【番外編】蒼い瞳の<人形姫>は、今日も貴方に恋をする

神崎右京

蒼い瞳の〈人形姫〉は、今日も貴方に恋をする

 白く抜けるような肌は陶磁器のように白く、緩くウェーブのかかった黄金の髪は、太陽を映したように華やかだ。瞬きをするたび風が起きそうなほど長い睫がついた瞳は、大きく丸い碧玉の輝き。

 それは、絵本の中から抜け出てきたような、どこか人間離れした美しさを持つ、正真正銘の『お姫様』。

 絵画で、書物で、その容姿の美しさを褒め称えられた王女を、いつしか人々はこう呼んだ。

 クルサールの〈人形姫〉と――


 ◆◆◆


 ふぅ…と空気が動いた気配がして、王女付き筆頭侍女エイミーは紅茶を注ごうとしていた手を止めて視線を上げる。

 視線の先にいるのは、社交デビューと共に大陸全土の噂の的となった、〈人形姫〉――クルサール王国の第一王女シルヴィア。黄金の長い睫を伏せるようにして、白く透き通った頬に影を落とす横顔は、まさに名のある芸術家が作り上げた人形と言われても頷ける造形に違いなく、見る者全てを魅了する。


「ねぇ、エイミー」

「はい、シルヴィア様」


 物憂げな横顔のまま、形のいい朱唇が、鈴のような声音をこぼす。伏せられた碧玉の瞳の先には、先ほどまで彼女が読んでいたらしい少し分厚い本。しっかりとした装丁のなされたそれは、一昔前に流行った騎士と姫の恋愛物語。よくもこうまで、と思うほど愛し合う二人に試練が降り注ぎ、そのたびに完璧超人なのかとツッコミを入れたくなるような人物設定のなされた騎士が、次々と困難を切り開いて、周囲の反対も振り切って最後は一国の姫と結ばれる、そんな物語だ。

 こんな物語に恋い焦がれるのは、王子様や騎士様に憧れる幼い少女くらいなものだろう。大人になり、本物の恋を知れば、実際は物語のようなご都合主義は起きないことに気づき、そもそも女性の理想を詰め込んで具現化したようなヒーローなど存在しないと悟るものだ。


「カルヴァン様は、どうして私を選んでくれなかったのかしら……」

「………はぁ」


 エイミーは思わず、不敬と捉えられかねない間抜けな返事を返さざるを得なかった。

 一瞬、何の冗談か――と思ってもう一度その人形姫の整った横顔を見るも、どうやら本人はどこまでも本気でその発言をしたらしい。物憂げな横顔は、まさに彼女の手元にある小説の中に出てくる悲劇のヒロインそのものだった。そういえば、小説の挿絵として描かれていた姫君は、金髪碧眼の美少女だったと思い出す。


「シルヴィア様。恐れながら申し上げます」


 エイミーは、小さく嘆息しながら控えめに声をかける。この世の不幸を背負ったはかなげな人形が、ゆっくりと碧玉の瞳を向けた。

 それを見て――何一つ表情を変えることなく、淡々と――いや、呆れを隠しきれない表情で、エイミーは苦い声を出した。


「シルヴィア様。御年いくつになられたか、覚えておいでですか」

「もちろんよ。今年で、二十二になったわ。昨日の生誕パーティーも盛大に開いてもらったところよ。たくさんの人に二十二のお祝いを寿がれ――」

「そうですね。もう二十二です。――いいですか、今の貴女様は、ただの行き遅れ。恋に恋をし続けて、叶うはずもないわがままを追いかけるあまり、婚期を逃した哀れな姫だという自覚を持ってください」

「なっ――!」

「あぁ、嘆かわしい……せめてまだ二年前なら、〈人形姫〉の通り名の栄光に縋って、よき縁談もあったでしょうに――二十二にもなって、人形も何もないでしょう。今や、人々が貴女をその通り名で呼ぶときには、嘲笑とともに口にされている現実を、きちんと思い知ってくださいませ」

「そ、そんなっ!」


 この世の終わり、とでも言いたげな表情で、シルヴィアががたん、と席を立つ。

 エイミーは額に手を当てながら、やれやれとゆっくり頭を振った。


「よろしいですか、シルヴィア様。貴女様が憧れる完璧な騎士など、この世界におりません。ご執心だったカルヴァン・タイター王国騎士団長は聖女イリッツァ様と二年前にご婚約を発表し、明後日には大々的に婚礼の儀を催します。――貴女も招待を受けているのですから、よくご存じでしょう」

「ぅっ……」

「十七で成人して、二十歳までに結婚するのが普通のこの国において、いくら幼い時から人形姫と謳われたシルヴィア様といっても、二十二歳まで独身とあっては、行き遅れと陰口をたたかれても文句は言えません。それも、のっぴきならない理由があるのならともかく――幼いころからの初恋を諦められない、と周囲を巻き込んで、何度もお断りの返事を申し出るタイター団長相手に無理矢理結婚を迫り、彼が婚約を発表してからはショックで伏せって公務すらおろそかにする始末……何度かあった縁談も『失恋のため』などという理由で拒否した王族は、貴女さまくらいです!世界中の笑い者ですよ!?しっかりと反省なさってください」

「で、でもっ――でも、愛のない結婚なんて――」

「そんな贅沢を言えるのは、二十歳まで!!!!よろしいですか!?恋に恋するお年頃なんて、姫様と同世代の娘たちはもう十年以上前に卒業しているものなんですよ!?」

「ぅ、ぅぅぅ……」


 筆頭侍女は容赦がない。その容赦のなさゆえに信頼を得ているのだから当たり前だが、それでもシルヴィアには耳の痛い話であることに変わりはない。美しい碧玉の瞳にうっすらと涙を浮かべて、眉根を寄せる。その面差しは、思わず見惚れるほどの美しさだったが――


「あーもう、よろしいですか姫様!!貴女の美しい涙で同情を引けるのは、娘時代までです!娘時代――すなわち、子供時代!十七歳までです!いい年をした大人が、二十二にもなって、涙で同情を引けるなどと思わぬよう!滑稽だと嘲笑の的となります!」

「ひ、酷いっ!酷いわエイミー!」

「いーえっ、私は心を鬼にすると、昨日の生誕パーティーで決意したのです!招待客のほとんどが、苦笑か嘲笑を浮かべていたのに気付かなかったのですか!?」

「え!?」

「当たり前でしょう!婚約を発表した後、女嫌いという噂は何だったのかと思うくらい婚約者であるイリッツァ様を溺愛する様子が市井でも話題になっているくらいのタイター団長を、パーティーでもずっと目で追っていらっしゃって!」

「だっ……だって!だって!」

「だってじゃありません!」


 キリキリと眦を吊り上げるエイミーは、昨日のパーティーの様子を思い出す。


 集められた国内外の賓客たちを前に、シルヴィアはずっと英雄の名をほしいままにする王国騎士団長カルヴァン・タイターを目で追っていた。時に哀し気に瞳を揺らし、物憂げな吐息を漏らすその姿は――どこまでも、悲劇のヒロインに浸りきった痛々しい姿の二十二歳。嘲笑を通り越して、同情の目すら向ける者がいたほどだ。

 当然、その視線に気づいているであろうカルヴァンはと言えば、心底鬱陶しそうに眉を寄せて今にも舌打ちを漏らしそうだったことは言うまでもない。パーティーの間中カルヴァンの隣にいた蜂蜜色の髪をした補佐官が、ずっと胃をキリキリさせて涙目で上官を宥めていたのが印象的だった。彼が上官を必死になだめながら、上手にシルヴィアと二人で会話するような状況を作り出さないよう陰に日向に動き回って画策してくれたおかげで、三日後に結婚式を控えているような相手に王女の方から告白をして公開失恋する、などという不名誉極まりない醜聞を晒さなくて済んだ。あの補佐官には今度特別にお礼をしてもいいとすらエイミーは思っていた。


「いいですか。貴女のわがままは、もう誰も聞いてくれません。いい加減、腹をくくって、早くご結婚相手を見つけてくださいませ」

「ぅ……」

「無事、陛下も第二子を授かりましたし、王家の血筋の継承は気にしなくてよいので。もう、誰でもいいので、お願いですから、誰かと結婚してください姫様……」


 もはや最後は懇願に近かった。幼少期から面倒を見てきた筆頭侍女たるエイミーの、心からの願いに、シルヴィアはぐっと言葉を詰めてうつむいた。眦に、うっすらと涙が浮かぶ。


 いまにも零れ落ちそうなそれを見て――エイミーは、うっかりほだされないよう喝を入れながら、それでもゆっくりと口を開く。


「よかったじゃありませんか。タイター団長が選ばれたのが、聖女様で」

「――――……」

「きっと、聖女様以外の誰かだったら、シルヴィア様は納得されなかったでしょう」


 シルヴィアは哀し気に眉を寄せながら――こくん、と小さく一つ頷いた。


 シルヴィアの父――先代国王は、妻に恵まれなかった。最初に結婚した正妻は、ウィリアムという男児を生んだ後、体調を崩し、そのままこの世を去った。王族の血筋を残すため、悲しみが癒え切る前に、周囲の圧力もあって第二妃を迎えたが、彼女もまた、シルヴィアを生んだ後、ほどなくしてこの世を去った。

 立て続けに二人の妻を亡くした先代国王は、酷く心を痛め、自分はそういう星の下に生まれたのだと思い、第三妃を取ることはなかった。自分の妃となって子を産むと、必ず死なせてしまう妄執に捕らわれてしまったのかもしれない。

 早くに母親を亡くした子供たちは、その分不自由のないようにと、周囲の人間から愛情たっぷりに育てられた。王位継承権を持たないシルヴィアは、特に自由に、可愛がられて――平たく言うと、甘やかされて育った。


 清貧を美徳とする宗教国家クルサールだったことが幸いし、よくある悪役令嬢よろしく鼻持ちならない傲慢な姫になることがなかったのは良かったが、自分の欲求に対してやや諦めの悪い性格に育ててしまったとエイミーは反省している。

 諦めなければ、誰かがきっと何とかしてくれる――なぜなら、自分は世界に愛されて生まれてきた、幸せになるべき人間なのだから。そんな人生観が、彼女をいつの間にか支配していたのだろう。

 結果――大陸一の勢力を誇るクルサール王国の第一王女という肩書と、人形姫と綽名されるほどの美貌を持ちながら、二十二になっても初恋相手との結婚をあきらめきれず、舞い込む縁談のすべてを却下し続ける痛々しい姫になってしまった。


 権力を笠に着て、無理矢理結婚話を推し進めようとしていたシルヴィアにとって、聖女イリッツァの存在は寝耳に水だっただろう。

 それ以外の女なら、誰であろうと戦った。決して諦めなかった。権力も美貌も、負ける要素などないと思っていたから。

 だが、初めて目の前に現れた恋敵は――権力も、美貌も、シルヴィアには遠く及ばなかった。ついでに言えば、若さも。


 だから、毎日こうして憂鬱なため息を漏らすだけにとどまっている。そうでなければ、無理矢理カルヴァンを拉致してでも婚礼の儀を上げるくらいの強引な手法を取っていただろう。


「それにしても――シルヴィア様は、どうしてそこまでタイター団長にご執心だったのですか?」

「え――?」

「確かに、彼は救国の英雄と呼ぶにふさわしい人物です。貴女が大好きなその小説に出てくるヒーローと同じく、騎士でもある。顔立ちも整っていて、背も高く、騎士団長ともなれば、身分も大貴族と同等――ですが、誤解を恐れず言わせていただければ、三十路を過ぎた、十も上の男ですよ?婚期を貴女以上に逃している男です。しかも、聖女様が現れるまで、誰一人寄せ付けない恐ろしい『鬼神』と綽名されるにふさわしい空気を纏って、王都一の女嫌いで有名でした。ふたを開ければ、十五も年下の聖女様を溺愛する、幼女趣味疑惑――いくらシルヴィア様が、恋に恋する乙女だったとしても、何年も何年もあきらめずに執着するほどの男とは、正直――」


 最後の方は、もごもごと口の中に消えていく。

 聖女を妻にするとカルヴァンが公言したときは王国中が騒がしくなったものだが、その話題性の一つは、二人の年の差だった。当時三十だったカルヴァンの半分の齢しかなかったイリッツァ。どんな縁談も蹴り続けていたカルヴァンは、実は深刻な幼女趣味を抱えていたのでは、という不名誉な噂が面白おかしく国中を駆け巡ったものだ。

 噂の真偽はわからないが、恋に恋していただけの憧れの騎士様の、そんな不名誉な噂を耳にすれば、一瞬で幻想は砕け散り、現実を見てくれるのでは――とシルヴィアの周囲の大人たちは全員が期待したのだ。結果は、全くそんなことがなく、大人たちをさらに悩ませただけだったが。


「――カルヴァン様は、約束してくださったの」


 ぽつり、と。

 鈴を転がす声音が、部屋に響いた。エイミーが顔を上げた先では、白魚のような繊手が、先ほどまで手にしていた小説の表紙をゆっくりと撫でている。

 その表情は、穏やかで、儚げで、切なくて――

 碧玉の瞳が、遠い記憶をたどるように、ゆっくりと細められた。


「大人になっても、まだ、私がカルヴァン様を――…」


 うっとりと緩んだ瞳で、シルヴィアはそっと胸の奥にしまい込んでいた懐かしい物語を紡ぎ始めた。


 ◆◆◆


 もう、何年前のことだったかなんてわからない。ただ――確実に、十七年以上前だということはわかっている。まだ、先代の聖女フィリアが存命していた時代だったのだから。


 先代国王だった父親に連れられて、シルヴィアは兄とともに、初めて聖女の屋敷を訪れていた。王城のすぐそばに作られた、大貴族だとしてもここまでの防犯対策はしていない、と思えるほど厳重な守りで固められた大きなお屋敷。国の宝であり、神の化身と呼ばれる聖女が住まうその屋敷は、当時の王国騎士団長バルド・ガエルの屋敷でもあった。国中の憧れの夫婦像として語られる彼らは、その身分違いの恋も相まって、たくさんの創作物語が作られた。重厚な物語を紡ぐ小説だったり、子供たちにもわかるような絵本だったり。母親を知らないシルヴィアは、侍女たちに絵本を沢山読み聞かせてもらうのが好きだった。当然、バルドとフィリアをモチーフにした物語も大好きで、何度も何度も読み返していた。

 幼心に、美しい聖女と真紅の衣の騎士との恋に憧れながら、生まれて初めて訪れたお屋敷。物語の中にしかいなかった人物がここで暮らしているのかと思うと、興奮が隠せなかった。


 実際、屋敷で見た聖女は――息を飲むほど、美しかった。それは、絵本で見た挿絵の、何百倍も美しかった。

 絵本と異なり、笑顔の一つも浮かべない氷の聖女は、神の化身と言われるにふさわしい神々しさも纏っていた。お会い出来たら色々とお話をしたい、とワクワクしていたにもかかわらず、その圧倒的な存在感に、思わず口を閉ざしてしまい、彼女の前では何一つ言葉を紡げなかった。

 恐らく、訪れたのは公務の一環だったのだろう、と今は思う。だが、当時は幼かったので、フィリアの前で父や兄が頭を垂れて難しいことをやり取りしていた光景をぼんやりと覚えているだけで、詳細までは思い出せなかった。


 そして、運命は帰り時にやって来た。


 父と兄だけがフィリアと部屋に残され、何やら難しい話をすると言ってとどまった。先に王城に帰るように促されたとき、後ろに控えていた赤銅色の髪をした護衛の少年兵が、「私がお送りしましょう」と申し出た。少年兵は、氷の聖女と同じ顔をしていた。

 護衛の兵が傅くのは、王族として慣れていた。年のころなら十五歳前後と見受けられる少年兵が、まだ絵本が大好きな年頃の幼女相手に馬鹿みたいに丁寧な言葉で話しかけるのも、当然だと思っていた。幼い歩幅に合わせるように、ゆっくりと歩いてくれる少年兵に連れられて、屋敷の外へと向かう途中――


「なんだ、リツィード。どこかに出かけるのか?」

「へ?あぁ、ちょっと、王城まで護衛任務」


 ――運命の出逢いを、果たした。


「珍しいな、カルヴァンが屋敷に来るなんて」

「兵団長のお使いだ。お前に急ぎで――って、なんだそのガキ」

「!!!?」


 目玉が飛び出るくらいに驚いた。

 今までの、数少ない人生の中で――『ガキ』などと呼ばれたことなど、一度もなかった。

 そして、こんな、粗野な言葉遣いをするものも、決して。


「お前、不敬罪で投獄されるぞ…」


 赤銅色の髪をしたリツィードという少年兵は、呆れかえったような声で呻く。

 だが、目の前の『ガキ』呼ばわりしてきた男は、何も気にしていないようだった。灰がかった藍色の髪に、王国ではあまり見ない灰褐色の瞳が印象的な、長身の男。年のころなら、リツィードと同じくらいだろうか。


「街で肖像画くらい見たことあるだろ。――シルヴィア王女だ」

「――あぁ。〈人形姫〉」

「そう。知ってるじゃねーか」

「今思い出した」


 飄々と嘯きながら、今まで経験したことないような無遠慮な視線が絡みついてくるのを感じて、咄嗟にリツィードの足の影に隠れる。見慣れない灰褐色の瞳が、どうにも落ち着かない。


「シルヴィア王女。こいつは、カルヴァン・タイターといって――貴女みたいな方は、絶対にお近づきになってはいけない人種です。十分に注意してください。そうやって隠れるくらいの警戒心が丁度いいです」

「オイ。どーいう意味だそれは」

「そのままだろ、女の敵」


 頭の上で応酬される気安いやり取りは、二人の親しさを表していた。憧れの聖女と同じ顔をしたこの少年兵が心を許しているという事実が、少しだけ恐怖心を取り除く。

 カルヴァンと呼ばれた男は、左耳を軽く掻いたあと、すっとその場にしゃがみ込んでシルヴィアの顔を覗き込む。

 整った顔に覗き込まれて、ドキン――と、心臓が一つ音を立てた。


「ふぅん…まぁ確かに、噂になるだけのことはあるな。十年後が楽しみな感じではある」

「オイお前さすがに守備範囲広すぎるだろどんなロリコンだこの変態」

「十年後、って言ってるだろ。さすがの俺も、こんなガキ相手じゃ下半身反応しな――」

「だぁぁあああああ!!!王女様の前で何言おうとしてるんだぶっ飛ばすぞお前!」


 カルヴァンの言葉を遮って叫び、慌ててリツィードがその口を押さえる。急にリツィードが動いたせいで、隠れていた場所がなくなり、ハッと息をのんだ。おろおろと周囲を見渡して隠れる場所を探すと、くくっ…と抑えた低い笑い声が聞こえた。

 声の方を振り返ると、リツィードにお説教されているカルヴァンが、慌てるシルヴィアを見て笑いを漏らしたようだった。喉の奥でかみ殺すように低く響く声は、不思議な色香を纏って、ぞくりと背筋を震わせた。


 ドキン――と、再び、胸が鳴る。


「どうやら筋金入りの箱入り娘みたいだな」


 ニヤリと笑んだ頬が、むせ返るような雄の色気を発する。生まれて初めて、シルヴィアは頬に得体のしれない熱が灯っていくのを感じていた。

 それを見て、「お?」という顔をした後――カルヴァンは、くっともう一度笑みを漏らす。お説教をつづけるリツィードを軽くいなして、真っ赤になってオロオロするシルヴィアに近寄ると、ふっとその手を自然に取った。


 あまりに当たり前のような様子で手を取るから、思わず抵抗するのを忘れてしまった。


 覗き込んでくる灰褐色の瞳が、濃密な何かを纏っているようで、赤い顔のまま、吐息すら苦しくなってくる。


「今のアンタは対象外だが――大人になって素敵なレディになったときも、気持ちが変わらなければ、その時は声をかけてくれ」

「――――!」


 ニッと片頬を歪めて笑うと――そのまま、軽くシルヴィアの手に口づけを落とす。


 ドキンッ…


 心臓が口から飛び出たのでは、と思うほど高鳴るのが分かった。

 それは――絵本で何度も見たことのある憧れの光景。

 完璧超人の騎士が、愛する女性に対して行う、永遠の愛を誓う時の仕草に酷く似ていた。


「ダメです王女様!!!!そんな女の敵に誑かされてはいけません!!!!!」

「きゃ――!」


 焦った声が聞こえて、ひょいっと抱き上げられるようにして カルヴァンから引き離される。


「お前ホント、いい加減にしとけよ!!!?性別女ならだれでもいいのか!!!?」

「んなわけないだろ、美人限定だ」

「ふざっけんな!!!」

「あーあーうるさい。――ほら、これ。兵団長からの預かりものだ。ちゃんと届けたからな」


 カルヴァンは左耳を掻きながら面倒くさそうに目を眇めた後、ひょい、と懐から取り出した羊皮紙を渡す。そのまま、ひらりと後ろ手に手を振ってあっさりと去って行ってしまった。


「王女様、本当に申し訳ございません。俺の同僚が、とんでもない不敬を――」

「ぁ…ぃ…いえ…」


 ドッドッドッ


 まだ、心臓がうるさく早鐘を打っている。真っ赤になった顔から熱が引かない。


「その、根は悪い奴じゃないんです。すごくわかり辛いんですが、ちゃんと優しいところもあって――素直じゃないし意地悪で女癖が悪くて性格がねじ曲がっていることは確かなんですが、えぇと、それでも」


 ごにょごにょと口の中で何か言い訳をしてから、リツィードはふ、と最後に微笑む。


「俺が一番信頼している男です。きっと、あいつは、将来国を救う英雄になる。だからどうか、大目に見てやってください」

「は…はい…」


 うるさい心臓を持て余しながら、シルヴィアは長身が去っていった方角をぼんやりと熱に浮かされた瞳で眺める。


(カルヴァン――カルヴァン・タイター…)


 それは、まだ彼が、王都一の女たらしと呼ばれていた時のお話。


 世間知らずの幼気な少女を報われぬ初恋に突き落とした、罪深い男の物語――


 ◆◆◆


 窓の外を見ると、すでにそこには暗闇が広がっており、明かりの一つも見つけられなかった。


「カルヴァン様――…」


 シルヴィアは、独りきりの部屋の中でそっとつぶやき、眦に浮かんだ滴を払う。


 昼間、自分が経験した運命の出逢いについてエイミーに話したら、それはそれは呆れられて馬鹿にされた。そんな、誰が聞いてもわかるその場しのぎの適当な言葉を信じて、本気で大人になってから言い寄るなんて、世間知らずどころの話ではないと怒られた。

 彼に『美人』と言われたのが、嬉しかった。それまで王族として節度を持った接し方しかされてこなかった大人たちの中で、粗野で男らしい言葉遣いと、この世のすべての女を惑わすような雄の色気を纏う視線に、くらくらした。憧れの愛を誓うときの仕草に、自分が物語のヒロインになれた気がした。将来、もう一度その仕草を受ける日が来るならば、相手はカルヴァンしかいないと思っていた。


 その後、再会したとき――彼は、以前纏っていた人間臭さを全て払拭して、その瞳に雪国を宿して心まで凍てつかせていた。あんなに気安く話していた赤銅色の髪をした親友を永遠に失って、鬼神と呼ばれるにふさわしい男になってしまった。


 だから、もう一度、昔のように笑ってほしかった。


 あの時のカルヴァンを――初めて恋に落ちた、あの男らしい彼を、見てみたかった。

 凍てついた心を溶かすのは自分なのだと、本気で思っていた。どんなに拒否されても、氷で覆われた一面を見せられても、彼の本質を知っているのは自分だと、そう思っていた。

 それなのに――


「私では…ダメ、なのですね…」


 現れた新しい聖女イリッツァの前で、カルヴァンはたやすく以前の表情を取り戻した。全ての女を誑かす色気に満ちた視線を――今は、イリッツァただ一人に向けて、注いでいる。


「っ――……」


 はらり、と音もなく滴が伝っていくのを、そっと指で押さえる。

 何度も繰り返し読み込んだ物語の中では、姫が涙を流せば、真紅の衣を着た騎士が優しくハンカチで拭ってくれた。いつか、カルヴァンと、そうした小説の中のシーンを再現できる日が来ることを夢見て生きてきたが――こうして部屋の中で、誰にも拭われることのない涙は、ぱたぱたと床に静かに染みを作るのみだ。


 これが、現実。シルヴィアの、クルサールの〈人形姫〉の、まぎれもない現実なのだ。


 明後日は、カルヴァンとイリッツァの結婚式――報われない初恋に決着をつける日なのだろう。

 せめて、嗚咽だけは漏らすまいと、シルヴィアは静かにぬぐわれることのない滴を月の光に晒して、思い出の中の初恋の人を想い描いた――


 ◆◆◆


 ガサッ…と足元で踏みしめた草が音を立てた。


「っ――!」


 息を詰めると、ポロポロポロっと一気に滴が頬を伝い落ちる。

 今日は、お祝いの場だ。泣き顔なんて、見せられない。それはわかっているが――シルヴィアは、こみあげてくる熱い涙を堪えることなどどうしてもできなかった。せめてもの配慮で、広場の隅の人目につかないところで、顔を見られないようにして嗚咽をかみ殺して静かに滴を落としていく。


 花嫁衣装に身を包んだイリッツァは、この世のものとは思えぬほど美しく、女としても勝ち目がないことを痛感させられた。そして、その隣に寄り添うカルヴァンは、最初からイリッツァのことしか目に入らない、という様子を隠しもせず、シルヴィアに見せつけるようにぴったりと体をくっつけるようにしていた。――実際、それが目的だったのだろうとは思う。


 だが、憧れた男性の隣で花嫁衣裳を着るのが自分ではないという事実は、二十二歳にもなって少女趣味をこじらせているシルヴィアには酷なものだった。

 涙を流しているシルヴィアのことに気づいている者はいるだろうが、彼女が初恋をこじらせてカルヴァンを困らせていたこともまた有名だ。今回の主役の華やかな席に水を差すことは出来ない。――王族よりも身分が上の、聖女の結婚式なのだから。


 故に、シルヴィアの様子をはれ物に触るかのように遠巻きにしている大人たちばかりの中で――

 カサッ…と小さな足音が、シルヴィアの耳に響いた。


「あの――シルヴィア王女」


 控えめに掛けられた声に、小さく、横顔だけで振り向く。

 そこには、困り顔がなぜか酷く似合う、童顔の青年が立っていた。


(――――騎士…?)


 蜂蜜色の柔らかい髪をした童顔の青年の装いは、この国の者なら誰もが知っている紅装束――神の戦力たる騎士の証だ。胸に下げられた聖印が良く握られるためか酷く使い込まれた印象なのは、彼が敬虔なエルム信徒であることを指している。

 少し困った顔で笑った後、青年は、ごそごそと服を探り、そっと手を差し出した。


「――――え――」

「俺なんかがこのようなこと、大変烏滸がましいのですが――もし、よろしければ、お使いください」


 差し出された手に握られているのは、真っ白な飾り気のないハンカチ。


 ドキン――


 何度も繰り返し読んで暗記している小説のワンシーンが、脳裏によみがえった。


「――あの……?」


 差し出した手をじっと見つめるばかりの王女に、青年は戸惑った声を上げる。やはり、身分の違いを理由に理不尽に怒鳴られたりするのだろうかと不安に思い始めたその時――


「拭って」

「へ…?」

「拭ってください。貴方の手で」

「――――は……?」


 ぽかん…と青年の鼈甲の瞳が何度か瞬かれる。

 しかし、一応相手は王族だ。青年のような身分の者には理解できないが、涙は下々の者が拭うという慣例があるのかもしれない。


「えぇと、では――失礼します」


 青年は、一瞬戸惑った顔をした後、緊張した面持ちで、ゆっくりと近づき――そっと、人形のようなその頬を優しく拭った。


 トクン――……


「――あなた」

「は、はい」

「名前は?」

「え――あ、はい。リアム・カダートと申します。騎士団にて、副団長とカルヴァン団長の補佐官を兼任しております」

「そう。リアム。――――リアム、様」

「――――は――?」


 うっとりと、ほんのり頬を染めて呟かれた名前に、青年――リアムの手が強張る。


(――――えっと)


 上官ほどではないが、人一倍優秀な頭を回転させてリアムは考える。

 散々見てきた。彼の上官――カルヴァンが、この我儘王女に振り回される様を。この王女が、カルヴァンをどういう瞳でどういう表情で追いかけていたか、暴君のような上官に酷く面倒な役回りを押し付けられまくっていたせいで、嫌でもよく知っている。


(――――気のせいでなければ)


 何故だかよくわからないが――つい三日前の彼女の生誕パーティーでは上官に向けられていたはずの表情と同じものが、今、自分に向けられているような気がする。


「――――えっと。それでは失礼いたします」


 くるり、と。

 本能が危険を告げ始めたのでさっさと踵を返そうとするも、パッとその手を引き留められる。


「リアム様。リアム様、今、お付き合いをしていらっしゃる女性はいらっしゃるのですか?」


(ひぃいいいいいいい~~~~~~~っ!)


 爛々と輝き始めた碧玉の瞳のターゲットが自分に据えられたことを知り、リアムは心の中で渾身の悲鳴を上げたのだった。


 ◆◆◆


「さぁ!帰りましょう!すぐに帰りましょう!音速で帰りましょう!」

「まぁそう言うな。久しぶりに王城に来たんだ、ゆっくりしていけ」

「絶対嫌です!見つかります!!!!」


 とある魔物討伐任務を終えて報告のために王城にやって来た帰り道、リアムは必死にカルヴァンに訴える。カルヴァンは、くく、とおかしそうに喉の奥で嗤うのみだ。こういうとき、本当にこの上官の性格の悪さは質が悪い。


「これ以上ない逆玉だろ。よかったじゃないか。しかも、相手はクルサールの〈人形姫〉と言われるくらいの美女だぞ?」

「いやそう思うなら変わってくださいよ!!!!アンタだって全力で逃げてたじゃないですか!!!」

「俺にはツィーがいる。お前は独り身だろう。周囲が心配になるくらい女日照りが続いてたんだから、この際丁度いいんじゃないか?童貞拗らせてる場合じゃないぞ」

「いやいやいやいや、俺にだって好みのタイプとかありますから!」


 言いながらリアムは真っ白な王城を早足で出口に向かって進んでいく。


「俺のタイプは、ナイードで見たイリッツァさんみたいな、穏やかで慈愛に満ちた笑顔が似合う、お淑やかで物静かな可愛らしい女性です。ああいう、自分からぐいぐい来るタイプは好みじゃないんです…!!!」

「あいつが物静かかどうかは議論の余地があるとして――まぁ、なるほど?」


 ニヤニヤ笑う上官を置いてきぼりにする勢いで、必死にリアムは足を動かす。

 きっと、今日騎士団の報告があることはシルヴィアも聞いているはずだ。周囲の人間も、やっと報われぬカルヴァンへの恋を諦めてくれたということで、リアムとの恋路を応援しようとしている風潮さえある。本人にはリアムの動向など筒抜けだろう。いつまでも王城に留まっていては、王女に捕まり面倒に巻き込まれるのは時間の問題だ。

 外堀から埋められて行くのを必死に抵抗しながら、リアムは日々シルヴィアからの熱烈なアピールから逃げ回っていた。


「大体、俺、今好きな人いますから!!!」

「――――ほう?」

「そりゃ、確かに、なかなか接点持てないし、滅茶苦茶美人で高嶺の花だし、元敵対国出身っていうこれ以上ない障害が立ちはだかっているのはわかってますよ。あんな陰のある妖艶美人、俺なんか相手にしてくれないってわかってます。でも、俺は、やっぱり、ランディアさんみたいな、寡黙で笑顔が美しい、ちょっと影があるような女性が――」

「あいつ、男だぞ」


「―――――へ――?」


 思わず、リアムの足が止まるのと。


「リアム様ぁ~~~~!」


 どこからともなく現れた人形姫が、ドレスを翻しながらリアムに抱き付くのは、ほぼ同時だった。


「――――え……?ちょ……は、はは……だ、団長……?やだなぁ、まったく、意味わかんない冗談を――」

「いや、今まで伝える機会がなくて悪かったが。そして面白いから黙っていて悪かったが。――お前が惚れてると言っているランディア・ジュートは、正真正銘の男だ」

「――――」

「俺の言うことが信じられないなら、今度、ツィーに確認してみろ。同じこと言うぞ」


 鼈甲の瞳が大きく見開かれ、どんどん顔が青ざめていく。


「リアム様!今日こそ、私のお部屋にいらっしゃっていただけますか!?」


 頬を紅潮させて、美しい人形姫が、碧玉の瞳を輝かせている。

 リアムは、その姿を視界に入れることなく空を仰ぎ――


「団長。――――ちょっと、長期休暇をもらっていいですか。しばらく、人生を見つめ直す放浪の旅に出たいです」

「却下だ。帰ったら山ほど仕事が待ってるぞ、副団長」

「リアム様っ!リアム様っ!」


 見上げた空は、どこまでも高く、蒼く――まるで、おとぎ話の中のワンシーンのように、鮮やかだった。 

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【番外編】蒼い瞳の<人形姫>は、今日も貴方に恋をする 神崎右京 @Ukyo_Kanzaki

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