とサンザが現れた。
忘れることはなかったが、時間が経つにつれて、現実とは思えなくなっていた。
約束の「さつま汁とカレーの宴」の準備をしながらも、半信半疑。
「ほんとにまた、武瑠の会えるかねぇ」
母さんが言うと、美沙子さんが答える。
「そうですねぇ。一緒に見た夢の続きのようにも思えますよね」
「それでも、ええじゃん。また、集団妄想しよ」
僕はそう言って、不安を紛らわせた。
三人はぎふまふ号に乗って、山に向かい、いつものところに車を止めると、母さんは風呂敷を解いて重箱を出した。
「今日のおやつは、カレーおはぎよ」
「なんなんそれ。また、変なものを。朝からおはぎを作りよるのは見たけど、なんでカレーなん」
「まあ、食べてみんちゃい」
美沙子さんが母に一つ渡してもらいながら聞いた。
「きな粉おはぎみたい。オリジナルですか」
きな粉に見えるのがカレー粉のようだ。においは明らかにカレー。
「かなり、思いつき」
「山翔さん、先に食べてみて」
そう言われて、恐る恐るかぶりつく。二秒後、舌に激痛が走った。
「辛!」
「そこの畑で作りだしたハラペーニョ、初収穫よ」
「なんで、それをおはぎに入れよう思うんや」
美沙子さんも食べ始めた。
「辛!」
「じゃろ。母さん、味見した?」
「今から」
「あれじゃ」
しかし、美沙子さんは食べ進んだ。
「お母さん、これ、口の中でカレーライスになります」
「なるほど。おはぎの中身はもち米とご飯を潰したもんじゃけんね」
そう言われて食べると、中の餅部分に油を吸わせているらしく、カレー粉とご飯粒をつないで、確かに「口の中がカレーライス」になった。
「しかし、辛い! 汗が噴き出してきたわ」
三人は一個ずつ食べた。武瑠とサンザさんの分は普通のおはぎらしい。
山道を歩き始める。
ハーブ畑への見慣れた道。特に母さんは唐辛子栽培で、去年から何度も来ている。
「何回来ても、どこに極楽天神への分かれ道があるか分からんのよ」
「そうなんですよね。ここに来るたびに見るんですけど、ないんですよね。やっぱり集団妄想だったのかなと思ったりします」
僕は立ち止まった。周辺の雰囲気を覚えている。
「たぶんここだよ」
一応、塾長がノートの切れ端に描いた地図を見た。
「え、全然分からん」
「呪文を唱えてみて」
美沙子さんは、塾長の小説を開いて呪文を唱えた。
「ナムアフ・サマンタ・ヴァジュラナム・ハム!」
煙のようなものが視界を遮り、晴れると分かれ道が現れた。その先、赤いテープが巻かれた木が見える。
少し歩く。
「赤ちゃんの泣き声みたいなのが聞こえん?」
母さんが言うと、美沙子さんが怯える。
「やめてくださいよ。私、ビビリなんで」
確かに聞こえる。僕が「鳥かな…」と恐怖をなだめようとしたが、母さんは遠慮なく「いや、赤ちゃんの声みたいなね」と元に戻す。
赤テープに導かれて進むと、声はだんだんはっきりしてきた。
そして、極楽天神に到着した。
声は滝壺から聞こえる。走り寄ると、白いおくるみに包まれた赤ちゃんが、滝壺の中州で泣いている。僕は靴を濡らして水に入り、赤ちゃんを抱え上げた。小さな体は頭からびっしょりと濡れている。
蝉時雨が「扉を開けろ! 呪文を唱えろ!」と叫ぶ。
「美沙子さん、鍵!」
今度はロザリオの鍵で錠前を外す。扉を開けると、中には「大蘇鉄」の実。
「美沙子さん、長い方の呪文!」
地図の書いてあった塾長のメモの裏に書いてある。
「オーム・アモーガ・ヴァイローチャナ・マハームドラ・マニ・パードマ・ジヴァーラ・プラヴァルターヤ・フーム! ぎふまふ…」
滝壺の水が引いた。
水底から死装束の男女、死んでいるように見える。うつ伏せで顔が見えない。
三人には、その二人が誰だか分かっている。
美沙子さんは大蘇鉄の実を口で咀嚼して、その二人に口移しした。
「武瑠…」
「サンザ…」
二人は大きく息を吸い込んで、吐き出しながら、ゆっくりと目を開けた。
おわり?
純喫茶ぎふまふ奇譚 勢良希雄 @serakio
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