第4話 週末のエレベーター


 図書館で借りたままの本が二冊あるのを忘れていた。返却日はとっくに過ぎている。自宅アパートから十分も歩けば最寄駅に着く。その駅ビルの七階が図書館の分室になっている。そこを目指してエレベーターが上昇している間、フロアを知らせる数字が点滅しているのをぼんやり眺めていた。金曜日の夕刻。

 JRと地下鉄、少し歩いたところには私鉄まである最寄駅は人口密度が高く、平日の昼間だろうと週末だろうと人が途切れることがない。大学へ行くにはここから都心に向かって三駅行ったところで乗り換えて二駅。そこから徒歩で、移動に要する時間はトータルで四十分ぐらい。バイトしている法律事務所はさらにその先。大学とバイト先と、「53rd & 3rd」それから自宅アパートを行き来する毎日。俺が息をしている世界は小さく狭い。


 一、二、三と声に出さずに数えて七階まで。返却カウンターにいる妙齢の女性は、文庫本と写真集の形の違う二冊の本をトントンと揃え「次回からは遅れないでください」と事務的に言った。金曜の夜になにか予定でもおありなのか、いつにも増して香水が匂う。

 読みたい本はあるけれど、探す気力も湧いてこない。カウンターのそばの「今週新しく入った本」に行儀よく並んだ本の背中を一瞥して、数分前にくぐったばかりのドアから出た。そんなことをしている間もぼんやりと、司さんのことが頭の片隅にある。一晩寝ただけの相手との、たった一晩の出来事をこんなにも思い返している。思い返しているけど、俺はそういえばあの人の苗字も知らないんだ。こんなことなら電話番号とかアドレスとか、ちゃんと聞いておけばよかったのかな。


(……聞いてどうする? お前は自分からあの人に連絡するのか?)


 いや、しない。そもそも俺は彼に、自分の名前すら正確に告げていない。電話番号やアドレスを知ったところで、どうやって連絡を取るというんだろう。その前にどうやって自分を名乗るんだよ。

『53rd&3rdのマスターの紹介で先月会って、あなたとセックスした男です。また会えますか?』なんてメールを送るのか? 今気づいたけど、それってアダルトサイト絡みの迷惑メールとなんら変わらない。そんなもの絶対に読みもしないで捨てられる。

 あ――……。

 そう考えていくと、あの人に続いていく可能性のある道がどんどん絶たれていく。ダラダラ考えているぐらいなら、53rd&3rdに行ってみるのがいちばんの早道で、いちばん正しいやり方なのかもしれない――そんなところに自分の気持ちが着地したと同時に、一階に到着したエレベーターのドアが左右に開いた。そして、開いたドアの向こう側で俺の真ん前に立っている人と目が合った。その瞬間、思わず息をのんだ。




 前髪を上げ、小ぶりな耳の形が分かるぐらいさっぱりとした短い黒髪に、o.3ミリの細いペン先でふちどったような切れ長の目。ネクタイを緩めるような仕草をしたその人は、間違いなく俺がここ何日間もずっとずっと頭の中に思い描いていた人だった。


「あ……」とか、「あの……」とか言いかけて、なんとあいさつすればよいのかわからず「司さん、ですよね?」と聞くのが精いっぱいだった。エレベーターで俺の後ろに立っていた人が、「失礼」と言いながら右肩にぶつかって出て行ったのにハッとして、目の前に立っていた司さんと思しき人の腕を引っ張って、エレベーターホールの隅へ向かった。この前逢ったときとは違い、司さんはスーツを着て黒いブリーフケースを手にしていた。仕事中だから当たり前か。


「あの……、司さんですよね?」

 呼吸を整えてもう一度聞いた。自分でも驚くぐらい心臓がドキドキ、バクバク高鳴っている。

「この前あの、……53rd & 3rdのマスターの紹介で会った……、サキです。……お、覚えてますか?」

 司さんははじめ、きょとんとした顔つきをしていたけれど、数秒もすると「あぁ」と表情を変えた。

「覚えてるよ。こんなところで会うなんて……って言いたいけど、そういえばこの近くだったね。店も、きみのアパートも」


 金曜日の十八時過ぎ。駅ビルの中のファストフード店の隅っこで、司さんと俺はテーブルをはさんで向かい合っていた。取引先との打ち合わせを終えて直帰するところだった司さんと、図書館に本を返却してミッションは終了。あとはそこらへんをぶらぶらするか帰るか、それとも53rd & 3rdを覗くか。それだけの俺。

「……あの、あれからお店には行きました……、か?」

 あれから。三週間前に、俺と司さんが寝てから。

「ちょっと忙しくてね。行ってない。……それより、もっと普通にしゃべれば? この前は、そんなぎこちない話し方してなかったよね」

 そう言って司さんは笑った。記憶の中にあるあの日と同じように柔らかい表情。俺、あの日どんな話し方をしてたんだろ。年上の人だってことは聞いてたから、甘えたような喋り方をしてたのかな。いつもみたいに、調子に乗って適当にあしらうような口のきき方をしていたのかもしれない。なんか、ダサいな。

「あの……、ずっと聞きたかったんだけど、……マスターは、司さんに俺のことをどうやって話したのかなって。どんなヤツだって話して、それで司さんを誘ったんですか?」

 そう。『誰かいい人がいたら紹介してください』なんて軽口叩いて、実際マスターはこれまでに何人か店に来るお客さんを紹介してくれた。俺としては、大学とかバイト先とか居心地がいいわけじゃない世界とは別の、自分が気持ちいいと感じる世界で適当に遊べる人がいればいいぐらいに思っていた。これまで紹介してくれた人もそんな感じ。店で俺を見かけて気に入ってくれた人や、交際が前提なのではなく後腐れのない一晩だけの関係を望む人たちばかり。面倒なことも厄介なことも起こっていない。今、目の前でコーヒーを飲んでいるこの人も、そう。ただ、珍しくマスターが「あいつはいいやつだよ」と言っていた人。

 司さんは頬づえをついたままカップを持ち上げ、口まで運んだ。

「『可愛い男の子がいるんだけど』、って。で、たぶん性格もちょっと似てるところがありそうだから、合うんじゃないかなって」

「へえ」

「それと、『お前は手がきれいだからたぶん合格』って」

 たしかにそう言われてみれば司さんの指はまっすぐで細長くて、俺の好きなタイプだった。

「手とか指は、きみのフェティッシュなの?」

「そうなのかもしれない。っていうか今、『フェチ』じゃなくてフェティッシュって聞かれたの、ちょっとグッときた」

「そりゃあよかった」

「……ごつごつしてガサガサの手にさわられるより、つるつるですべすべの指に触れられたい。司さんはそう思わない?」

「そんなこと、これまで考えたこともなかった」

 司さんはそう言いながらカップの中のコーヒーを覗き込み、俺のほうに視線を向けて、一言添えた。

「だって、たいてい相手は男だし」

 それからぷつんと会話が途切れた。

「これまでにも、あの店で知り合った誰かと寝たことはあるんですか?」とか、知りたい気もしたけど、それを聞いたところでどうなるんだろう。「きみには関係ない」と言われたらそれまでだ。俺だって、司さんの前に何人の男と寝た?

 気まずい空気なんかじゃないけれど、黙ったままでいると、次に口を開いたときは「じゃあ、これで……」と別れの挨拶になりそうな気がしてきた。53rd & 3rdに行けば逢えるかもしれないけど、偶然こんな形で逢うことなんて、もう二度とないかもしれない。年齢も、中身もどう見ても自分より大人な司さんを相手に、強がるのもカッコつけるのもバカらしく思えてきた。

「俺、川崎かわさきかおるって言います。『カオル』って女みたいな名前がいやだから、あんまり人に言いたくなくて」

「それなら一緒。おれも『つかさ』って名前を女みたいだってからかわれたことが何度もあるよ」

「ねえ。司さん、今夜、これから時間ありますか?」

「ない」

「うそっ」

 反射的にそう返すと、ふふん、と笑って司さんは組んだ脚を下ろした。

「あたり。嘘です。別に誰とも約束していないし、特に予定もないよ」

「じゃあ、司さんの家に行きたい。招待してください」

「おれ、ここから快速に乗っても三十分ぐらいかかるところに住んでるんだけど」

「だったら、急ぎましょうよ」

「……なんで?」

 今にも立ち上がろうとする俺を見ながら、最後の一口を飲むためにカップを口にあてたまま、司さんがククッと笑った。

「なんでって……、そんなの、早く二人きりになりたいからに決まってるでしょう!」

 不用意に大きな声を出さないように気を付けたつもりだったけど、少し離れたテーブルにいた女性がサッと顔を上げてこっちを見た。自分の顔がカァッと赤くなるのがわかった。その様子を、おかしくてしょうがないとでもいうように人差し指の背で鼻の頭を擦るような仕草で眺めながら、司さんは席を立った。そして、トレーを手に少しだけ身体をかがめて俺の耳元で囁いた。

「坊や、そんなに慌てなくても明日は俺、仕事休みだから」



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