『2024年東京都知事選挙』時評 東京都知事選挙の兄です。政治システムへの期待と失望のスパイラルについて全てお話しします

 東京都知事選挙が終わった。デモクラシーが終わったという文章から始めるか悩んだが、始まってもいないものは終わらない。もう俺たち終わりなのかな? 馬鹿野郎、まだ始まってもいねえよ。

 現職の知事が当選し、当選順位が確定する。あとはお定まりの光景が展開し、時間のラインを埋め尽くす。過去が現在になり、現在が過去となる。ある者は有権者の知性を信頼していたと語り、ある者は有権者の知性を疑い、まだ始まってもいないものへの終わりを宣言し、愚民観だと批判される。だから左翼は駄目なんだ。だから日本人は駄目なんだ。だから俺は言ったんだ。世の終わりの兆候の一つは偽預言者が蔓延ることであった。ところで、大陸ヨーロッパでは人民戦線が勝利し、グレートブリテンは労働党に多数の議席を与えた。

 以上の、恥辱のあまり崩れ落ちそうな、選挙の度毎に繰り返されている光景を確認した上で、私は恥じることなく印象(から始める)批評を展開しよう。私はインテリではない。私は読書人階級から嫌われている。私の襟がブルーで、私が汗臭いからだ。最近は仕事でエプロンをしています。嫌いではない。私は印象から語る。私は印象を正当化するために分析する。あなた方は分析を正当化するために印象を語る。

 てめら、いつまで選挙の話と選挙から国家論を引き出そうとしてんだという印象。または、本当に余裕のある奴らだなという印象。俺は毎日、餓死に脅えている。昨日だか今日も財務省は為替トレーダーに小遣いを配った。選挙の話なんかよりもすべき話がいくらでもあるだろって話なんだ。あるいは、そう、この文章自体が選挙の話であるからには、こう書くべきだ。選挙なんかに何か期待して、他人を動員しようとするのは、もうやめませんか。もうやめましょうよ。命が勿体ない。やるべきことがあるだろう。

 何故、私はこんなにも乱暴なことが言えるのか? 今日だって、選挙結果を憂いて高円寺あたりで酒を飲みながら運動のお疲れ様会をしている団体があるかも知れないというのに。土曜日もちゃんと休めて、なんなら月曜日に仮病を使っても馘首されない人たちの、運動のお疲れ様会が。

 胸に手をあてて考えてください。上司と小池百合子、どっちが怖いですか。

 結局のところ、政治システムへの期待は失望を約束されているということを、私は、ここに、書きたいのだ。お望みなら、ブリッジウォーター・アソシエイツ創業者のレイ・ダリオのごとく、どのような国もインフレ政策を行って購買力を失って戦争と革命の時代に入るのだという話をしてもいいし、社会党が政権を獲っても自衛隊は廃止されなかったという話をしてもいい。しかし今日は社会学的な話に留めておこう。私はこう書く。政治システムへの期待は失望を約束されている、何故なら、政治システムへの期待は失望を原動力にしているからだ、と。

 そも、社会に政治システムはなかった。社会とはおよそ宮廷での人間関係のことを指していたのであり、例えば、宮廷外のホモ・サピエンスは農奴などという呼称からも容易に想像されるように、不動産の上を這い回る動産であり、宮廷の人間関係の延長の宮廷外の人間関係の中にいる人々の所有物であった。そして、後続の文章のために先んじて書けば、ここには経済システムもなかった。今日の民法にあるような所有権絶対の原則や私的自治の原則などというものはなかったのである。そして勿論、宗教システムも、教育システムも、何もなかった。あるのは宮廷の人間関係だけだった。戦争すらもが、宮廷の人間関係の延長にあった。ナポレオンがヨーロッパを支配できたのは、あるいは勝利の組織者ラザール・カルノーが第三身分出身者の軍隊でまだ幼い革命フランスを防衛できたのは、宮廷の人間関係としての戦争をいち早くやめたからである。

(経済が経済的であること以外の審級を拒否することは経済のシステム境界の形成だ。政治が、人々の集合的決定の正統性を、宗教でも、経済でも、科学でもなく、集合的決定それ自体に求めることは、政治のシステム境界の形成だ。科学が、科学の根拠を、政治でも経済でも宗教でもなく科学自身に求めることは科学のシステム境界の形成だ。戦争が――戦争の発動の根拠を敵対関係すなわち戦争自身に求めることは、戦争のシステム境界の形成だ)

 さて、ある国では王様の首を切り落とし、ある国ではしつこく敵軍の上級将校だけを狙撃したり、ある国では土地の自由な処分を許さない古臭い野郎どもの城下町に火を放ったりして、宮廷の人間関係としての社会を終わらせ、形式的にせよ、政治システムを作り出した。それは当然、既に述べたことの反転として、同時に、機能的に分化したシステム――経済システム、宗教システム、(科)学システム、教育システム、法システムを作り出した。

 ここで重要なのは、これらの諸システムが併存していることである。政治システムの能力は資源の分配や死後の世界の説明、(学問的)真理、正義についての決定をその他のシステムに譲ることによって可能になっているのである。例えばある種の人々を怒らせるほどの法システムの謙虚さを想起せよ。

「日米安保条約は主権国としての日本の存立の基礎に極めて重大な関係を持つ高度に政治性を有するものであり、違憲か否かの判断は純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査には原則としてなじまない」

 人々が期待を寄せる政治システムの能力もまた、政治システムが決定できないことが増大すること――社会が新しいシステムを分化させること――で高まっていくのであり、政治システムが人々の期待に応えようと処理能力を高めれば高めるほどに処理できないことが増大するのである。そして人々を失望させる。例えば、ブルジョワ革命の初期――国家からの自由が最も重大な価値であり、夜警国家が理想とされた頃と、現代の肥大した行政国家を比較してみればよい。夜警国家には福祉を充実させていない(福祉制度の運用を処理できていない)という批判はあたらない。夜警国家はその期待に応える能力がないからだ。福祉を充実させていないという批判は、政治システムが高度に発達し、かつてよりも政治的介入の可能な領域が増えたと観念されることによってしか成立しえない。こういう想像をしてもよい。採用三日後に社長に異常に期待されて店を任されたことで一人ではできないことがはっきりとし、急遽、経理や警備を雇わなければならないような事態――(とはいえ、あなたは適切な採用をすれば社長に褒められるが、政治システムは例えば貧困問題を何故解決できないのか批判されることになる)。そして、失望を通して政治システムは(他のシステムに仕事を譲ることで)さらに処理能力を高め、期待を受け、また失望を作り出す。

 こんなことを何度やれば気が済むのですか。それよりも<わたし>を助けてはみないか? 毎日泣いている。もちろん、あなた方は、毎日泣いているわけのわからない男を助けたり、上司と戦うよりも、小池百合子や「愚民」を批判しているほうが安全であることを理解しており、ちょうどアッパーミドルクラスのホワイトカラーがフィットネスで金を払ってまで身体を痛めつけて喜ぶように、「愚民」に裏切られて、高円寺で美味い酒を飲む。もう真面目に話すようなことではないことははっきりとした。あなた方は繰り返せ。近代社会の終わりまで。だから、この文章はここで終わり。ある時代のある場所の物語。

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