第3話

 杏の話は、信じてはいけない類の妄想にしか思えなかった。

「まさかそう言われて、杏は峯の言うことに従ったんじゃないよね」

「半信半疑だったけど、峯くんの言葉には信じたくなるような強さがあったの」

「それって、つまり自己啓発セミナーみたいなものなんじゃないの」

「精神的ブートキャンプみたいな感じだと思う。与えられた課題に取りくむ間ずっと、私の中に峯くんの意識があって叱咤激励し続けてくれていたの」

 峯は杏を洗脳して、声が聞こえると信じ込ませていたんだろうか。それとも骨伝導イヤホンのようなものを使って、頭の中に喋りかけているように思わせたのか。

「Mは大昔から人類に自己への問いかけをさせてきたわ。有名な哲学書や自己啓発書は、ほとんど彼らが書いているの。プラトン、カント、ハイデッガー……。ほかにも数えきれないほど、迷える人間たちを救ってきたMがいる。Mがいるからこそ、人間は自分を高めることができたの」

 杏は誇らしそうに言って、壁づけの本棚を振りかえった。本棚には有名な哲学書や自己啓発本が整理されて並んでいる。

「昔、Mはもっとたくさんいたんだって。愚かな人間が戦争ばかり繰り返して人口が減ってしまったせいで、彼らまでも食糧危機に陥ってしまったと思われていたの。だけど実は、一部のMが人間を扇動して世界的な戦争に発展させ、たくさんの人を危機的状況に追いこむことによって大量のエネルギーを独占していたんだということが発覚したの。彼らの行為は、M社会における食料危機を引きおこした重大テロ行為とみなされ、関わった者たちは残らず処刑されたんだって」

「人間社会と彼らの社会は、密接に結びついているってわけだね」

 峯から学んだというMの歴史について話し続ける杏に若干うんざりしながらも、僕は相槌を打つ。

「ええ。その後法律が変わって、ミステリアスは納得の上パートナー関係を結んだ人間からしか、エネルギーを得てはいけなくなったの。彼らは、パートナーの精神状態を向上させ、安定した人間社会を保ち続けるように努めなければならないとされているわ」

 人間は物ではない。健全な環境で生活させた上でしか利用してはならない――まるで家畜福祉のような考え方に、僕は眉をしかめた。

「だけど今また人間を操り、恐怖を煽るような本を書かせたり動画を配信させたりしている地下組織が暗躍し始めているの。同様の方法を使い、たくさんの人間を救おうとしている義賊的なみたいなMもいるんだけど、どちらも違法とされているわ」

 人類はMに操られている。これが事実だとすれば恐ろしいことだけど、にわかには信じがたい。やはり杏は自己啓発セミナーかなにかによって、完全に洗脳状態にあると考えたほうがいいんだろうな。

「Mの歴史はわかったけど、峯は具体的に杏になにをさせたの」

 杏の洗脳状態を解くためにも、峯との関係をもう少し聞いておいたほうがいいんだろう。

「私ね、ずっと自分はなにもやり遂げることができないダメな人間だと思っていたの。だからまず成功体験を作るために、バスケットボールサイズの毛玉ボールを作るように言われたの」

「毛玉ボール?」

 聞いたことのない言葉だった。

「猫の毛を集めて作るボールなんだけど」

 僕の頭の中は混乱を極めている。

「気づかなかった? 玄関ホールに吊るしてあるんだけど」

「ごめん。気にしてなかったみたいだ」

「……そう」

 気づいていなかったことを、杏は寂しく感じたようだ。僕は彼女の努力を認めてあげられない悪い男になったような気がした。

「毎日たくさんの猫がいる大きな公園に通って、ブラッシングをして毛を集めたの。なかなかボールが大きくならなくて、諦めそうになると「どうして諦めたくなったのか」「なにが辛いのか」と、峯くんは問いかけ続けてくれた。そうするうちに、私の心の問題点が丸裸になっていったの」

「毛玉ボールを作るために、そこまでやる必要があるの」

 僕はたかだかという言葉を何とか飲み込んで訊いた。

「バカバカしいと思うわよね。こんなことをしてなにになるのかと私も何度も思ったわ。私はずっと自分に価値を見いだせず、人と顔を合わせると非難されているように感じて、外に出るのが怖かったの。だけど、そんな私が猫用ブラシを持って公園を歩いているときは堂々とできるようになっていったの。これはやるべきことなんだと思えたから。最終日には毎日すれ違っていた、猫の保護活動をしているおばさんに挨拶ができたの」

 たしかにそのころの杏は僕の知る彼女とは違う人のように思えた。僕の知る杏は社交的な性格で、外を歩けば会う人会う人ににこやかに挨拶をする。

「完成した日、峯くんが公園まで来てくれて、よくがんばったと褒めてくれた。そうしたら、身体の中が燃えているみたいに感じたの」

「それがゾミニ分裂時に放出するエネルギーだとか?」

 達成感で興奮していただけなんじゃないかと思いながらも一応訊いてみた。

「そうなの! 峯君が私をハグすると、それが少しずつ消えていって、私は平静さを取り戻すことができたの」

「……へえ、ハグするんだ」

「ええ。接触した箇所からのみ、Mはエネルギーを吸収できるから」

 杏はまったく悪びれない。彼女にとってそれは、ただのハグとは違うんだろう。

「エネルギーの受け渡しが終わったなら、もう峯と付きあう必要はなかったんじゃないの?」

「私のゾミニに蓄えられたGは尋常じゃない量で、小さな成功体験ではわずかにしか減らすことができなかったの」

「なんで。放出したエネルギーを食べられたら、ゾミニは休止状態に戻るんじゃないの」

「一度活性化したゾミニは二度と休止状態になることはないの。分裂して生まれたゾミニも、私が落ちこんでばかりだから、すぐに活性化させてしまうし。限界状態から抜け出すのは容易なことではなかったわ」

 バカげてはいるけど、よく作りこんである設定だと、僕はある種の感動すら覚えはじめていた。だけど作り話なら、どこかに必ず矛盾点が出てくるはずだ。

「それで、ほかにはどういうことをしたわけ」

「他者とのコミュニケーションが苦手な私のために、峯君はSNSで自分と他者をコントロールする訓練をさせたの」

「SNSで訓練なんてどうやって」

「センシティブな問題について発言してわざと炎上させ、それを沈静化させるの。最初は他者の発言に乗っかる形でやるように言われた。他人を苛立たせるポイントが把握できたら、今度は自分の発言を炎上させるの」

 杏はSNSはやっていないと言っていたのに、炎上までしていたなんてびっくりだ。

「なにが他人を不快にさせるのか、どうすれば喜ばせられるのか。共感を得るための文章の作り方。大衆を煽る方法。味方につける方法。様々なことを私は学んだ。おかげで他者の言葉を冷静に受け止められるようになったし、コミュニケーションに自信が持てるようになったわ」

「もしかして、今でも杏はSNSをやっているの?」

「フォロワー数が十万人になるのを目指していたから、そこでアカウントを消したの。あのときもここまで来られたんだと、身体が燃え立つような感じがしたわ」

 それでまた峯とハグをしたんだろうと思ったら、うんざりした。僕のそんな気持ちなど気づきもしないのか、杏はたくさんありすぎて話せないけどと言いながらも、峯と自己啓発に励んだ日々の話を嬉しそうに続けている。

 話の中で、杏は少しずつ僕の知る彼女へと変化していっているように思えた。Mの話が事実かは置いておくとして、峯の自己啓発により杏が変化したことは間違いないようだ。

「峯君に言われたことを日々こなし、見た目も中身もすべて変わるのに十年もかかったわ。すべての日々は、あなたと出会うためのものでもあったの」

「僕と?」

「峯君は言ったわ。愛情を知らない宮原が完全な人間になるためには、最適な雄から適切な愛情を受ける必要があるんだって」

「最適な雄が僕だったと言うこと? 峯は僕を認めてくれたの?」

 皮肉を込めて笑いながら言ったのに、杏は肯定するように優しく微笑んだ。この笑顔に一目ぼれしたはずだった。優しく包みこんでくれそうな慈愛に満ちた微笑みに。だけど、今はなぜか不気味に感じてしまう。

「それまでは峯君の言葉を信じてがんばれば、私は変わることができていたの。でも、あなたはまったく知らない男性だったし、出会っても本当に私を愛してくれるのか不安だった。だけど、峯君が言ってくれたの。俺は、宮原をあいつの好みに合わせて変えたんだから、絶対に大丈夫だって」

「……どういうこと。僕は杏のことを知らなかったけど、杏は知っていたんじゃないの。だって僕の高校時代の部活やクラスも知っていたよね」

「私ね、本当は高校には一度も通っていないの。嘘をついていてごめんなさい」

 つまり杏は、僕の同級生じゃないってことなのか。

「私は峯君に言われて、あなたに近づくチャンスを待っていた。やっとセッティングに成功した合コンのあと、あなたから付きあって欲しいと言われたとき、心が燃え立つほどの喜びを感じた。私は最適な雄から適切な愛情を受けることができるようになったんだって」

 杏の恍惚とした表情に背筋が寒くなった。

「それでまたハグをしたんだ。峯にエネルギーを与えるために。杏、僕のことを好きだって言っていたよね。僕らの関係は、全部峯のためのものだったわけ」

「峯君と私はパートナーだから対等だわ。与え、与えられる関係なだけ」

 峯はもういないのに、杏は洗脳され続けている。杏の背後に峯の影を感じ、僕は空恐ろしくなった。

「峯のおかげで杏が変わったのはわかったよ。でもなぜ杏が今ごろ僕にこんな話をしたのかがわからない」

「峯君のあの身体はもう限界を迎えていたの。Mは人間に寄生しないと生きていけないんだけど、寄生した状態で人間を動かすにはたくさんのエネルギーが必要なの。宿主の身体は長くもって三十年なんだって」

 杏は悲しそうな顏をして言った。

「寄生? 宿主って、まさか峯は僕の身体を必要としているとでも言いたいの」

 思いっきり顔をしかめてしまった僕に、そんなことあるわけないでしょと杏は無邪気に笑った。

 精神的な意味での寄生という話なんだろうか。こんなことを信じているなんて、杏はもう常軌を逸しているとしか思えない。

「Mはね、胎児にしか寄生できないの。峯君ね、やっと次の宿主まで辿り着いたととても喜んでいたわ」

 杏は自分の下腹部をそっと撫でた。

「私とあなたは、新しい峯君の宿主を育てるという大事な役割を全うするために選ばれた人間なの。だからすべて話したのよ」

 杏の言葉に肌が粟立つ。

「嘘だ。こんなの全部嘘に決まってる」

 席を立った杏から遠ざかりたくて、僕は椅子から立ち上がった。ガタンと椅子が大きな音を立てる。

「落ちついて。強いストレスはゾミニを活性化させてしまうから、身体に悪いと話したでしょ。もっと穏やかにならないと」

 杏は穏やかな笑みを浮かべながら僕に近づいてくる。

「僕は絶対に信じない」

 今まで築いてきた杏との関係は、いったい何だったんだ。すべて偽物だったというのか。

「ほら」

 杏は後ずさりする僕の手を取り、自分の腹部にそっと押し当てた。手のひらの下で胎児が動く感覚があって、僕は喉の奥で声にならない悲鳴をあげた。

「あなたなら大丈夫。峯君が選んだんだもの。絶対に成しとげられるわ」

 杏の手を振りはらおうとしたとき、頭の中で声がした。

(あのとき約束しただろう。お前のことが気に入ったから、また会おうって)

 直接語りかけてくるその声に、僕は遠い日の教室で耳にした峯の声と、ガラス玉のような目をはっきりと思いだしていた。

 そうだ。僕は返事をしたんだ。

「ああ、また会いに来いよ」って。

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自己啓発の代償 岡田朔 @okadasaku

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