『すべての男は消耗品である。』(Vol.1-13)書評 すべての男は消耗品であると消耗品は言った

 今では信じられないかも知れないが、かつてはこの国は円高に苦しめられており、自国通貨の破壊は人々の喝采の中で決定された事項だった。

 そんなことより村上龍の話をしよう。村上龍という作家はそのような円高に苦しむ時代状況にあっても、しつこく、円安によって飢餓が一般化した状況になるか、あるいはそれが予見される状況になるかして、日本が崩壊し、ファシズム政権が誕生したり、ダチュラが云々だったり、鯨の鳴き声を音声解析して不老不死になったりする近未来SFを書き続けてきた。

 彼の、殆ど「現実を批判するための夢想」が現実化しつつあるので、私は彼の『すべての男は消耗品である。』という一連のエッセイのシリーズを読むことにしたのである。

 小泉政権、麻生政権、リーマン・ショック、政権交代、東北地方太平洋沖地震、原発事故など、戦後日本史についての一人の作家の実況を読むことができ、そして、売れた作家がそれなりに欲望を満たすことができた、ある幸福な時代そのもの、あるいは彼の海外での食事や生活風景との比較によって日本の食事や生活風景にある「欠如」を描くという、戦後知識人から旧ツイッターのインプレッションの奴隷たちにまで使われる手法の、華麗な躍動を味わうことができる、良いエッセイであると思った。

 同時に、読みなから、私の中に浮かんだ疑問は何故こんなにも本文中にエクスキューズが多いのかということだった。リーマン・ショック前後、小泉政権の誕生あたりから、特に増えるような気がする。そしてそれは『すべての男は消耗品である。』というタイトルからの解離とパラレルである。そもそも、このエッセイは恋愛論やセックスについての連載エッセイだったのだが、徐々に、例えば『半島を出よ』や『共生虫』を刊行する頃にさしかかり、段々と政治・経済についての言及が増え、ニュース・コメンタリー・エッセイのようになっていく。そしてエクスキューズが増える。

 エクスキューズと私が言っているのは、村上龍が例えば小泉政権の政策について書いたあとで、私は規制緩和論者や新自由主義者ではなく、ただ、(例えば日本経済が低成長になり、徴税して分配できるパイが減っているという)「現実」についてどう考えるかを考えているだけであるといった、政策論争の類に自分はコミットしておらず、ただ問題の所在を明確にしたいだけだという、エッセイ中に繰り返される(Kindle版で『誤解』と検索せよ)説明のことである。

 私は既にタイトルからの解離とパラレルだと言ったが、タイトルは「すべての男」であり、そこに村上龍自身を含み、そして村上龍は消耗品の一つとして書き、そもそもこのエッセイは消耗品として設計され、構築され、恋愛論やセックスを語るために運用されていた。

 ここで村上龍の小説について想起してみることにする。確か福田和也が『共生虫』を説教臭いとか何とか批判していたはずだが(正確には社会派になると何故こんなにもつまらないのか、というようなこと)、村上龍の(政治)小説の説教臭さは、恐らくは、社会の外部にあるかのような文体にあると言えるだろう。小説は小説の自由さのために、エクスキューズを必要とせずに社会について語ることを可能にする。作家は、作品の中の社会に対して実際に外部に出ることができる。

 このことは、福田和也と反対の立場に立てば、実際には小説の豊かさの源泉にもなる。勿論、あなた方が望むなら、村上龍先生は「予言的」作家だ! と絶賛することもできる。実際、村上龍はそのような「説教臭い」小説によって、恋愛論やセックスについての消耗品的テクストで金を稼ぐほどの地位を得た。

 しかし社会、経済、政治といったものを小説を通してカリカチュアしたり、極限化したり、崩壊させたり、再生させたりするのではなく、小説以外の形式で純粋に分析するということになれば、少なくとも、その分析者自身は社会、経済、政治の内部にはいないということをどうにか擬制しなければならない。そうでなければ、政策論争にコミットするのでなく、問題を明確化するだけだという「客観的」な立場は破綻してしまう。マルクス主義者は生産様式から自由であるがゆえに他人の振る舞いが生産様式に基づいていると「客観的に」分析できるのであり、フロイト主義者は精神分析がどのようなリビドーに基づいているか分析したら、自分の男根を咥えることになる。

 つまり、私は、村上龍にエッセイの場を与えるほどに傑作だった幾つかの小説で村上龍がやってきたこと、社会の外部にいるかのように社会について書くことをそのままエッセイでも実行しようとしたがために、大量のエクスキューズが必要になったのだろうと、そう書いているのである。

 もちろん、私は「問題を明確にしたいだけ」であり、エッセイに「社会科学と社会政策にかかわる認識の客観性」を求めたりはせず、村上龍の、『限りなく透明に近いブルー』の後書きに「リュウ」と署名して江藤淳にボロクソに批判され、今度は『共生虫』で江藤淳の弟子の福田和也にボロクソに批判され、そしてカンブリア宮殿で経営者と対談するというキャリアに、正確に物を語ることの困難を確認するだけである。

 だが私はエクスキューズを発しないであろう。私は既に飢餓ゲームの開始を宣言したのだから。オルタナティブはない、と宣言したのだから。近代社会とは、これである。近代社会とは、村上龍である。近代社会は、外部から語ることを許さない。社会は既に宮廷の人間関係ではない。社会の分析もまた社会の中でしか生起しない。

 そして私はこれが、最後の審判を主宰する神に対する、無意味なエクスキューズであることを理解している。

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飢餓ゲーム宣言 他律神経 @taritsushinkei

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