第5話

 かわいいな、だなんて。

 興味のカケラもないただの先輩に言われたらどう思うのだろうか。そんなものは考えるまでもなくはっきりしている。


 不気味に思うか、恐怖を抱くことだろう。


 それを俺はついつい場の流れに乗せられて言ってしまったのだ。あの後、家に帰る途中も家に帰ってからもずっとそのことが気になって頭から離れない。


 もしかするともう、後輩はここを訪れることは無いのかもしれない。そう思うと、僅かな寂しさを覚える自分がいた。


 いつ始まったかは覚えていないけれど、ふらっと部室に集まってはくだらないことを話すこの関係を、俺は割と気に入っていたのかもしれない。


 部室に響く時計の針の音。

 遠くから聞こえる声や音に反応しては、開くことのない部室の扉を見てため息をつく。

 俺の目は手元の文庫本の紙面を滑るばかりで全く集中出来ない。諦めて本をぱたりと閉じた時。


 廊下から足音が聞こえた。

 おそるおそるという様子ではなく、何か意思を持っているようなしっかりとした足取り。後輩のものだろうか。

 ……いや、いつものそれとは明らかに違う。もしかすると怒りが足音にも現れているのかもしれない。


 なんと言って謝ろうか。

 気持ち悪いこと言ってすみませんでした? 

 ……それは余計に気持ち悪い気がする。

 ここは先輩らしく、『かわいいな? あぁ、そんなの毎日言ってるよ。家庭の事情でね』くらいの余裕を見せるべきか。どんな事情だよ。


 くそ。何も思いつかない。

 足音は部室の前で止まる。だらだらと嫌な汗が流れるばかりの俺の視線の先で、扉は開け放たれた。


 そこには。

 見覚えのない女の子が立っていた。

 ややギャルっぽい感じの見た目。リボンの色からして一年生らしい。気の強そうな目元と、印象的な涙ぼくろに色白の肌……。


 ――そこで、背筋がぞわりと粟立つ。

 見覚えの無いはずだったその女の子は。

 まさか。


「あ、有紗。ちょっと待ってってば」


 遅れてもう一人、聞き覚えのある声がした。

 後輩のものだ。その言葉で俺は確信する。

 今目の前に立っている彼女は。


「初めまして。あ、私一年の大前おおまえ有紗ありさです。ちょっと私の友達のことで話があって来たんですけど…………って。あれ?」


 目の前に立つ大前有紗と名乗った女の子は、俺の顔を見て首を傾げた。

 鼓動は速度を増していく。勘違いであって欲しかった。けれど、その名前。その表情。制服こそ違えど、間違えるはずがない。だって彼女は。


「……ちょ、ちょっと待って。まさか」


 大前は目を見開くと、そう小さくぼやいた。


「どしたの有紗? 急に固まって。で、先輩はなんなんですかその変な顔は。……もしかして、二人は知り合いだったとか?」

「い、いや。なんと言うかだな」


 俺は気づかれないという一縷の望みにかけて違和感のない変顔を試みるが、みるみるうちに大前の表情が険しいものに変わる。どうやらダメそうだ。

 

 無言で見つめ合う俺と大前。

 流れる汗を袖口で拭う。大前も確信したのか、視線が泳いでいる。

 

「有紗? 先輩? ど、どうしちゃったんですか?」


 交互に視線を向ける後輩をよそに俺の思考はフル回転していた。

 

 これは、俺の黒歴史だ。いや、こんなものは誰だって経験するはずの甘酸っぱい青春の1ページに過ぎないのかもしれない。

 大前有紗は。彼女は、俺が中学の時に告白し、一瞬付き合って即フラれた相手なのだ。


 なんで大前がここに。

 同じ高校に入学したことさえ知らなかった。いや、選択肢としては俺たちの中学からなら十分あり得ることだ。ことなのだが、何もこんなところでこんな時に出会う事もないだろう。


 後輩になんと説明すべきか。

 明らかに違和感のある空気を破ったのは、大前の方だった。


「ちょっと。こっちいいですか」


 つかつかと距離を詰めたかと思うと、大前は俺の腕を掴んで部室から連れ出す。揺れた髪の毛から甘い香りがした。


「有紗? 待って待って。ど、どうするつもり? こ、困るんだけど」


 通り過ぎようとした大前の腕を、今度は後輩が掴む。なぜか慌てた様子の後輩は俺の方をちらと見てからすぐに目を逸らした。


「…………芽衣。私に任せといて」

「有紗? しょ、初対面だよね? え、固まってないで先輩もなんとか言ってくださいよ! どういう関係なんですか二人は!」

「芽衣。詳しいことは後から話すから。私に任せておけば全部上手くいくから」

「そっかあ! 分かった! ……ってならないでしょこんなの! 不安でしかないんだけど!」

「言ったでしょ。一発かましてやるって」


 グッと大前が震える右手を握る。

 どんな会話をしているんだこの後輩たちは。


「いきなりそんな。ご、ゴリラだよそんなの! 有紗の白ゴリラ!」

「だっ、誰がゴリラよ!」

「ふっ」


 思わず笑ってしまった俺に二人からの視線が刺さる。しまった。こんなに慌てる後輩も、大前も見たことがなくてつい。


「……先輩。ヘラヘラ笑ってないで早く説明してくださいよ。有紗も」


 その笑いが後輩の逆鱗に触れたのか、凍てつくような視線と声が向けられる。


 説明しようにもなんで言ったらいいんだ。俺たち一瞬だけ付き合ってましたってか? 別に後輩にとやかく言われることではないが、大前から恨まれる可能性がある。彼女にとっては黒歴史になっているかもしれないのだから。

 それとも何もなかったのだから、正直に言うべきなのか? どっちなんだ。


 大前と目が合う。彼女は下唇を小さく噛んだかと思うと、俺を見て頷いた。続けて、後輩の方へと向き直る。


「芽衣。実は私とこの先輩、会うの初めてじゃないの」


 大前の表情は見えない。後輩はやっぱりとでも言わんばかりに呆れたように頷いた。


「……だよね。明らかに様子がおかしかったもん。それで? どう言う関係?」

「じ、実はさー、中学の時同じ学校で」

「え! そ、そうなの? 別にそんなの隠すことでもなんでもないじゃん」

「う、うん。それでさ、私」


 思わず息を呑む。

 手のひらが汗ばむのを感じた。

 あとはもう、大前に任せるしかないのだ。


「実はこの先輩の恋愛相談、乗ってあげてたんだよね」

 

 …………なるほど。

 たははと笑う大前のその言葉で、彼女の伝えたいことを理解する。俺たちが付き合っていたことは絶対に秘密だと。そういうことだな。


 ふと視線を向けたその先で、後輩と目が合った。どうしてか彼女は驚いたように目を見開いて固まっていて。

 けれど次の瞬間には、いつものように悪戯っぽく笑って彼女は言った。


「なにそれー。詳しく聞かせてもらいますよ。先輩? ほら、有紗も入って」


 後輩に連れられ俺たちは部室へと入る。

 彼女の背後で大前は気まずそうにこちらを見てそっと頷き。俺もまた、彼女へと小さく頷き返した。

 


 

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今日も後輩は俺に聞いてくる アジのフライ @northnorthsouth

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