about a boy

boly

第1話 昨日出会ったひと


 すぐそばでなにかがはらりと動いた気配がして、ゆっくりまぶたを開いた。昨夜のどしゃ降りが嘘みたいに、カーテンを通してキラキラした日差しが部屋に入り込んできている。

 たしか。昨夜は雨の中をあの人と一緒に店からここまで帰ってきて、ずぶ濡れになった服を洗濯機に突っ込んで、冷えた身体をシャワーで温めて、一緒に寝た。……そうだった。

「悪い、起こしちゃった?」

 たぶんさっきまで隣に寝ていたはずの人。その人が、ベッドの端に起き上がり肩越しに俺を見ながら、申し訳ないと言いたげな表情をしている。

 昨夜、店でマスターが紹介してくれて、初めて会った人。名前は……なんだっけ。何歳ぐらいって言ってたっけ。呑んで、話しているうちに「じゃあ……」とかなんとか言って、狭いワンルームのこの部屋へやってきて、俺を抱いた人。


 マスターっていうのは、近所にある男性専用のバーのマスターのこと。

 前に、適度に冗談っぽく「誰かイイ人がいたら紹介してくださいよお」とマスターに言ったことがあって、そしたら本当にこれまでに二人、お店の常連だったお客さんを紹介してくれた。目の前にいる彼は三人目。マスターの人選に今のところハズレはない。

「今日は、仕事……ですか?」

「そう。ごめん、今日いつもより早いから」

 そう言いながら彼がシャツの袖に腕を通すのを、眺めていた。だんだん、意識が覚醒してきていた。ゆっくりと上体を起こし、彼のほうへ腕を伸ばして羽織ったばかりのシャツに手を滑り込ませてめくり上げ、背中に唇をつけた。肩甲骨の稜線に沿って唇を這わせながら、昨夜この人が俺にしたことを少しずつ思い返していく。弾力のある肌の感触が心地いい。

「……『ごめん』なんて言わないで、帰る前にもう一回だけキスして」

 俺のその言葉に彼は驚いたような顔でくすっと笑い、「きみ、そんなこと言うんだね」と俺のほうへ身体の向きを変えて、唇にやさしく触れてくれた。その瞬間、両腕を彼の首に回してちょっと乱暴にぐいっと引き寄せ、もう一度ベッドに倒れ込んだ。

「ちょ……っ!」

 ふふ。驚くよね。そりゃそうだよね。でもね、寝ぼけていても俺だって男だから。腕力には少々、自信があるんだよ。

「ごめっ、きょ……は、」と言いかけた彼の声にかぶせるように、言った。

「もう一回だけ。もう一回、昨夜みたいに気持ちイイのをして?」

 そう言うと、彼の唇を開いて舌を入れ奥へ奥へと踏み込んだ。最初はやわらかく。でも、だんだん彼の舌を動けなくするように口の中で追い詰める。そんなキスを何度も何度も繰り返す。

 両脚は、彼の下半身を抱え込むようにして押さえつけている。一晩で妙な執着が生まれたのか、昨夜彼がしてくれたことの余韻が残っているのか、理由ははっきりしないけれど彼の身体を離したくなかった。

「……んっ……、ん、ぁ…………」

 最初はこわばっていた彼の身体が徐々に温まっていく。俺の無茶な要求を受け入れるために、彼の中にあるいくつもの扉がひとつずつ少しずつ開いていくのがわかった。

「一回、だけだよ……」

 ぐるんと上下が入れ替わり、彼の体温が残るベッドに背中をつけ彼の顔を見上げる。さっきよりうんと熱っぽく湿り気を帯びた声。そのイイ声を聞きながら、さっき留めたばかりのシャツのボタンをはずしていく。仕事は大丈夫? なんて聞かないよ。その代わりに、「どうしよう? あなたを忘れられなくなったら」と、わざと甘ったるい声音で言ってみる。

「すぐに忘れるよ。また、誰かに抱かれるんでしょう?」

 意地悪っぽい微笑を浮かべて彼は言った。昨夜たしかに名前は聞いた。けれど、全然思い出せない。アドレスや電話番号、普段はなにをしている人なのか、そんなことも知らない。それでも、身体を密着させている間のなにもかも忘れるぐらいに熱くて、頭の奥が灼けるようなひとときさえあれば。それを俺たちは共有している。

 彼もきっと、今夜は俺の知らない別の誰かと寝るんだろう。忘れるとか、忘れられないとか、そんなことは適当に言っているだけで、今が気持ちよければ実際は別にどうだっていい。それは彼も同じだろう。



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