脚光
WHat
実行犯
◎9月14日(土)
話にならない。田淵は電話を切った。通話相手の男はまだ何か言いたげであったが、知ったことではない。舌打ちが口を突いて出る。近くのベンチに腰掛けていた老夫婦が怪訝そうな顔をこちらに向けてきたが、気にする余裕は無かった。
住宅街の中央に位置する公園、その隅に彼は立っていた。土曜日の午後だからなのか、日焼け姿の少年達がボールを転がして走り回っている。普段の穏やかな風景さえも今の彼には羨ましく映った。
ふと足元に目をやると、少し潰れた空き缶が転がっていた。自分が買ったのか、それとも他の誰かが飲んでいたのか。記憶が曖昧だった。屈んで拾う気にもなれない。それでも彼の視線ははごみ箱を探して彷徨った。
グラウンド内から小さな歓声があがった。見ればボールを持った少年が相手側の守備を抜け出し、キーパーの少年と向かい合っている。他の少年達が言語を成さない声を投げかける。彼らの発する熱がこちらまで伝わってくるように感じた。
ごみ箱はすぐに見つかった。先程の老夫婦が座るベンチのすぐ横。普段ならば苦に思うことなく歩いただろうが、今はそんな気になれない。
無意識のうちに彼は缶を蹴っている。いや、実際はその一振りに日頃の鬱憤のようなものが込められていたに違いないが、とにかく微かな金属音が耳に届いた。ごみ箱に向けて描かれた放物線を目で追う。
一瞬の出来事だったのだろうが、田淵にはとても長い時間のように感じられた。そしてその直後に空き缶がごみ箱の中に消え、キーパーの少年がシュートを阻止する。ごみ箱から響く心地よい音も、少年達のどよめきでほとんど聞こえなかった。
人知れず田淵は拳を握った。キーパーの少年の感じたそれに比べれば微々たるものだろうが、心中の棘が取り除かれたような爽快感を覚える。もちろん一時の気晴らしに過ぎない。
視線に気づいて顔を向けると老夫婦と目があった。彼らは田淵が起こした小さな奇跡に感嘆の声をあげることはない。声を出すまいと堪えているような様子さえあった。向こう側で再びボールが蹴り出されると、夫婦の意識はすぐさまそちらに向いてしまった。俺には称賛される権利もないのかと思う。すでに感情は冷め切っていた。
いつの間にか時刻は午後四時を示していた。「仕事」の時刻までおよそ一時間。彼はジャケットの内側を確認すると、公園の出口へと歩きだす。
三度公園が沸いた。ファインセーブの効果からなのか、守備一辺倒だったチームがあっという間に敵陣営を突破してゴールを奪った。老夫婦が傍から大きな拍手を送っているのが聞こえる。
田淵は公園をあとにした。
アパートが立ち並ぶ細い路地を通って国道に出る。車の往来はまばらだった。数回歩行者とすれ違っただけで、スムーズに目的地へと向かう。先週下見に訪れたときとほとんど変わらない街が広がっていた。
田淵は何も考えずに歩き続けた。「仕事」のことを意識することは避けたかった。出来る限り頭の隅に追いやって、それでもなおその存在を感じ取りながら目的の銀行に向かう。
ジーンズのポケットが小さな音を立てて振動する。田淵はスマートフォンを取り出した。画面に表示された発信者を見て顔をしかめる。数十分前に電話をかけてきたばかりの男の名前が画面に表示されている。歩道の少し先の方に顔を向けた後、通話を許可した。一方的に電話を切ってしまった罪悪感もある。
もうじき着くだろうな、と男が言ってくる。田淵は奥の建物を見た。銀行にほど近い場所まで来ていた。「俺を監視しているのか」周囲を見渡すが、歩行者の中に怪しげな人物は見当たらなかった。
男が笑いながら「お前の行動を逐一把握するほどの人員はいないし、その必要もないだろ」と口にした。それもそうだな、とだけ答えておく。全てを信用するつもりはない。
その後は公園での連絡と変わらない話を聞く時間が続いた。喉まで出かかった不満をなんとか飲み込む。計画に今さら変更のしようがない。それなりに覚悟は決めていた。
そういえば、と通話終了の際に男が言った。「協力者は既に銀行内に入った」「今は待合室のソファで待機している」
「よく知ってるな」と田淵は言う。「まるで監視役が付いてるみたいだ」
意外だと言うように男は応える。「そりゃ俺達は強盗団だ。大事な計画が首尾よく進んでるか見ておく必要はあるだろう」
「そうか」とだけ口にする。そう口にするので精一杯だった。話の矛盾はもはやどうでもいい。
音声が途切れた。スマートフォンをポケットに突っ込む。漏れ出たのは苦笑いなのか溜息なのか。
強盗。この二文字が彼の目の前に突きつけられた。嫌でも直視しなければならない事実だ。とても自分がこれから手を染めようとしているものだとは思えない。
ふと妻子の顔が浮かんだ。今年で四歳になる息子は、木製のおもちゃを積み上げて遊んでいる。笑顔と真剣さが入り混じったような表情は可愛さがあった。対照的に妻は呆れた顔で「仕事は見つかったの?」と聞いてくる。数か月前田淵がリストラにあってから毎日のように繰り返された言葉だ。その度に彼は「大丈夫」とだけ答える。
大丈夫?彼は自嘲した。実際のところ、不景気の影響で再就職先は簡単には見つからなかった。生活は日を追って苦しくなる。その現実を目の当たりにしても、無責任な言葉しか吐くことができない自分を情けなく思う。そして困った末に、情けない決断をしてしまった。職業は銀行強盗。どうあがいても誇れるものではないだろう。
大丈夫、大丈夫。その言葉を反芻する。本来の効き目はほとんどない。味のしなくなったガムを噛み続けているような気持ちになりながら歩いた。
ほんの数十メートルが遠い。ジャケットは体熱を閉じ込めて不快感を演出していた。ようやく銀行の前にたどり着いたときには異常なほど息があがっていて、思わず胸のあたりを掴んだ。呼吸を整えようとするがうまくいかない。しばらくして田淵は自分が緊張していることに気づいた。
「怖いのか」と自分に問う。お前は今さら罪を犯すことを恐れているのか、と。
その通り、というのが彼の答えだ。
駐車スペースを横切って入り口を目指す。ゆっくりと、しかし立ち止まることなく。一度辞めれば二度と歩けなくなりそうだった。
一気に銀行内に飛び込もうとして少し躊躇う。ガラスの扉に設置されている開閉ボタンに手を伸ばしたり引っ込めたりしながら、タイミングを計る。
「あの」と後ろから声がした。振り返ると小さな男の子を連れた女性が立っていた。「お入りにならないんですか」
すみません、どうぞお先に、と言おうとして、その母子を見つめるうちに気が変わった。「今」と口走っている。「今、機械トラブルで入店できないらしい」
見え透いた嘘ではあったが、女性は「そうなんですか、ありがとうございます」と言って、子供を連れて去っていった。田淵は安堵する。これから起こる衝撃的な出来事に、彼女達を巻き込むことは避けたい。
振り返って再び扉と向かい合った。逡巡して、目出し帽は被って入ることにする。
開閉ボタンを押し、開き始めた扉の隙間に身体を滑り込ませた。中にいた数名の客と従業員は突如現れた覆面の男の存在に気がついたものの、状況が理解できていない様子である。間髪入れずに田淵は内ポケットからモデルガンを取り出した。
「動くな」と短い声を発し、奥のカウンターに近づいていく。彼から見て一番手前のソファに座っていた男性客が「拳銃だ」と口にすると同時に、驚きと恐怖の入り混じった悲鳴が銀行内を包み込んだ。人間は一度信じ込むと中々意志を変えようとしない。
反射的に逃げ出そうとする客を視線で制しながら、カウンターの前に腰を下ろす。手に持ったバッグを乱暴に置いた。既にこちらのペースだった。通報された様子もない。
従業員にカウンターから出てくるように指示すると、四名の男女が両手を挙げて待合室までやって来た。その姿はどこか滑稽に見える。全員をソファに座らせ、人数を数えた。人質は十一名。予期していた通りだ。
田淵は机上に立ちあがり、天井に吊るされた防犯カメラを叩き壊した。黒い塊が床に落下する鈍い音がしたのち、静寂が訪れる。人質の誰もがこの光景を現実のものとして捉え始めていた。彼らの吐息すらもこちらには聞こえてこない。
田淵は支店長の名前を呼んだ。名前は下見のときに確認しておいた。五十代前半の、頭髪が薄くなった中年男性は居眠りを注意された生徒のように体を震わせて返事をする。「ここにある金をあるだけ用意しろ」と言うと、彼は力なく立ち上がって作業を始めた。
バッグをカウンターの向こう側に投げて寄こす。支店長は金庫から取り出した札束を慎重な手つきでそれに入れていった。少し離れた場所からでも、手にする札束が小刻みに揺れているのが分かる。
何かが倒れる音がして田淵は振り返った。金髪の男性客が待合室の床に突っ伏していた。慌てたように立ち上がりながら、隣に座る客に向かって「お前が足を出すから転んだんだ」などと恨み言を述べている。大方逃げ出そうとして足を取られたのだろう。
「動けば撃つ」と銃口を向ける。彼は悪かったよ、と呟いてソファに座り直した。他の客達も逃げ出すことはできないと観念したのか、俯き気味に腰掛けている。微かな泣き声も耳に届いた。
支店長がバッグを両手に持って立ちすくんでいた。カウンターに置かせて中を覗く。折れ目のない札束が、容量一杯まで詰め込まれていた。一億円は優に超えるだろう。まだ金は残っているはずだが、運搬の都合上仕方がなかった。
バッグを掴んでカウンターから飛び降りる。支店長は指示する前に自分から待合室に戻った。何もかもスムーズだ。
田淵は待合室を見まわした。ようやく終わった、と思う。疲れと同時に達成感が感じられた。あとは逃走するのみ。しかしそれには車が必要だった。
彼は銃口を客の一人に向けた。先程、脱出に失敗した男性に非難されていた客だ。田淵と同年代に見える。「車は持っているか」
「持っている」とその客は答えた。「運転しろ」と続けて命じると、彼は立ち上がった。銃口を彼の後頭部に付けたまま、出口に向かう。他の人質はこちらを見てこない。ただ無言で固まっていた。
外に出ると空は淡い赤色に染められていた。駐車スペースには車が三台停まっている。彼はその一つを指差した。黒のセダンだ。
助手席のドアを開けて彼を奥に押し込むと、田淵は助手席に座る。持っていたバッグは後部座席に放リ投げた。「早く出せ」と急かした所で、田淵は彼が笑みを浮かべているのに気づく。「何がおかしい」
「まだ演技が必要なのか?」と運転席の彼が口にして、ようやく田淵も笑みを浮かべた。舞台の幕は既に降りている。「それもそうだ、桝本」そう、彼は協力者なのだ。予め客として店内に待機していた。
桝本はシートベルトを手際良く装着するとエンジンをかけ、軽快にアクセルを踏んだ。セダンは二人を乗せて国道を走り出す。
「それにしてもお前は良くやったよ」と桝本が言った。「ミス一つない」
田淵は笑いながら「桝本のおかげだ」と返す。典型的な社交辞令ではない。彼が人質の逃走を見逃していたなら、今頃は警察に取り囲まれていたかもしれなかった。
景色を後方に置き去りにして、指定されたコンビニに向かう。途中、対向車線を走るパトカーとすれ違った。通報を受けて現場に向かっているのだろうか。犯人は人質と共に車で逃走したという証言が出るはずだ。車種やナンバーまで割り出される可能性もあるが、問題はない。コンビニの駐車場で別の仲間に現金を引き渡せば、二人の任務は終わるという計画だった。
「バッグはどうした」と桝本が聞いてくる。田淵は後部座席を指で示した。一億はあるなと付け加えると、彼は目を細めた。「それだけあれば十分だな」
その横顔を見ながら田淵は、彼がどうして強盗団に参加したのか興味を持った。打ち合わせで顔を合わせてはいたが、彼について田淵はほとんど知らなかった。彼も仕事に困ったのだろうか。
桝本がウインカーを出したため、疑問はすぐに掻き消された。左手に大手のコンビニチェーン店が見える。店内から漏れ出る照明の光が、薄暗くなり始めた街の中で輝き始めていた。駐車場に車は見当たらない。
「まだ来てないな」と呟きながら、桝本はその一角に車を停車した。キーを抜く。サイドミラーから静かな音が聞こえたあと、一瞬の間があった。店内を覗き見るが、客がいる雰囲気ではない。
「時間が空きそうだな」と桝本が口にした。その場を取り繕うような口調に若干の違和感を覚える。
飲み物でも買ってくる、と彼が続けた。それじゃあ俺にもコーヒーを、と告げると桝本は財布を手に車を出た。
彼が入店するのを見届けてから、田淵は後部座席を振り返った。銀行を出たときと同じようにバッグが無造作に置かれていた。札束の一部がこちらからも確認できる。
ようやく彼の胸に落ち着きと実感とが取り戻された。俺は今まで興奮していたんだな、と思う。銀行に押し入ってから逃走するまでの時間がフラッシュバックし、その光景に圧倒された。初めて見る映画のワンシーンのような新鮮さだった。違うのは、そのカットに臨んでいるのは自分だと言うことだ。
これからのことを考えている。今夜家に帰ってからのこと。妻は変わらず「仕事は見つかったの?」と聞くだろう。もちろん強盗は根本的な解決にはならない。分け前はその場の一時凌ぎだ。
それでも田淵は大丈夫だと言い切る。確かな根拠は何もなかった。役に立つ情報を得られたわけでもない。強盗で得た経験?田淵は笑った。あまりにも大袈裟だ。結局俺は以前と何も変わってない。
後部座席のドアが開く音がして我に返った。ビニール袋が擦れる音がする。田淵は後ろを向いた。
「遅かった――」硬い棒で頭を殴打された。激痛が走る。思わず呻いた。目の前の人物に焦点を合わせようとするが上手く行かない。肘掛けにもたれかかる。額を液体が這った。
「おま」言い終わらないうちに、空気を裂く音と共に田淵の後頭部は打ち砕かれる。視界が暗転した。
脚光 WHat @what_hthh
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