2話 誤彷徨

民宿で迎えた朝、トイレから部屋に戻ると外は明るくなっており、公園のベンチに座るあの女の姿もはっきりと見えて、きのうの憂うつな気持ちがまた甦ってきた。


民宿を出てからコンビニに向かった。

民宿で用意してくれた朝食の弁当はあるが、昼食とビールを買うためだ。


港に着くと、船長も他の客も集まってはいたが、船に乗り込んではいない。


「風が強くて、今日は船を出せないかも」、との船長の言葉に、俺はショックを受けた。


船釣りではよくあることだが、一時間ほど様子をみようということになった。


車中で待機し、弁当を食べていたが、ますます風は強まり、今日の釣りは中止となった。


最悪であるが、自然相手の遊びなので仕方がない。

のんびり帰って寝ることにしよう。


船長にまた来るよと挨拶をし、車を走らせたが、トイレに行きたかった俺は、少し困った。


あの公園の前を通るのだから、そこのトイレを使えばいいのだが、あの女を見るのが嫌だったのだ。


しかし、何も買わずにコンビニのトイレを借りるのは気がひけるので、仕方がないかと公園に向かった。


トイレに向かう途中のベンチには、やはりあの女がいた。


帽子を目深に被っているのでよくわからなかったが、座っているというより、またリュックにもたれて寝ているのかもしれない。


ただ、服を着替えたのか、昨日よりもホームレス感は薄くなっていた。


女の前を通ると、俺の存在に気づいたようで顔を上げた。


俺はあえて目を合わさずにトイレに行き、再び戻ると女はいなくなっていた。


車に戻り乗り込もうとしたとき、駐車場の隅で、女がリュックを背負ったまましゃがみ、植え込みにいた野良猫を撫でているのが見えた。


よせばいいのに、俺は車で女に近づき、昼食用にコンビニで買ったおにぎりなどを渡した。


女は袋の中を覗き、無言で二度頭をさげた。


そのまま帰ろうとしたが、猫は、その女の持ち物が食べ物であると気づいたのか、甘ったるい大きな鳴き声をあげたので、思わず女も俺も笑ってしまった。



これが、この女との縁の始まりだった。


俺は、朝の弁当の残りを猫に与えた。


女は無言で猫を見つめながら、俺の渡したおにぎりを貪っていた。


やがて猫は去り、女との接点は無くなったので俺は車に乗った。


「困っているなら、交番なり役所に行きなよ」

俺は女にそう言った。


女は何も答えることなく、俺を見つめているだけだった。


俺は視線をはずし、車に乗り込もうすると、今日初めて女は言葉を発した。


「助けてください」


「助けてくださいと言われても、俺には何もできないよ。交番なり役所に連れて行くことくらいはできるけどさ」、と言うと、

「前にも警察や役所は行きました。でもどうにもなりませんでした」、と女は答えた。


「俺はこれから横浜に帰るけど、その途中に知り合いとかがいるのなら、そこまで乗せてやるよ」


女はそれには答えることなく、助手席の方にまわってきた。


助手席の窓を開け、「しょうがねえなあ、乗れよ」、と言うと、女はドアを開け乗り込んできた。

が、助手席に女が座った瞬間、俺は乗せたことを後悔した。


体臭である。


俺は建設業だから、仕事帰りに職人たちを車に乗せることがあるが、その男たちの汗臭い体臭と、殆ど変わらない臭いがした。


「困っているなら役所に行けよ。俺もついて行ってやるから」、と言うと、「困ってはいますけど、警察とか役所に行くと、同居してた男に見つかるので困るんです」


これを聞いて、本当に厄介な人間に関わってしまったと後悔した。

言っていることはよくわからないが、警察や役所を嫌がるなどというのは、犯罪者と同じだからだ。


「家出をしたってことかい? でも、そんなホームレスみたいになるのなら、同居人の元に戻る方がよほど楽だろうよ」、と言うと激しく首を振り、

「もう絶対に嫌なんです。帰ったら本当に殺されますから」


「だから、そういうことなら警察に行くべきなんだよ」


埒があかなかった。


とにかく俺は帰りたかったので車を走らせ、途中の交番などで降ろすつもりでいた。


高速に入ればすぐに自宅に帰れる。

が、女には言わなかったが、県道を走り、三浦市役所に向かった。

今日は平日なので市役所はやっている。

そこの福祉関係の課に行けば、相談に乗ってくれると思ったからだ。


しかし、三浦市役所に到着した途端、女の態度が豹変した。


まるで怯えた小動物のように震え、膝の上に顔を乗せ、嗚咽を始めた。


「お願いします、役所とかは許してください。駄目ならここで降ります」、と言い、ドアを開け車外に出て行ったが、慌てていたのか、後部座席に置いた自分のリュックを忘れていた。


本当に嫌気がさした。

なんでこんなことに首を突っ込んでしまったのかと自分に腹がたち、その場でリュックを投げ捨てて帰りたい気持ちだった。


車を降り、後部座席にあるリュックを持つと、やけに重かった。


ファスナーを開けると、中には汗臭い衣服と、大きな石が入っていた。


そのまま俺は運転席に戻った。


あの女は、やはり死ぬつもりだったのだ。


あの暗闇の防波堤でこのリュックを背負い、海へ飛び込むことを考えていたのだろう。


そして、まさに飛び込もうとしたときに、俺が車のライトを点けたことで機を失ったのかもしれない。


「めんど臭せえなあ」


そう呟いてから、俺は車を降りた。


女はすぐに見つかった。


役所の目の前に公園があるが、その公園のトイレの前で待っていたら、女は出てきたのだ。


女は、自分の風体がみすぼらしいことを自覚しているのだろう。

だからホームレスと同様に、隠れられる場所は公園の片隅とか、トイレくらいしかないのだと思う。


なんだか、哀れみを強く感じてしまい、俺は女に声を掛けた。


「わかったよ。話を聞いてやるから車に乗りな」


女は無言でついてきた。


高速に乗ったが、運転に集中できなかった。

この女をどうしていいのか考えあぐねていたからだが、そうなると行き先すら決まらない。


この女の今の風体では、飲食店などに入る気にもなれないし、ましてや俺は独身だが、自宅に連れて行く気にはさらさらなれない。


しかし、結局自宅に戻った。


一旦俺だけ家に入り、女のために、離婚した元妻が残していった、トレーナーやジャージ、タオルなどを女に渡し、近所のスーパー銭湯に歩いて向かった。


この、何日も風呂に入っていないであろう女に、人間らしく、とりあえず(普通の人)に戻って欲しかったのだ。


「こんな所、入ったことないんですけど」


不安そうに女はそう言った。


「普通の銭湯と同じ。出たら、あそこの座敷で待ってな」


そう言い、フロントで別れた。


俺は湯船に浸かりながら、この先を思った。


ここでメシを食うことくらいはいいが、その先をどうするかだ。


女が嫌がろうが、とにかく役所や警察に頼む以外思いつかない。


一旦俺の自宅に連れていき、そこに警察か、役所の人間を女にわからないように呼ぶことを考えた。



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