リトライ+1本

香久山 ゆみ

リトライ+1本

 最悪。

 六時半に目覚し時計をセットしたはずなのに、起きると七時。慌てて髭剃りと歯磨きだけ済ませて、家を飛び出る。

 汗だくで駅まで走り、ホームに駆込む。ちょうど入ってきた電車に乗り込もうとするも、満員電車の入口に立つ若いOLに肘鉄一発、弾き出されてしまう。うご。目の前を発車する電車を見送る。小さくなる電車。遅刻確定。

 二十分遅れで出社。遅刻を詫びるも、課長から面罵。周囲の視線が痛い。

 ようやく解放され、自席に辿り着く。ああもう、会議まであと十分。課長のせいでまるで準備できてない。やばい。と焦っていたところ、すっと隣から手が伸びる。

「はい、先輩。人数分の資料コピーしておきましたよ」

 と、今年入社したての後輩。新人のくせによく気が利く。雑務に限らず仕事の要領がよく、愛想もいいので、早くも上司たちのお気に入りだ。

「そろそろ行きましょうか」

 ってなに新人のくせにリードしてんだ。俺の立場まで奪う気か。生意気。出る杭は打たねばならぬか。憎たらしい。

 なんとか無事に、というか、いつも通りの予定調和で会議は終わる。一生懸命準備してプレゼンしたのに、なんの張り合いもない。くだらねえ。

 午後は重要案件の得意先往訪だ。――と、しまった。ネクタイがない。慌てて家を飛び出したから、忘れちまってた。

 すでに得意先の最寄りまで出てきてしまっているから、出来た後輩から借りることも能わぬ。仕方がないので、近くにある百円ショップで見つけたネクタイを締めるが、……真っ黒って! 在庫が黒か白しかなかったのだ。で、白よりはましかと。

 得意先の冷ややかな視線を感じながらも、なんとか契約はまとめることができたけれど。帰社すると、皆から喪服かとからかわれるし。我ながら情けない。

 しょんぼりしているところ、弱り目に祟り目、課長から「飲みに行くぞ」と連れ回されて、ようやく帰宅したのは日付も変わりそうな時分。

 ああ、とんだ一日。ろくなことがない。辛い。

いや、今日だけじゃない。いつもこんな感じで、何にもならない。きっとどこかで何かを間違えたんだ。それをやり直せたなら、きっと……。

 と思いながらベッドに沈みかけた俺の頭上から、突如、

「パンパカパーーーン!」

 甲高い声が響く。驚いて跳ね起きると、目の前に、見知らぬ黒づくめの男がにやにやと立っている。いや、黒づくめに見えたが、光の加減によって白にも見える。が、それよりも!

「だだ、だ、誰だよ、おまひぇー!」

 恐怖のあまり声が引っくり返る。

 男はにやにや俺を見つめる。

「いやはや、夜分に突然失礼いたします。私はつまらない者なんですがね」

 つまらない者ってなんだよ! 名乗れよ! という心の叫びは届かず、男は続ける。

「おめでとうございます! 今回貴方様がやり直しチャンスの該当者に選ばれました」

「は?」

「貴方、先程やり直したいと願いましたでしょ。その願い叶えさせていただきます。とは申しても一日だけのチャンスですが」

「え、あ、は」

「そうですね、そうですね。ただやり直しても仕方がない、同じ一日を繰り返すだけだとお考えですね。なので、こちらをプレゼント!」

 男が目の前に差し出す。

「――棒?」

「そう、棒です! これで、今日とはまた違う今日をやり直せましょう!」

 そう高らかに言うと、男は眩い光に包まれて姿を消した。

 思わず閉じた目を、そっと開くと、窓の外が白んでいる。眠っていたようだ。いや、右手には、棒を握っている。棒。そうなのだ、棒。としかいいようがない。鉛筆くらいの大きさの、ただの棒。箸ほど大きくなく、楊枝ほどは小さくない。魔法の杖か? 振ってみるが何も起こらない。だって棒だもの。そもそもあの男はなんだったのか。天使か悪魔か。

 ――と、時計を見ると、ぎゃっ! 七時! 慌てて髭剃りと歯磨きだけ済ませて、家を飛び出る。棒はそのままスーツのポケットに突っ込んだ。

 汗だくで駅まで走り、ホームに駆込む。ちょうど入ってきた電車に乗り込もうとするも、満員電車の入口に立つ若いOLに肘鉄一発、弾き出されてしまう。うご。はっ! そうだ! 棒! とっさにポケットに右手を入れる。……が、さて棒を出してどうする。OLを突っついてみる? 捕まるわ! ドアが閉まらないようにつっかえ棒にしてみる? 折れるわ! と逡巡する間に、目の前のドアが閉まる。小さくなる電車。遅刻確定。

 二十分遅れで出社。遅刻を詫びるも、課長から面罵。周囲の視線が痛い。は! ここで棒……の使い道はないか。いや、課長の頭をズラ……せるか! ばか!

 ようやく解放され、自席に辿り着く。ああもう、会議まであと十分。課長のせいでまるで準備できてない。やばい。と焦っていたところ、すっと隣から手が伸びる。

「はい、先輩。人数分の資料コピーしておきましたよ」

 と、今年入社したての後輩。新人のくせによく気が利く。雑務に限らず仕事の要領がよく、愛想もいいので、早くも上司たちのお気に入りだ。

「そろそろ行きましょうか」

 ってなに新人のくせにリードしてんだ。俺の立場まで奪う気か。生意気。出る杭は打たねばならぬか。この棒で。と、おもむろにポケットから棒を取り出し、後輩に向ける。と、

「なんすか、先輩。お礼とかべつにいいですよー。って、鉛筆とかいらないし!」

 勝手にきゃっきゃとノリつっこみして、さっさと行ってしまった。くそ、できる後輩め。

 なんとか無事に、というか、いつも通りの予定調和で会議は終わる。一生懸命準備してプレゼンしたのに、張り合いもない。

 午後は重要案件の得意先往訪だ。――と、しまった。ネクタイがない。慌てて家を飛び出したから、忘れちまってた。そうか! ここで棒か。この棒をネクタイ代わりに……って、できるか!

 仕方がないので、近くにある百円ショップで見つけたネクタイを締めるが、……真っ黒って! 在庫が黒か白しかなかったのだ。で、白よりはましかと。

 得意先の冷ややかな視線を感じながらも、なんとか契約はまとめることができたけれど。帰社すると、皆から喪服かとからかわれるし。我ながら情けない。

 しょんぼりしているところ、弱り目に祟り目、課長から「飲みに行くぞ」と連れ回されるはめに。「お前のこと期待してるんだから、頑張れよー」と延々とお説教。とりあえずマドラー代わりに棒で課長の酒もくるくる混ぜてみたけれど。これはちがうな。ようやく帰宅したのは日付も変わりそうな時分。

 ああ、とんだ一日が終わる。となると、棒はもうあそこにでも置くしかないか。ろくなことがない。平凡で、つつがない一日だった。

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