第2話

「なんですかこれ。宗教とかはちょっと。私、そういうのは信じていないので」

 宮原杏みやはらあんはカバンを抱え、逃げ出そうと腰を浮かせた。伸ばしすぎてすだれのようになった前髪から、怯えた目が覗く。

 死にたいと口にするくせに、身の危険を感じると逃げようとする。言葉と行動の伴わない不思議な生きもの。それが人間だ。

 平日の昼過ぎという中途半端な時間だけあってか、ハンバーガーショップはガラガラで、客は俺たちしかいない。

「宗教なんかじゃない。歴史や生物の教科書みたいなものだ」

 俺は本を開いたまま宮原に近づけた。彼女は仕方なく続きを読み始めたものの、首を捻ってばかりいる。どうやら理解力がないらしい。

「もういい。かいつまんで説明してやる。ゾミニは細胞の中に入り込んで人類と共生している生命体なんだ。ミトコンドリアみたいなものだと思え」

「寄生しているってことですか。気持ちワル」

 寄生虫と勘違いしているのか、宮原は自分の腹のあたりを見て、顔を引きつらせる。

「生物で習っただろ。寄生と共生は違う。死ぬことばかり考えていないで、少しは勉強しろよな」

「どうせ私は出来の悪い人間です。でも峯君だって高校に通えていないんですよね」

 宮原は他人と接するのが怖くて、高校に行けずにいるらしい。そんな彼女が口をへの字にしながらも文句を言えるということは、俺を敵ではなく死にたがりの不登校仲間だと思っているからなんだろう。

「俺はもう学校に行く必要がなくなったから行ってないだけだ。お前と一緒にするな。いいから聞けよ。ゾミニはミトコンドリアと違って目には見えないんだ」

「ミトコンドリアは見えるんですか」

「電子顕微鏡を使えばな。ゾミニはどんな方法を使っても見えない」

「見えないのにどうして存在しているってわかるんですか」

 騙されたくないという気持ちが強いのか、宮原の眉間がどんどん狭まっていく。

「人間には見えないだけだ。俺には見える」

「それって、峯君は人間じゃないって言っているみたいですよ」

 俺が冗談を言ったと思ったのか、宮原はヘラヘラと笑う。

(その通りだ。俺は人間じゃない)

 どこから声が聞こえてきたのかと彼女はキョロキョロし始めた。

(前を見ろ。俺が話しかけているんだ)

 目を見開き俺を見た宮原は、ガタガタと大きな音を立てて椅子から立ちあがった。

「わ、私やっぱり帰ります」

(帰るつもりなら、店を出た途端、死ぬことになるけどいいのか)

 ふたたび意識に語りかけると、彼女は涙目になり椅子に腰掛けなおした。どうやら俺のことを超能力者だとでも思いこんだようだ。

「脅すなんてひどいです。騙したんですか。一緒に死んでくれるって言うから来たのに」

「どうせお前は今の自分や環境が嫌で逃げだしたいだけだろ。もしすべて変えてやると言ったらどうする。それでも死にたいか」

「変えられるはずないじゃないですか。神様でもないのに」

 宮原はブツブツと文句を言う。

「俺は神じゃないが、人間でもないからな」

「それなら峯君はいったいなんだって言うんですか」

 怒ったように言いながら、宮原はハンバーガーの包み紙を乱暴に開け、中に入っているピクルスを摘まみだした。

「ミステリアス――通称Mと呼ばれている」

「なんか中二病っぽい……」

(お前死にたいのか?)

「ご、ごめんなさい」

 首をすくめながらも、彼女は摘みだしたピクルスを紙ナプキンの上に整列させ始める。マイペースで変な女だ。

「嫌いなのか、それ」

「酸っぱいものとは相性が悪いんです」

 指先を紙ナプキンで拭ってから、宮原はハンバーガーに噛りついた。

「俺たちはゾミニが出すエネルギーを喰って生きているんだ」

「え、もしかして私ごと食べるつもりですか」

 怯えた顔で宮原は俺を見た。

「肉食獣みたいに言うな。Mは野蛮な生きものじゃない。人間よりもずっと知的な生命体なんだ」

「えっと、つまりMさんたちは草食系なんですか。ポテトとか食べます」

 俺の話が理解できないのか、宮原はおそるおそるポテトフライの袋を差しだした。

「植物も食わない。お前も身体に摂り入れるものには気をつけたほうがいい。ゾミニがエネルギーを出すための条件は、これを読んでくれ」

 該当ページを開いて宮原の前に置くと、また読むのかと嫌そうな顔をしながら、彼女は目で文字を追いだした。


《人体内のゾミニは休止状態にあり、宿主が強大なストレスを受けた際に活性化します。ストレスにより体内で過剰に作り出される神経伝達物質Gの値が一定量を超えると、ゾミニのスイッチが入り、Gを取りこみ始めるのです。ゾミニはGを極限まで蓄えることができますが、長期間強ストレス状態が解消されない場合、細胞壁が破壊され死を迎えます。大量のGが一気に放出された宿主は心身ともに異常をきたし、生命活動を保つことが難しくなるとされています》


「結局ゾミニも死ぬんですか」

 読み終えた宮原が不思議そうに首を捻った。

「通常はそうはならない。人間は大きな幸せを感じたとき、セロトニンという神経伝達物質を出す。セロトニンがゾミニ内のGと合成されると、ゾミニは分裂を始め、爆発的に数を増やすんだ。結果的に人間はより強いストレスに耐えられるようになる。で、ゾミニ分裂の際に放出される強いエネルギーを俺たちMは食料としている」

「ええと……わかったような気がします」

 ちっともわかっていなさそうな顏をして、宮原は俺のほうへ本を押しやった。

「でも私じゃダメだと思います。さっき話しましたよね、私の話。本当に何をやっても失敗ばかりなんです。空気は読めないし、美人には程遠いくせにかわいげもない。心も綺麗じゃなくて、人を羨んだり僻んでばかり。その上、すぐに他人のせいにしてしまうから、場にいるだけで人を不愉快にさせるんです」

 宮原はヘラヘラと笑いながら言う。

「何一つ乗り越えられたことなんてないんです。ただ生きてきただけ。それも辛くなって、いっそのこと死んでしまえたらと思いました。けれど自分では難しくて、誰かの力を借りようと書きこんだんです。何人か話しかけてくれる人はいましたが、ネット上の会話ですら私は苛つかせるみたいで、結局会ってくれたのは峯君だけでした」

「お前は育て親に理不尽な理想を押しつけられた上、あらゆる面で否定され続けたせいで、コンプレックスの塊になってしまっているんだ。自分というものがないから他者の意見に左右されやすく、ちょっとしたことでどん底まで落ち込む。これまでに蓄積したストレスのせいでゾミニもパンパンに膨れあがっている。普通の奴ならとっくに精神が崩壊しているだろうな」

「やっぱり死ぬべき人間なんですね」

「違う。お前のゾミニは、世界最強レベルで強靭な細胞壁の遺伝子を持っているんだ。いうなれば超強化ガラスだな。普通のガラスならとっくの昔に割れているが、お前のガラスは割れそうで割れない。それどころか、ストレス下においても少しずつ修復すらしているんだ。精神的にも肉体的にも、Mから見たら超優良体だ」

「ちっとも嬉しくありません」

「だけどそれも時間の問題だ。さすがにお前のゾミニもまもなく破裂する。そうなれば精神の崩壊はもちろん、生命活動の停止も免れないだろう。タダ死にするよりも俺のパートナーになって生き延びたほうがいいと思わないか」

「パートナーなんて私には無理です」

「お前は変われる。いや、変わるんだ。俺がお前を変えてやる。俺なら変えてやれる」

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