鳶の棲む街
@yokomaru4780
第1話 サイン
仕事も忙しく、また、休日になると天気も悪かったので、俺はまったく釣りに行けないでいた。
今日だって仕事の予定だったが、急に昨夜キャンセルとなったので、大喜びで支度をして深夜に家を出たのだ。
船に乗っての釣りは、二ヶ月振りかもしれない。
大好きなイーグルスやコモドアーズなどの曲を聴きながら、高速を走ること50分で、三浦半島の先端三崎港に到着した。
港の西側にある公園はトイレもあり、駐車場の前は堤防となっていて、景色が最高の場所だ。
俺はここに車を停め、船の出船時間まで、買ってきた弁当などを食べるのをルーティンとしている。
5時近くになると、漆黒の闇だった空が薄まってきた。
秋の夜明けは遅めだが、この黎明のときが俺は大好きなのだ。
車のシートを少しだけ倒し、間もなく朱に染まるであろう地平線を眺めていたとき、視界の端に、人らしき気配を感じた。
早朝散歩するには暗すぎるし、漁業関係者の通る場所でもない。
まして釣りが禁止の場所なので、今まで暗い時間に人を見かけたことは殆どない。
最初、その人影は俺の車の方に近づいてきたので、少し緊張をした。
以前釣り船の船長から、この公園の駐車場で、車上荒しがあったと聞いたことがあるからだ。
しかしその人影は、駐車場とは反対の、海沿いの方向に向きを変えたので少し安心した。
缶コーヒーを飲みながら海を見つめ、地平線と空のグラデーションを楽しんでいたとき、再び視界の中に、あの人影が戻ってきた。
堤防の淵に立ち、海を覗きこんでいるのか、立ったりしゃがんだりしているように見えた。
やがて空は明るさを増し、堤防に動くそのシルエットが、小柄な女性のようにも見えてきたので、ますます俺は興味が湧き、また不安にもなった。
「自殺でもするんじゃねえだろうな」
思わず俺は呟いた。
変なことには巻き込まれたくはないが、車のエンジンをかけ、ライトを点けてみた。
ライトに驚いたのか、その人影はすっと立ち上がり、こちらを向き眩しそうな仕草をしたあと歩きだし、足早に出口方向に消え去った。
ライトアップされたその人影は、リュックを背負い、帽子を目深に被っていたが、やはり明らかに女性であった。
もしかしたら、本当に自殺をしようとしていたのかもしれないが、とにかく、面倒なことに巻き込まれなくてよかったと思った。
間もなく船の出船時間になるので、トイレを済ませようと歩いていると、途中にあるベンチに、先ほどの人影と思えし女が座っていた。
俺の足音に気づき、はっとしたように顔を上げたが、それまでは大きなリュックにもたれて寝ていたようだった。
女は俺を一瞥すると、すぐに下を向いた。
用を済ませトイレから出ると、すでに女の姿はなかった。
正直、近くで見た女の印象は、ホームレスかと思うほどその姿はみすぼらしく、垢抜けないものだった。
釣りは散々だった。
魚は潮の流れに敏感だ。
潮の流れがあると魚の食い気は活発になるが、その潮が、大潮だというのに丸一日全く流れなかったので、目当ての魚は釣れなかった。
港へ帰る船の上で、俺は迷っていた。
釣りの最中に、明日も仕事は休みだとのメールが親会社から入ったからだ。
このままでは引っ込みがつかない。
船長に聞いたら、民宿を経営している親戚がいると言うので、今夜はそこに泊まり、明日も釣りをしようかと考えていたのだ。
結局、来週の休みは用事があることを思い出し、今夜はその民宿に泊まることにした。
例の公園から、歩いて数分の場所にその民宿はあった。
部屋は昔風の和室だが、窓からの景色は公園の駐車場と同じで、相模湾が一望できる最高の眺めだった。
さっそく風呂に入ったが、食事までは時間があったので散歩に行き、コンビニで買ったビールを片手に海岸に向かった。
東海岸では、投げ釣りをしている釣り人が多く、バケツを覗くと小さなキスなどが入っていた。
夕暮れが近づいたので、民宿のある西海岸に向かって歩いていると、黄昏色の空に、鳶が舞いはじめた。
出船前に船上などで食事をしていると、音もなく上空から飛来してきた鳶に、手にしていたおにぎりなどを取られることがよくある。
(トンビに油揚げさらわれた)、を地で行くことが、港ではよく起こるのだ。
鳶は、俺の上空を旋回している。
コンビニでつまみに買って持っていた、魚肉ソーセージを狙っているのだろう。
俺はいつもの公園に入ってベンチに座り、その鳶を眺めていたが、いたずら心から、手を空に向けて伸ばし、ソーセージを鳶に見せつけてみた。
案の定鳶は急降下し、そのソーセージをかっ拐らって行こうとした瞬間、俺は手を引っ込め、取られないようにした。
鳶とのゲームは、俺の勝ちだった!
悔しそうに、上空で旋回している鳶を見たら笑いがこみ上げてきたが、もう一度手を上げると、鳶は懲りずに再び急降下してきたので、今度は遊んでくれたお礼にソーセージをくれてやった。
満足そうに、ソーセージを咥えた鳶は視界から消えたが、すぐに戻ってきて、俺の上空で「もっとよこせ」と催促をした。
ならもう一度遊んでやるさと、三本入りのソーセージの残り一本を取り出したとき、背後に人の気配を感じた。
「それ、もらえませんか」
こう言ったのは、今朝のホームレスの女だった。
俺は息を飲むほど驚いたが、関わりたくないという気持ちと嫌悪感が湧き、すぐにベンチから立ち上がり、その女を無視して歩き出した。
少し歩いたところで振り返ると、女は俺を見ていた。
恨みも哀しみもない、なんの意思もない目で女は俺を見つめていた。
俺は踵を返し、その女に近づいてソーセージを渡した。
女は無言で、二度頭を下げた。
俺は民宿に向かったが、何となく嫌な気持ちが残った。
遊び心で鳶にソーセージをやる男と、「それをくれ」という女・・・
その情景を空から見ていた鳶は、どんな気持ちだったのだろう。
哀れな奴だと女を見たのか、ソーセージを渡しやがってと俺を見たのか・・・
そんなことを思いながら、俺は民宿に向かった。
船長の口利きがあったのか、値段のわりに民宿の夕飯は豪華だった。
女将が「明日は何時に出ますか」と聞くので、6時に出ると答え、もう一度風呂に入ってから床についた。
翌朝は、風が窓を叩く音で目覚めた。
まだ夜明け前で窓ガラスは藍色だが、今日の釣りを思うと心が弾み、完全に目が覚めた。
着替えてから部屋を出で洗顔をすると、階段横の小台に、すでに朝食の弁当が用意されたいた。
釣り客の朝は早いので、朝食は船で食べられるよう、おにぎりなどを用意してくれるのだ。
清算はしてあるので、あとは勝手に好きな時間に出るだけだ。
トイレを済ませ部屋に戻ると、かなり外は明るくなっていた。
海の状態を見ようと窓を開けると、風が強く、ウサギが飛んでいた。
海が荒れて海面に白波が立つことを、「ウサギが飛ぶ」、と漁師や釣り人は言うが、海の状態としては最悪のコンディションだ。
「凪いでくれよ」と声に出し、海に向かって手を合わせていたとき、またあの女が公園にいるのが見えた。
つづく
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