第5話 時空への旅は続く 〜幽玄の空間〜

いくつかの時空を行き来して、旅を続ける。そう、私は今ここにいるが、時間の経過によっては、突然見知らぬ街にいて、呆然としている。しかし、必ず元の、いや、どこが元なのか分からないのだが、今いるこの世界に帰ってくる。もしかしたら、違う次元で生きる私は、やはりその世界に戻ると思っているのかもしれない。


 家族でドライブをした帰り道のこと。

黄昏時のほの暗い道を、車は家路に向けて走っていた。

 見慣れない七叉路の交差点の赤信号で車は停止していた。

 私は突然、ここで車から降りて、この近くのとある家に行かなければいけないと思った。

「どうしても行かなくてはならないから、この近くで待っていてちょうだい。」

夫にそう告げると、10歳になる長男が、何処にいくのかとしきりに尋ねる。私はどう答えて良いのか分からない。自分でも、どうしてその家に行かなくてはならないのか、不思議な気持ちでいたからである。

 娘は当時二歳だった。真っ赤なジャンパーを着ていたが、その赤いジャンパーは普段よく着せていたものだった。

 私は娘を連れて車から降りた。どうして娘を連れて行かなくてはならないのか、それも不思議なことであった。

 

 私はしっかりと娘と手を繋いでいた。娘の歩調に合わせて数分歩くと、大きな屋敷に着いた。私はその見慣れない家を見あげながら、確かにここの家に来る必要があったと確信していた。

 開いていた門を通り抜け、玄関の前に行き着いた。硝子と寄せ木細工で出来た引き戸の玄関扉でその扉の前には、大きな染め付けの壷が置いてあった。

 

「ここでママを待っているのよ、決して何処へもいってはダメ、ここから動いてはいけないのだからね。すぐに戻ってくるから、ここにいてね。大丈夫だからね。」

そう娘に言い聞かせると、娘は深く頷いて固く緊張した面持ちで私を見つめてる。

 私は、娘が生まれてからただの一度も自分の身から娘を離したことはない。人に預けたことも、ましてや、ひとりでどこかに置き去りにするなどもっての外だ。それなのに、どうしてだか、娘をこの屋敷の中に入れてはいけないと思っていたのだ。

それなら、なぜ娘をこんなところに連れてくる必要があったのだろう。


 硝子の引き戸はガタガタと音をたてた。少し立て付けが悪い。

昔の屋敷にあるように、玄関を入るとそこには大きな屏風が置かれていた。屋敷は立派な造りだが、かなり古く静かで古色蒼然としている。私は「すみません、どなたかいらっしゃいますか?」と声を出した。しばらく待っても返事はない。 

 私は意を決して靴を脱いで家の中に上がり込み、広い畳の部屋を通り抜けた。見知らぬ人の家なのに、どういう訳か、そのまま帰ることは出来なかったのだ。

 墨絵が描かれた襖があり、私はその襖を開けて次の部屋へと向かい、豪奢な絵の描かれた襖を開けた。


 目にしたものは、この世の光景ではなかった。

 そこは無限に広がる空間だった。天井は判別することができないほど高く、光も通さぬ深い漆黒に包まれている。

 




 この空間の真ん中辺りに、果てしなく向こう側へ続く道が真っ直ぐに続いている。その道は暗闇の中に浮かんでいて、道の下の世界はうかがい知ることは出来なかった。全ての物も人も浮いていてるようで、それになにひとつ物音がしなかった。人の歩く足音も、息づかいや咳払い、話し声も何も聞こえない音の無い世界。話し声と書いたが、誰も話はしておらず、ひとりずつ歩いていて、沈黙している。彼らは真っ直ぐに無限の彼方へと歩いていくのだ。

 

 私はこの果てしも無く広がっている空間の入り口に立っていた。道は両側の世界を隔てている。

 その道の右側には、同じように無限に広がる柱だけの部屋また部屋、そして、その骨組みだけの柱の部屋に所狭しとびっしり仏像が置かれている。いや、浮いていると言った方が正確かもしれない。その柱で区切られた部屋には床があるのかどうか全く見ることはできない。阿弥陀如来、お釈迦様、大仏、菩薩様、金剛力士像などありとあらゆる無数の仏様が真っ直ぐに続く空間に無限に置かれているのだ。上は天高く聳えるように、下は地球の裏側まで行ってしまうのではないかと思われるほど深い。上下何段もあり、大きな仏像の下に小さな阿弥陀様、金剛力士像の上にお釈迦様という具合に。この世の様子ではない。

 

 道の左側は、怖ろしい闇が続いている。右側は輝くような世界、左側は目を凝らしても何も見ることが出来ない漆黒の世界。その闇の中には、目を凝らしても見えない何かがうごめいているように思った。星が浮かんでいるのか、宇宙なのか、それとも地獄の様な怖ろしい暗闇なのか、皆目見当も付かない。


 私はしばらくその場に呆然と立ち尽くしていた。

 やがて、歩いていく人々の後ろ姿を見ながら、とても安らかな気持ちになり、自分もあちらの方へ歩いていきたくなった。なんて安らかで静かで調和に満ちた世界だろう。見知らぬ世界なのに、何も怖さを感じなかった。逆に、何かに守られているような深い愛と慈しみを感じたのだ。

 ああ、どんなところに行くのだろう。私も歩いて行いていきたいな、そうよ、歩いていきましょう・・・魔法にかかったように、何かに導かれるように片方の脚をその空間に出した瞬間、娘を玄関の前に置き去りにしてきたことを思いだした。私は急に現実に引き戻され、必死の思いで足を引っ込めた。

 娘は無事でいるのだろうか・・・。矢も楯もたまらず私は大急ぎで玄関へと引き返した。

 私は一体何をしていたのだろう。可愛い娘を置き去りにして、娘に何かあったら、私は生きていくことはできないだろう。なんて自分は馬鹿なことをしたのだろう。心の底からこの屋敷に来たこと、娘をひとりにしたことを悔いた。

 

 夢中で硝子の玄関を開けると、娘はその壷の前に居て、私の顔を見ると心から安堵の表情を浮かべ微笑み、私の手をギュッと握った。

 私は娘を抱きしめて、ごめんね、ひとりにして・・・怖かったでしょう、早く帰ろうね。

 娘を抱き上げ、逃げるようにその屋敷を後にした。

 すぐに車は見つかり、遅いから心配していたよ、大丈夫か?と言う夫に、早く車をだして!早くここから立ち去りましょう、早く家に帰りたいと叫ぶように夢中で言った。


 あの世界は、あの世に続く道であったのかもしれない。あのまま歩いていったら、私の命は消えていたのか・・・。でも、娘が私を救ってくれたのだ。娘のことを思いだしたから、私は死なずにすんだのだろう。


 もし人の命が消える時の様子であるなら、何も恐れることはない。

現世と黄泉の国の境目を漂っていたのだろう。現実の時間や空間ではない、異次元の世界を垣間見たのかもしれないと信じている。

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時空への旅は続く 織辺 優歌 @poem_song_6010

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