『ドナルド・トランプ暗殺未遂事件』時評 王様の耳はロバの耳、前大統領の右耳は戦争の機能的等価物

 トランプの右耳が吹き飛んだ。アプレンティスの司会者の顔を流れる赤い血。俺はそれを職場の巨大なテレビで見ることになる。別に見たくもない。家に帰る。YouTubeもサジェストしてくる。お前が知りたかった世界の真実。俺の銃弾は世界史だって変えるんだと暗殺犯が言ったかどうか。知るか。トランプの吹き飛んだ右耳の行方は。知るか。しかし気になる。シークレット・サービスはトランプを囲むのに忙しい。トランプの右耳の切れ端は俺が探す。俺の長時間通勤で壊れた脳は爬虫類型異星人とお前が踏んだ犬のうんこの間にすら、因果連関を掴みだす。

 トランプの右耳が吹き飛んだ。暗殺を超える思想は、既にないと暗殺犯が言ったかどうか。知るか。しかし言ってないことを言いたかったんだろと暴き立てるのがマルクス、フロイト、ソシュール、ニーチェから連綿と続くトレンドだ。俺はトレンディエンジェルだ。俺はまだ禿げていない。しかしもう俺の頭髪は吹き飛び始めている。暗殺を超える思想は、既にないことが暴露されたのだ。デモクラシーは死んだ。いや、もう死んでいたのだが、始皇帝のように、死んでいないことにされていたのだ。あとは始皇帝は死んだと暴くだけである。息子は皇帝の器ではない。デモクラシーに息子はない。トランプの右耳はそこだ。トランプの右耳は、デモクラシーの、腐乱した死体のそばにある。酸化した血液と、溶け出したデモクラシーの骨肉と、それは、やがて混ざり合う。あんた方は「国民」という共同幻想のために消し去ったはずの記憶と出会い、運命を知る。つまり、あんた方は「国民」という共同幻想では既に、国民の内部にある対立は癒せないと気づいており、議会に突撃したり、前大統領の右耳を吹き飛ばしたりせざるをえないと思いつつある。

 国民は人々の間の対立を癒やす。社長も従業員もお姉ちゃんもお兄ちゃんもお父さんもお母さんも輸出企業も輸入企業も年金生活者も若年労働者も熟練労働者も非正規労働者もパートナーもパートもアルバイトもフェローも大学教授も市民も、意見の対立があったとしても、それは本質的な、非和解的な対立ではないと、国民は囁く。そのウィスパーボイスを聞ける間だけ、辛うじて、デモクラシーの成立する余地がある。そうでなければ、デモクラシーは「野党」や「少数派」という形で政治的権力の交代の可能性を保存することができなくなり、保存することができなくなれば「与党」や「多数派」の「野党」や「少数派」への転落可能性がなくなり、多数派の専制となり、投票で駆動する政治システムが停止する。暗殺を超える思想はないということになる。マルクス主義者はここで、マルクス主義を超える哲学はないと言う。革命を超える思想はないということになる。

 しかし今や国民のヒーリングパワーが怪しくなっている。国民のヒーリングパワーは、全体戦争に由来しているからだ。国家とは戦争機械のことであった。宮廷の人間関係の延長としての兵士(騎士と、傭兵と、嫌々参加する農民)ではなく、人々が自発的に戦争に参加しなければ、ナポレオン戦争以降の戦争は勝てなくなった。ナポレオンが瞬きの間にプロイセン軍を崩壊させたのは、その兵士が長い兵役を死ぬほど嫌っていたからに他ならない。ナポレオンの、あるいはラザール・カルノーの登場以降、戦争には国民が必要不可欠のものとなった。それは当然、マルクス主義者の言うような「階級闘争」を認めはしない。国民は対立を癒やす。癒やさなければならない。疲れ果てた労働者も癒やす。癒やさなければならない。ドイツ帝国では社会主義者鎮圧法と同時に労働者保護が進み、イギリスでは第二次世界大戦中にベヴァリッジ報告書が出され、戦争で疲れ果てた労働者に戦争後の福祉体制を約束した。ちょうど馬の前に人参をぶら下げるようにして。

 国民は戦争の配当として、人々の間の対立を癒やす。二度の惑星規模の戦争、国家総力戦の配当こそ、癒やしの力だった。徴税権力は、この癒やしの力の源である。徴税権力の肥大化は戦争の配当のために許されたのだ。私の財布に手を突っ込み、同じ国民というだけで顔も名前も知らない人のためにどうぞお使いくださいと、そんな優しい気持ちにしてくれる、美しい戦争の配当だ。しかし冷戦体制が崩壊するや、増配もなく、それどころか、配当は廃止となった。戦争が必要とした国民という紐帯は人々にとって、今や単なる重しとなった。あんた方も、国民というだけで顔も名前も知らない奴らのサービスにはなるべく貢献したくないので、地元自治体ではなく、返礼品の良い(返礼品とは?)納税先を選んでは節税に勤しまなくてはならなくなる。

 戦争の配当がなくなり、国民が単なる重しとなったのならば、デモクラシーも死ななくてはならない。全ての対立は非和解的な対立となる。落とし所などない。対立党派を「保存」しておく必要などない。何故、「保存」する必要があるのだ? 交代の可能性などあってはならない。今や我らは単なる重しである国民という共通項以外の何を共有しているというのか? そして人々は議会に突っ込んだり、人の右耳を吹き飛ばしたりする。

 俺はアナーキストの夢を、このテキストで叶えてやったつもりはない。俺は飢餓ゲームの伝道師だ。俺は下降史観を、国道のデカい交差点で、トラメガもなく訴える。

 死せる始皇帝がその側近によってしばらく生かされていたように、あるいは死せる孔明が生ける仲達を走らせたように、デモクラシーの死体はトランプの右耳の破片と混ざり合って、なお、そこにあって、死んだように生きる。

 俺は何を言っているのか? もしも国民の癒やしの力が本当になくなれば、政治システムが壊れるだろうが、しかし社会は政治システム以外の様々な機能的システム――法システム、教育システム、経済システム等々、等々が併存し、互いに仕事を融通しているのであって(死後の世界の議論、真理、物質の分配、正義)、政治システムの破壊は近代社会というシステムのラディカルな否定としてしかありえない。

 そんな革命がもはやありえないとすれば、トランプの右耳を吹き飛ばすことは、戦争の機能的等価物としてしかありえない。そして、それは十中八九、内戦である。

 内戦は国民に再び癒やしの力を吹き込むような、コカ・コーラのように毎年増配する全体戦争ではないと、あなたは思う。そこで、俺は国民の真似をして、あなたに囁く。黄色い歯の隙間から漏れてくる声はこう聞こえるはずである。

 南北戦争はアメリカ合衆国とアメリカ連合国という主権国家同士の戦争だったんだよ、と。あなたは国民の癒やしの力を思い知らされる。国民は癒やす。主権国家同士の戦争を和解可能な意見の相違、再び一つの共同体――人民の、人民による、人民のための共同体を南北の人々がともに運営できるというナラティブで、第二次世界大戦の戦死者より多くの戦死者を出した戦いを「不幸な内戦」に変換するのである。

 トランプの右耳はデモクラシーの傍らで戦争の機能的等価物になる。

 そして、また、悲しみのない、時間のループへと飲み込まれていく、孤独の国民。

 そして、そして、戦争の配当が滞り、癒やしの力を失った国民は必ずしもアメリカに限定されるものではない。

 そして、そして、そして、俺は国道で排気ガスを吸い、殺戮の時代の予告に変換し、あなたはふるさと納税でポイントが付与されるか気にしている。

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