第2話 53rd & 3rd


 マスターの店に通うようになってから一年ぐらい経った。バイトの帰りにまっすぐ家に帰りたくなくて、アパートがある北口とは反対の南口へ出て、大通りから一本二本と先へ進み、そこから細く伸びた狭い路地をうろうろしていたときに、雑居ビルの壁に貼り付けられたブリキの小さな看板が目に留まった。白地に黒文字で「bar 53rd&3rd」と書かれている。ラモーンズの曲『53rd&3rd』のイントロ、あのモタッとしたギターが頭の中で鳴り始める。その曲名を拝借したスコットランドのレコードレーベルから、俺の好きなバンドがレコードを出していた。吸い寄せられるように雑居ビルの狭い階段を上がっていった。


 階段を上った左手にその小さな店はあった。ドアを開けると、薄暗いカウンターの中にいた男性が低い声で「こんばんは」と声を掛けてくれた。今でも思うのは、あのとき、「こんばんは」じゃなく「いらっしゃいませ」と声を掛けられていたら、変に構えて気後れしていたかもしれない。


 カウンターのほかには窓際に二人掛けのテーブル席がひとつだけ。まだほかに誰も客はいなくて、こっちへおいで、というようにマスターに手招きされるままカウンター席へ腰を下ろした。俺は愛想が良いわけじゃないし、初対面の人と絶妙に会話を弾ませるスキルなんて持っていない。けど、マスターが作ってくれたナポリタンをつつきながら、近所に住んでいることや大学のことなんかをぽつりぽつりと話し始めていた。マスターはこの店が男性専用のバーだと教えてくれた。それを聞いてお店の名前に納得した。ニューヨークの53rdストリートと3rdアベニューが交差する角には、かつて男娼が立っていたという。ラモーンズの曲もそういうことを歌っている。それから週に一、二度バイトの帰りに「53rd&3rd」に立ち寄るようになった。


 一人、二人と常連客と顔見知りになりかけた頃にマスターから、「紹介したい男がいる」と言われた。たまに見かける男性客の一人が俺を気に入ったみたいで、もしイヤじゃなかったら二人でお茶でも飲みに行ってくれば、と。別に出会いを提供するわけじゃないけれど、とマスターは笑っていたけれど、顔なじみの店で客同士が意気投合することなんて別に珍しくない。俺は「ぜひ」と答え、三日後に店でその人と落ち合った。実際に口にしたのはお茶ではなかったけれど。


 その人が転勤でこの街を離れるまで、何度か寝た。最後に店で会ったとき、ぎゅっと抱きしめられて『また会えたら……』って涙目で言われたけど、別に寂しいとか悲しいとかは湧いてこなかった。悪い人じゃなかったけど長続きしたいなんて思ってもいなかったし、特定の誰かと付き合うとかましてや誰かのものになりたいとか、そんなふうに考えたことはないし興味がない。


 マスターには、紹介してくれる相手に関して条件を二つ提示した。

 ひとつは、乱暴なことをしない人。

 もうひとつは、手と指がきれいな人。

 それだけ。

 

 ギターを弾く人。絵筆を握る人。レジを打つ人。いつ頃からか、電車に乗っていても、教室の後ろの方の席で講義を聴いているときも、気づいたらこっそりと人の手や指を目で追っていた。細くてよくしなりそうな白い指と、適度に血管が透けて見えるすべすべした手の甲。できれば指輪もネイルもなにもない、プレーンな手と指がいい。それが男であっても、女であっても。


 高校の頃に告白されて付き合っていた女の子も、指のきれいなコだった。その手に触れたり、指をつないだりするのは好きだったけど、初めてキスしたときに、自分でもびっくりするぐらい違和感だけが残ったことをいまだに憶えている。何がどう違ったのか、上手く言葉にするのは難しいけれど、自分が欲しいと思っていたものは彼女がまとっているものではなかった。そんな気がした。


 大学に通いはじめて一人暮らしをするようになって、初めて男の人と寝た。バイト先で知り合ったその男性は、当たり前だけど俺よりも慣れていた。それが理由か回答になるのかはわからないけれど、そのときのような違和感は……、なかった。美しく咲いた花がたった一晩でしおれてしまうような、瞬間的な快楽と幸福感。俺が欲しかったのは、たぶんそれだったんだ。


 たった一回や二回身体を合わせるだけの相手の内面なんて、どうだっていい。親しくなりすぎて、ベタベタするのもされるのもイヤだ。誰か特定の人と付き合うと、そのうち飽きてしまいそうだから、ずっと一緒にいるのもイヤだ。世間一般では、俺なんかが思うのとは逆のやり方がいわゆる普通の恋愛関係なんだろうけど、自分にはまったくなじまない。できればいつも違う相手と寝たかった。


 理想を言えば、「その手に触れられたい」と魅了されてしまうような手と指を持つ男に抱かれたい。しなやかな手と指で思う存分に身体中を触れられ、穢されたい。むせ返るほどの快感に打ちのめされ、喘ぎ、感じ、何度でも絶頂に達するその一部始終を見られていたい。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る