『ゴールデンカムイ』漫画評 戦争にチャンスを与えよ
『ゴールデンカムイ』が実写化されるらしい。いや、既にされたのか。私もそれを観に行くべきであるような気がしている。何と言っても私はこの作品の漫画からアニメまで、全て消費済みであるから。あらゆるものがディスプレイ上で金と時間を奪い合うなかで、私は金と時間をあえてこれに使ったのであるから。つまり私は『ゴールデンカムイ』のファンであるから。
そこでこの漫画評は、何故これほどまでに『ゴールデンカムイ』が読みやすいのかということの分析から始めることにしよう。
結論から書けば、この漫画には対立がないからであると、私はここに書こう。そう、この漫画には対立がない。脱獄囚と戊辰戦争の英雄と日露戦争帰りの日本兵と浪人たちが殺し合う内容を31巻まで読み終えてなお、私は、そのように書く。
しかしまた、最後の最後で、脱獄王でありトリックスターである白石由竹が対立なき世界に対立の芽を残して去り、それがこの作品をエンターテイメントとしての面白さとは違う水準で面白くしているということも明らかにしよう。
何と何の間で対立がないかと言えば、主人公の二人、杉元佐一とアシㇼパの間で対立がないのである。より正確に言えば、杉元佐一の和人という属性とアシㇼパのアイヌという属性の間で対立がないのである。これこそ、この漫画の読みやすさの秘密である。少なくとも和人である私とあなたにとっては。
まず杉元佐一のことを考えてみよう。
杉本ニシパは明らかに、初めからアイヌに対する差別意識のない人間として描かれており、例えば、白石由竹の「このアイヌはお前の飼い犬か?」という、アイヌと犬という言葉をかけた差別的な問に怒りを見せ、アシㇼパが「慣れている」と冷静に聞き流し、それに対してまた「慣れる必要なんかない」とモノローグ中で怒るという場面が描かれている。
これが杉本佐一という(設定上日露戦争直後の、旧『土人』保護法が発行されていたような時代の)人間としては、極めて進歩的な人間であることを示すためのシーンであることは明らかである。あなた方は今でも「この作品とかけまして動物を見つけた時ととく。その心は、あ、犬」という「ギャグ」をやってしまうようなお笑い芸人に金を払って、テレビ放送に乗せて全国に配信するような国民なのだから。
また、文化的な摩擦が特に生じやすいと想像される、食事の場面を想起することもできるだろう。この漫画は特にアイヌ文化を読者に啓蒙するためなのか、食事のシーンを繰り返し描いているが、僅かに動物の脳みそを食すことに抵抗感を示す以外には、杉本は基本的に「ヒンナ、ヒンナ」するのである。さらに、自分の持ってきた「味噌」を、アイヌの少女に「うんこ」と言われても、若干の怒りを表明することもない。ここには何の「抵抗」もなく、そして対立がない。私はあなた方に食習慣における文化的摩擦など、この自由と民主主義の国にはないなどとは言わせない。あなた方は捕鯨を批判されると国家の威信をかけて反発し、そしてイスラム教徒の移民が酒や豚肉を食べると自国の自由と民主主義、近代が勝利したと喜んできたではないか。
それではアシㇼパはどうだろうか? アイヌであるところのアシㇼパが「進歩的」であることは、和人の、つまりマジョリティであるところの杉本佐一が進歩的であることとは別の問題を惹起することが容易に予想できる。実際、アシㇼパは自らを「新しい時代のアイヌの女」と言うのであり、そしてそのために杉本と対立することがない。私は何を言っているのか? あなたはアイヌの村に連れ帰った子熊についての杉本とアシㇼパの会話、議論を思い出すべきである。日露戦争で英雄と呼ばれるまでにロシア人を殺戮してきた杉本は子熊が生贄として捧げられることに残虐さを見出すが、アシㇼパはそれを、言ってしまえば文化相対主義的な視点から肯定してみせる(勿論、それはある程度、「正しい」説明である。子熊を生贄にするアイヌの生活よりも子熊を生贄としない現代日本人の生活のほうが明らかに多くの熊を減少させている)。乱獲を防ぎ、コミュニティを維持するためには必要な儀式ではないか、と主張するわけである。「新しい時代のアイヌの女」であるアシㇼパは、アイヌでありながら、いとも容易く西洋流の社会科学的説明を採用する。そうあることが、新しい時代のアイヌであることの条件であるかのようである。それは他のアイヌの習俗について彼女が説明する時も同様である。彼女は杉本が、言い換えれば和人、そして読者であるあなたが理解しやすいように、習俗の人類学的社会学的説明を行うのである。このような説明をいとも容易く行えるということが、杉本が「極めて」「進歩的」であるのと同様に、アシㇼパが「極めて」「進歩的」であることの証明になる。
しかし例えば我々はイスラム教徒が豚肉を食べないと聞いた時に、好意的な解釈として、あるいは説明として、以下のようなものを聞かなかったか? アラビア半島のような砂漠の地では豚は生産するのにあまりに多くの資源を使用するために、それが禁じられたのだ云々といった説明である。ところで、エジプトでクルアーン釈義免状を受けたイスラム法学者、中田考によれば、飲酒の禁止については混乱をもたらすからといった説明があるが、豚肉については不浄であるといった説明の他は特にないということである(『イスラーム法とは何か?』)。この種の「好意的」な誤解はムスリムにとって破壊的な作用があるかも知れないと、あなた方は考えなかったのか? 例えば将来、バイオ技術が発達したため、資源を浪費しない豚が作れたとすれば、それでもなお豚を食べないイスラム教徒は「野蛮」で「後進的」だと、そのように言うことができるようになってしまう。それでもアシㇼパは杉本との対立なき世界のために、もしかするとアイヌにとって破壊的な作用のある説明を繰り返す――。
このように、杉本とアシㇼパの間に文化的な対立が確認できないことは、双方のキャラクターの(世界観、時代設定を踏まえると)あまりにも特異な人格と、もしかするとアシㇼパの破壊的なアイヌ文化の解釈によって成立しており、それが、この作品の「面白さ」になっているのである。そのような特異性を無視することによって(無視できるようにしていることが、この作者の天才さの現れでもある)、我々は黄金を争奪する冒険活劇に集中し、時折、アイヌ文化の蘊蓄を美麗な絵とともに読むという贅沢を味わえる。
この作品には、私が言ったような意味での水準の対立が存在しないことは、作品の結末を確認すれば、はっきりとするであろう。第一次世界大戦と第二次世界大戦、北海道旧土人保護法のあった戦前、そしてアイヌ文化振興法が施行された戦後の、日露戦争終結後から今日までの長い和人とアイヌの関係の議論は全て捨象されて、アシㇼパの行動で多くのカムイが保護され、IT企業の社長が「頭巾ちゃん」の絵を購入する現代にまで時間が吹き飛ばされる。これが「大団円」であり、そして、まずは第一の「面白さ」、エンターテイメントとしての「面白さ」の源泉である。
ところで、杉本とアシㇼパの間に対立がないことが、この作品の問題含みの「大団円」とパラレルであると言える時に、我々はその逆、直感に反するようなテーゼを言うことができるだろう。それは、相互理解は対立していてこそ可能という、直観に反するテーゼである。
私は、そのように、書こう。理解することの前には鋭い対立がなければならないと書こう。文化相対主義の開祖であるフランツ・ボアズの指導を受けたルース・ベネディクトは、名著『菊と刀』を戦時情報局に委託されて書いたのだった。敵であるところの日本人を分析するという課題を達成するためにこそ、ベネディクトはそれまでの人類学のように人種論的な、進化論的な人類学を用いるのではなく、当時では最新の、自文化中心主義を克服するための方法として、ボアズのような文化相対主義を採ったのである。
そしてここにいたって、あなたは、人々に対立を齎す呪われたカムイ、「ゴールデンカムイ」の存在を指摘したのが鶴見中尉だったことを思い出す。それから、こんな疑問を持ってよい。一つの国家を作り出すほどの、白石由竹の日本的共同体への絶望はどれほど深さであったのかと。彼はもう言葉を使わない。彼は白紙の手紙を対立のない世界に住む杉本とアシㇼパに送る。白石はもしかすると、そこに「国家を作れ」と書こうとしていたのかも知れない。対立がない世界への強い志向が産んだのは単一民族国家の神話くらいのものだったのだから。
鶴見中尉が成し得なかった「独立国家」の夢を脱獄王が継承し、ハッピーエンドに水を差す。白石がこの作品にぎりぎりのところで、エンターテイメントに留まらない面白さを加えたのである。
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