後編


「……!?」


 思わずウィルが顔を上げたとき、その女性はいなくなっていた。


 ウィルはスッと椅子から立ち上がり、不自然にずっと眺め続けたせいで一言一句違わずに暗記してしまった予定表をテーブルに置く。


 そして、テントの出口に行き外を見回した。そこにはウィルの側近・ドウェインがいる。


「殿下、どうかされましたか?」

「今の……食事を持ってきた女性はどこへ」

「……女性? ああ。今の女性騎士ですか。走ってどこかへ……」


 そう答えかけたドウェインの目が大きく見開かれた。


「も、もしかして、殿下! やっと女性を見初めてくださいましたか!!」

「違う」


 ウィルは即座に否定したが、すでに遅かったようである。


「彼女のことをすぐに探させましょう! この王国騎士団で殿下に食事をお持ちする任を承るほどの女性騎士。きっと名家の出身です。側妃にできましょう!」

「違うと言っている。ただ……ちょっと気になることを言っていただけだ」


 一人で盛り上がるドウェインを制したウィルは息を吐く。


 頭脳明晰、眉目秀麗なこの国の王太子であるウィルには、過去、苦手なものが一つだけあった。それは、にんじんである。


 大きくなってからは何も言わずに食べてはいるが、あの濃くて微妙に臭みのある風味がどうしても好きになれない。小さな頃は特に顕著で、おぼろげな記憶の中ではあるおまじないをもとになんとか食べていた気がする。


 そのおまじない――『おいしくなぁれ』


 初恋の女の子が小さな手でかけてくれる、単純な呪文だ。


 初めは、ただ本気でおまじないが無ければにんじんが食べられないような気がしていた。


 でも、少し大きくなったウィルは、そのおまじないをかける真剣なかわいい横顔が見たくて、にんじんが食べられないふりをするようになっていた。


(そのうちに、俺は王宮へ……。アミィは元気にしているだろうか。もう18歳。誰かと一緒になってしまったかもしれないな)


 ウィルが平民として暮らした日々のことを、国はできる限り隠していた。


 それはウィル本人に対してもそうだった。小さな頃に暮らしていた家のことや仲が良かった友達のことは何一つ記録として残されていない。頼みの綱の母ももういなかった。


(俺は、アミィに『必ず迎えに行く』と約束した。だが……という娘がいるを調べても、何の手掛かりもなかった)


 ウィルの心の拠り所は、ぼんやりとした思い出。


 得意げにおまじないをかけてくれる勝気な少女を、雷の日に抱きしめたときの温もりだった。


 きっとあれが初恋だったのだろう。そして、それを今も忘れられていない。


 ウィルは自分の立場を理解している。近い将来には正妃を選び、安定して王位を繋いでいくために側妃を置かなければいけないことは分かっている。


 しかしその一方で、隙あらば年頃の令嬢を自分の側に置こうとする周囲に嫌気がさしていた。


 テントに戻った彼は、アメリアが運んできた夕食を眺める。


(都合よくアミィがこんなところにいるはずはない。想いすぎて、幻聴を聞いてしまったのかもしれないな。……でも、顔ぐらい見ておけばよかった)


 確かに、シチューにはにんじんが入っている。あの『おまじない』の想い出は、ウィルがずっと心に秘めていた大切なもので、誰かに話したことなどない。


「……」


 しばし考えた末、ぎゅっとこぶしを握り締めたウィルは、もう一度テントの外を覗くとドウェインに告げた。


「……先ほどの女性騎士を探しておいてくれるか。この遠征訓練が終わった後で構わない。……王宮に来るようにと」

「で、殿下! すぐに」

「すぐにではない。この訓練が終わってからだ」


 これまでにない種類の命令に高揚するドウェインを、ウィルは頬を赤くし、厳しく制したのだった。





「私に……王宮へ行けとおっしゃるのですか?」

「ああそうだ。明日の午後三時。お茶の時間に君をご所望だ」


 三日間の遠征訓練を終えて同僚たちが撤収作業に勤しむ中、アメリアは王国騎士団の騎士団長に呼び出されていた。


 騎士団長は、普段は言葉を交わすことすら叶わない相手だ。部隊長とともに呼び出されたことも驚きだったが、さらにそれを上回る内容の命令にアメリアは狼狽する。


(一体どうして……)


 正直なところ、アメリアには心当たりがあった。ウィルに食事を運んだ時に『不敬だ』とこっぴどく叱られたことと、その後大声で暴言とも取られかねない発言をしたことだ。


 アメリアが知っているウィルならあんなことでは怒りはしないが、この前少しだけ接した時のピリピリした冷酷な王太子殿下のウィルなら怒っていても不思議ではない。


(武勲をたてて爵位を賜るどころか……お父様が子爵位を没収される可能性もあるわ……)


 アメリアは青くなる。


 ウィルとは幼い頃別れて以来一度も会っていない。けれど、成長して姿形が変わっても、一目会えばウィルは自分のことを分かってくれるような気がしていた。


 でも実際には違った。一目会うどころか、彼はこちらを見ることすらしてくれなかったのだ。


(正妃に相応しいと言われる伯爵位以上を賜ればウィルの側に行けると思い込んでいたけど……。よく考えたら、そんなはずはないのに。結婚の約束どころか、私のことなんて全然覚えていなかった)


 ――アメリアは、唇をぎゅっと噛みしめたのだった。




「うまくやったな」


 騎士団長が去った後、アメリア直属の上司である第一部隊長はニヤニヤして言う。


「ふざけないでください! うちが没落したらどうしてくれるんですか……」

「それはないだろう。もしそういう理由なら、俺が処分を受けるのが先だろう。勝手にアメリアを王太子殿下のところに行かせたと」


「確かに……おっしゃるとおりです。もしうちが降爵されるようなことがあったら、部隊長の名前を出してきます」

「とりあえず、その汗臭い騎士服じゃなく、きちんと令嬢っぽい格好で行くんだぞ。

「……わかっています」


 不本意だが、これ以上不敬で罪を重ねるのはごめんである。父と家のためにも、きちんとしなければならない。




 一方、王宮では、はりきったドウェインによってアメリアを迎え入れる準備が急ピッチで着々と進んでいた。


 現在の国王が即位してからはしばらく使われていなかった、王太子の妃用の棟――『後宮』にたくさんの使用人や侍女たちが行き交う。


「ウィル殿下が見初められた方ってどんな方なのかしら」

「絶世の美女とうたわれるファルド公爵家のヴィクトリア様や、名家の令嬢方に見向きもされない殿下よ? どんなお方なのか想像がつかないわ」

「ほら、手を動かせ! 今日の午後に到着すると聞いている」


 ドウェインが上機嫌で侍女たちを蹴散らしながら続ける。


「いいか! 殿下がやっと声をかけたお方だ。絶対に逃してはいけないぞ!」

「「「はい!!!」」」


 ウィルにはとにかく人望がある。良家との縁談を断りまくっているため、貴族からの評判は『気難しい王太子殿下』ではあるが、そこが絡まなければ有能で部下たちをよく気遣う優秀な王太子だった。


 この国では20歳で正妃との婚約を発表する伝統がある。しかしほとんどの王子は12~13歳で後宮を持ち、自分の後ろ盾になりうる有力貴族の娘を召し上げるのが一般的だ。


 ウィルにもそうして欲しいとドウェインは強く進めてきたが、主君が首を縦に振ったことはなかった。


(今日、おいでになると聞いているアメリア嬢にはお茶をするだけだと伝えてあるが……絶対に逃してはいけない)


 国の繁栄を危ぶむドウェインが張り切りすぎるのも、無理はなかった。




「すごいわ……なに、ここ……」


 王宮に到着したアメリアが通されたのは、謁見の間ではなかった。


 政務が行われる中央の棟ではなく、少し外れて庭園に面し、離宮にも見える白亜の棟。ふかふかの赤い絨毯の上を案内されて着いたのは、天井が高くて豪奢なシャンデリアや絵画が飾られた、まるでサロンのような部屋だ。


 でもたくさんの椅子やテーブルはなくて、置かれているのは瀟洒な造りの応接セットが一組。奥には二つの扉が見えて、別室に繋がっているようだ。


(なんて華やかなの……。まるで、小説に書いてあるお姫様たちが集う『後宮』の一室みたい)


「アメリア様、お荷物はそれだけでしょうか」


 ニコニコと微笑む侍女の問いに、アメリアは首を傾げた。


「はい」

「もうすぐウィル殿下がこちらにいらっしゃいます。何かお手伝いをすることは?」


 その問いにも、目を丸くする。


 アメリアは、遠征訓練後きちんと家に帰り、湯浴みをして三日間の汚れを落とし、すっかり着慣れてしまった騎士服ではなくドレスを身につけて家を出てきた。


(もしかして……私、王国騎士団に居すぎて汗臭くなってしまった?)


 くんくん。


 微笑んだまま、さりげなく自分の腕の匂いを嗅ぐアメリアの仕草を見て侍女は慌てる。


「申し訳ございません! そういうことではないんです! ただ……ウィル殿下がご令嬢をお招きになるのが初めてで。つい嬉しくて、余計なことを言ってしまいました。お許しくださいませ」


(ウィルは……美しい名家の令嬢方に囲まれて暮らしているのかと思ったけれど……そうではないのね)


 正妃になりたいという野望を抱えつつ、国の繁栄を考えて側妃の存在は仕方がないと思っていたアメリアは、意外な事実に心が明るくなる。


 ……と同時に、これからウィルに会ったところで彼は自分のことを覚えていないのだという事実も思い出して落胆した。


 遠征訓練の初日の夜、ウィルに存在を忘れられていると思い込んでから、アメリアは完全に上の空だった。


 もちろん、きちんと訓練はしたし任務もこなした。でも、期待を大きく超えてやろうという気概が起きない。


 侍女がお茶の準備をするのをぼうっと眺めていたアメリアは、ふとあることに気が付いた。


 アメリアの前には、食べきれないほどのお茶菓子が準備されている。クリームがたっぷりのったカップケーキに、ドライフルーツ入りのクッキー、キュウリのサンドイッチ。ほかにも色とりどりの果物に、美しい形の焼き菓子たち。


(私は不敬への咎めを受けに来たわけだけれど……こんな好待遇を受けていいのかしら)


「何かございましたら、何でもお申しつけくださいませ! 私は扉の前で待機しております!」


 テーブルの上に鈴を置くと、侍女は嬉しくてたまらないと言った表情を浮かべて退出していった。


 大量のお菓子を前にアメリアが固まっていると、コンコンと扉をノックする音がする。


「……!」


 誰が到着したのかを瞬時に察知したアメリアは、スッと立ち上がる。

 

 扉から入ってきたのは、予想通りウィルだった。


 アメリアの姿を認めた彼は、ビー玉のように透き通った碧い瞳を真ん丸にして固まった。全身で『信じられない』を体現している。


(一体、どうしたの……!?)


 時が止まること、数十秒。


 いまだ発言は許されていないが、しびれをきらしたアメリアは口を開いた。家の没落を防ぐために、いち早く謝罪をせねばならないのだ。


「アメリア・ジョアン・ボルドリーと申します。王立騎士団の第一部隊に所属しております。先日の遠征訓練では無礼を働き……」


 そこまで自己紹介をしたところで、ウィルがぽつりとつぶやいた。


「こんなに美しい人だったのか」

「……え?」


 この前、夕食を運んだ時の冷酷すぎる態度からはおおよそも想像がつかない言葉に、アメリアは思わず間抜けな声を出す。


 彼はこうやって女性を口説くタイプなのか。『令嬢を招いたことはない』と言っていたさっきの侍女は嘘を吐いたのか、と勘違いしかけたアメリアの思考は、次の彼の言葉でかき消される。


「俺の記憶の中のアミィは……まだあどけない表情の子供なんだ」


 その響きで、アメリアはすべてを知った。一瞬で誤解は解けて、家の没落への懸念も頭から消えていく。


「……私の中の、ウィルもです……」


 アメリアの口からはなかなか言葉が紡げないのに、目には涙ばかりが溢れる。会えたら、目を見てくれたら。この10年間、話したいことをたくさん積み重ねてきたのに。とアメリアは必死に瞬きをした。


 そうしているうちに、部屋に数歩入ったところで固まったままだったウィルが、ゆっくりとアメリアのほうに近付いてくる。


 そして、優しくアメリアの手を取った。ごつごつとした、節くれ立った手。記憶の中にある彼の柔らかく温かい手とのあまりの違いに、彼女は長い年月が流れていたことを知る。


(私の手……女らしくないわ)


 ウィルのところに行くために、アメリアの手もまた騎士の手となっていた。


 手の皮がところどころ厚くなっていて、ほかの令嬢たちが楽しむような飾りはなにもない。急に恥ずかしくなってしまったアメリアは手を引こうとしたが、ウィルがそれを許してくれなかった。


「……アメリア。第一部隊所属と?」

「……はい。騎士学校を出てすぐに、配属されました」

「凄い。頑張ったんだね」


 ウィルは純粋に感嘆した様子だった。第一部隊は王国騎士団の中でも精鋭ぞろい。希望を出しても並の成績では入れないからだ。


「あのかわいいアミィの夢が騎士になることだったなんて、意外だ」

「違います」


 何も分かっていない彼に、アメリアは頬を膨らませて続けた。


「ウィルが迎えに来てくれないから……武勲を立てて、私が迎えに行こうと思ったのよ」


 それを聞いた瞬間、ウィルの瞳はまた一段と大きく見開かれる。アメリアはそれ見てやっと実感が湧いた。血の滲むような努力は実ったのだ、と。


「……抱きしめても?」

「ぇえっ? それは……」


 アメリアが戸惑って何も答えられない間に、もう大きな温もりに包まれた。あの、雷の夜にアメリアのことを心配してくれたウィルの姿がよみがえって、アメリアの瞳からはまた涙が零れる。


 離れていた10年間の隙間を埋めるように、ウィルはアメリアを抱きしめたのだった。




 ところで、初めは優しく包んでくれただけだったのに、アメリアを包む腕の力はだんだん強くなっていく。アメリアは若干もがいたが、腕が解かれることはない。とにかく戸惑っていた。


「ウィル……く……く……苦し……」


 アメリアのドレスの裾が、さっき侍女が置いて行ってくれた鈴にぶつかる。それはちりんと涼やかな音をたて、一秒も経たないうちに、扉が開いてさっきの侍女が顔を出した。


「……ウ、ウィル殿下!? せっかくいらっしゃったご令嬢を窒息させるおつもりですか!」


 なぜか後ろにはほかの使用人たちもいる。王国騎士団の訓練にもたまに顔を出す、彼の側近であるドウェインの顔も見えたので、アメリアは一瞬で現実に引き戻された。


 やっとアメリアを解放してくれたウィルは言う。


「ドウェイン。正妃は、伯爵家以上の令嬢から選ぶという慣習は……もういいだろう?」


「まぁ。そうですね。慣習ですし、もういいんじゃないでしょうか。……背に腹は代えられませんから」



 ――あの日。王国からの使いとしてウィルを連れて行った男は、うれしそうに微笑んだのだった。




――――――


【あとがき】

お読みいただきありがとうございました。

過去「小説家になろう」に掲載していた短編です。

この短編を長編化したものがアマゾナイトノベルズ様から電子書籍化されています。お気に召してくださった方はそちらもぜひ!

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その令嬢は騎士になって初恋の人を迎えに行く 一分咲🌸生贄悪女、元落ち⑤6月発売 @ichibusaki

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