第3話 みんなゲイだ、と彼は歌った


 午後の講義が終わってバイト先に向かう途中で交差点を歩いているとき、唐突に彼の名前を思い出した。マスターに紹介してもらった三人目の男性。二週間前に俺に抱いた、あの人。

 つかさ、と言ってた。

 たしか『司会の司と書いて、つかさと読みます』みたいな話をした。まだ酔っぱらう前に。で、俺は『俺のことはサキって呼んでください』みたいに言ったんだ。そうだ。

 司。つかさ。本当の名前なんだろうか。逆だ。偽名を名乗る必要なんてないよな。俺じゃあるまいし。俺はこれまで「53rd & 3rd」でマスター以外の人に自分の本当の名前を言ったことはない。マスターが紹介してくれた男性達の中には、一度だけじゃなく何度か寝た人もいたけど、いつも苗字の一部をとって「サキ」とだけ名乗っている。

 前に、「自分を大事にしろよ」と言われたことがある。まだ「53rd & 3rd」を知る前。いちばん初めに俺を抱いたバイト先の人に、あるときそう言われた。バイト先は法律事務所。時給が良かったのと、主な仕事はパソコン作業とときどき電話番。法律の知識は不要で服装も自由。茶髪も可という俺的に文句のつけようがない職場。

 俺より先に入っていた女性スタッフの中には、高学歴で高収入の弁護士センセイとお近づきになる機会を得るべく虎視眈々としている人もいた。俺は狙っていたわけじゃないけど、バイトを始めてから半年経つまでの間に二人の弁護士センセイと寝た。一人目は三十代の人で、所属する五人の弁護士の中で最年少だった。それが初めてのセックスの相手。二人目は妻子持ちで現在育休中の四十代。

 初めての相手は、ひと目見ただけで学生時代はずっと体育会系所属だったことが想像できるガタイの良い人、最初のうちは目を見て話すのも緊張した。頼まれた書類の作業でミスをしてしまい二人で残業する羽目になった数日後に飲みに誘われ、てっきりこっぴどく絞られるのかと思ったら、食事をした後にホテルに連れ込まれた。おカタい仕事をしている人はストレスが溜まりやすいらしい、という話はどこかで耳にしたことがあった。

 タクシーを降り、高校大学とラグビーをやっていたというその人に自分はこの後めちゃくちゃにされるに違いない……と身震いする思いだったけれど、ホテルの部屋で二人になると、その人は見た目からは想像できないほど紳士的に俺に接した。あっという間に分厚い肉体に組み敷かれた俺は、思いもよらない快楽を与えられると自分の身体がどんな反応をするのか。その反応を、快楽を与えた相手はどんなふうに楽しむのかをその夜初めて知った。


 三度目にホテルへ行ったとき、彼が俺の中に挿入ってきた。身体が灼けるように熱かった。好きだとか付き合おうとか、おれのものになれなんてことをその人に言われたことはない。ただ、さんざん行為に耽った後にその人が「おまえ、自分を大事にしろよ」とポツリとこぼした。こんなことしといて、おれが言っても説得力のかけらもないけど、とそっぽを向いたまま。

 自分を大事にする。

 大事に……って? なにをどうすることが「大事にする」ことなんだろう。

 薄い薄いヴァイツェンのグラスを、割らないようにそっと扱うのに似たような感じ? 人から大事にされるとか、自分を大事にするとか、それはどういうことなのか。どういう意味なのか、なにをどうすることが「大事にする」ことなのか、正直に言うとまったく分からない。

 肌をひっかけば、赤くなる。血がにじんで痛みを感じる。

 なにもしなければ、痛くもかゆくもない。

 その痛くない肌にクリームやオイルをすり込むのは、肌を守るため? 自分を守るため?

 俺の好きなきれいな手や指は、そうやって守って作られるものなのか。それが、「大事にする」ってことなんだろうか。

「よう。今日は早いんだな」と頭の上で声がした。事務所の入っているビルのエントランスで、二年前に初めて俺を抱いた人がこっちを見てうっすらと微笑んでいた。




 ときどき、消えてしまいたいと思うことがある。理由なんて特にない。俺の住む学生専用のマンションは、昼間は住人のほとんどがいなくなる。カラッポ。本当なら俺も不在のはずだけれど、昨日も今日も自主休講。三年だからもともと講義はそれほどない。住人達が誰もいない真っ昼間、昨日も今日も窓を閉め切って、大音量でレコードをかけ続けている。なにかに苛立っているのか、なにかがすっきりしないのか、自分でもよくわからない。よくわからないけど、気持ちはずっと下を向いたまま。これがもし女だったら、「生理前だから」とか理由がつけられるんだろうか。

 マンションの前の通りの道路工事の音。

 いないと思っていた上階の人間がベランダで洗濯物を干す音。共用スペースを行き来する靴音。

 たいして大きな音ではないのに、あらゆる物音が自分を浸食してくるようで、それに苛立ちと嫌悪のようなものを覚えて、ただでさえうるさい音楽のボリュームをさらに上げる。

 たまに、ぼんやりと思う。

「オール・アポロジーズ」という最後に収録された曲の美しさを教えるために、ニルヴァーナの『イン・ユーテロ』というアルバムがあるんじゃないか、と。ボロボロの普段着に包まれたあの曲の持つ崇高さを伝えるために、あのアルバムの曲はどれも、薄汚れて歪んだ音でできているんじゃないだろうか……と。

 ……こんな人間じゃなくて、どんな人間になればいい?

 ……みんなゲイだ

 そんなふうに歌っている声が頭の中を旋回する。

 天空に浮かんだ「世界」という名の手垢にまみれた楽園。それがスローモーションで滑り落ちていくさまをじっと見ているような、美しく破滅的なあの曲。あの曲を聴いていると自分の中のなにかが壊れ、崩れ落ちていくような気がする。俺自身が壊れて、崩れ落ちていくのか。もしそうであってもそこに救いはいらない。薄汚れていても濁ってはいない彼らの澄んだ音だけが、救い。


 怠惰な日々。自堕落な人生。

 自分ひとりで生きていくことは、どれぐらい楽しくてどのぐらい孤独を味わうんだろう。すべての人を拒絶するわけではないけれど、人とかかわることで自分を擦り減らしたくない。「誰かのためだから、がんばれる」というキャッチコピーを添えた看板をいつかどこかで目にした。目にして、へえとだけ思った。世の中にはそういう原動力で動いている人がいるんだなって。音楽が鳴っている間も、停まってからも、考えてもしょうがないことばかりが頭の中を駆け巡る。なにかを思い、考える余裕があるだけまだ救いがあるってことか。

 部屋を出て、外界に触れれば、少しでも気分は変わるだろうか。

 誰かがそばにいれば、ほんの一瞬だけでも、下を向きっぱなしの気持ちが救われるんだろうか。

 それがもしあの人だったら……? そんなことは、望むべくもない。

 ビールのグラスは、丁寧に扱うよりも力まかせに床に叩きつけて粉々に砕け散ってしまったほうがすっきりするときもある。俺の中の汚いものを吐き出すように。

「全部、出していいよ」とあの日、司さんは言った。ここにあの人がやって来て、翌朝俺が無理やり引き留めたとき。今のところ最後にした行為の最中に。

 それは違う意味で言ったんだけど、こうやって時間が経つにつれて、自分に都合の良い解釈や変換が加わっていく。どれもこれもすべて俺の誤解なのかもしれないけれど。


 マスターはときどき、『騒いで帰るだけの男や、寝る相手を探すためだけに来るヤツはお断りなんだよ』と独り言のように口にする。そんなんだから客商売には向いてないんだよなと苦笑いしながら。あの店を何年やっているのか知らないけど、常連の中でも長く通っているっぽい人には「最近、体調悪いんじゃないか?」とか、「忙しいんだろう? こんなトコ来てないで帰ってさっさと休め」みたいに声をかけているのを耳にしたことがある。誰でも受け入れる店じゃないけれど受け入れた客に対しては……、面倒見がいいというのか。そのマスターが司さんのことを『あいつはいいやつだよ』と言っていた。

 司さんはやさしかった。

 年上の人が好きだというはっきりとした認識はないしそうお願いしたことは一度もないけれど、マスターが選んでくれる相手はいつも俺より大人の男性ばかりだった。司さんと会って、「はじめまして」とあいさつして隣に座って、なにから話し始めたんだっけ。いろんなことを話したような、どうでもいいことしか話していないような……。ただ、切れ長の目が笑うとやさしいカーブを描くんだなと思ったんだ。


 裸になって身体を重ねる。その一瞬が気持ち良ければ、別にどうだっていいと心の上っ面のあたりで思っていた。そう思いながら、本当のところはあまりどうでもよくなかった。司さんと寝てから二週間とちょっと。その間、マスターの店には一度も顔を出していないし、あれから誰とも寝ていない。店に行けば、ひょっとしたらあの人に逢えるかもしれないし、マスターに聞けば彼の連絡先ぐらい教えてくれるかもしれない。

 実際は二、三度、店の前まで行き階段を上りかけた。

 けど。もし司さんに逢ったとして、なにを話すのか? 俺はなにがしたいのか? またあの人と寝たいだけなのか? なにもかもが「?」ばかりで結局店の扉を開けることはせず引き返した。

『サキくん』と、あの日ベッドで司さんが何度かそう呼んでくれたのを憶えている。もしも、この次に彼に逢えるなんてことがあったら、今度は本当の名前を言おうか。……そうやって気がつくと、司さんのことを考えている。最近ずっと。



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